第10話 Immortal 

文字数 2,703文字

 エリクソンは早朝に出発し、キリエとヘファイストスで見送った。
「なるべく早く戻る。万事上手くいくように祈っていて」
 そう言ってエリクソンはキリエと抱擁を交わす。
「道中気をつけてね」
 キリエは笑顔だが不安がっているのは明らかだ。
「兄上、キリエを頼みます」
「任せておけ。気をつけて行ってこい」
 ヘファイストスは朗らかな調子で返事した。沈みがちな二人を元気付けたいのだろう。
 馬上のエリクソンがあっという間に見えなくなったというのに、キリエはその方向を見つめたまま、ヘファイストスに促されるまでなかなか動こうとしなかった。

 不安そうなキリエをヘファイストスが色々気を遣ってくれる。美しい衣装を贈ってくれたり、普段口にできないような豪華な食べ物を用意してくれたりする。だが、食事を共にすることはない。毎回キリエはほとんど食べられなかった。そうすると使用人からそのことを聞き付けたのか、食事の際にヘファイストスがやって来た。キリエが恐縮して立ち上がろうとすると、片手だけの優雅な動作でそれを制する。それはキリエに彼の属する上流社会を感じさせた。
「食が進まぬと聞いた」
「せっかくの料理を申し訳ないです」
「心配事を抱えているからだ。今日はそなたと少し話をしようかと思ってな」
 広いテーブルだが離れた席ではなく、キリエの向かい側に座る。
「そなたは美しいな。ハーキュリーズが恋に落ちるのも分かる気がする。実に純粋で可憐だ」
 そんなふうに言われてキリエは赤面した。ヘファイストスは視線を外さない。居心地悪さを感じ始めたとき、彼が自分の首元、エリクソンに贈られた真珠のチョーカーを見ているのに気付いた。
「それはあまりに大きく美しい真珠だったからチョーカーにした。ハーキュリーズに頼まれて私が作ったのだよ。その真珠は彼の母親の形見だ。我々の父が彼女に贈った愛の証だ。そなたは彼の母親にどことなく似ている。一度だけ見たことがあるが、清らかで美しい人だったことを憶えている。父が魅了されるのも至極当然のことだと思った。その頃には私の母と父の仲はもう破綻していた。母は彼女を憎んでいたが、私は彼女を嫌いになれなかった」
 キリエはそのときまで彼らが異母兄弟とは知らなかった。仲が良さそうな兄弟でも複雑な事情があるのだなと思った。
「ハーキュリーズはそなたを心底愛しているとみえる」
「わたしも彼を心から愛しています」
 間髪容れずそう言ってのけるキリエの表情は堂々としていて、ヘファイストスは見惚れていた。こういう真っ直ぐなところがキリエの魅力なのだろうと彼は思った。
「彼がヴァンパイアであろうが関係ない。彼と一緒に生きて行きたい。わたしの方が先にどんどん年をとって死んでしまうとしても……」
 そう言い終えると、キリエは悲しそうだった。ひょっとして彼女は転向を知らないのかとヘファイストスは驚いていた。
 弟はキリエをヴァンパイアに転向させず妻に迎えるとは言っていたが、命の長さに極端に差があるのだから、夫婦となるのであれば、二人が一緒に過ごせる時間を長くする方法について話し合うのが筋ではないのか。だが、弟はそれをしていないようだ。
 確かに転向は一か八かの賭けになる。死ぬ確率が高いからだ。自分だったならば、愛する女と長く一緒にいるために転向に賭けるだろうとヘファイストスは思った。
「お兄様は召し上がらないのですか?」
 沈黙が気まずく、キリエはヘファイストスに尋ねた。
「我々は人間の食べるものを口にできない。いや、ハーキュリーズは半分人間ゆえ人間の食べ物を食すことは出来るだろうが、純血である私は身体が受け付けぬのだ」
 やはり弟は彼女に何も教えてはいないのだ。ヴァンパイアが何たるかを。ヘファイストスは唖然とし、この結婚の困難さが思いやられた。
「そなたもハーキュリーズの妻となるならば、我々の生活がどんなものか知る必要がある」
 ヘファイストスはキリエに語りきかせた。貴族と呼ばれるヴァンパイアたちは人間との取引によって平和的に血を確保していること。貴族たちを率いているのが彼らの父親であること。ヴァンパイアには種類があり、純血、人間との混血、ヴァンパイアに血を吸われても死なず人間からヴァンパイアになる者も稀にいること。知性を失ったストレイヴァンパイア以外は個体にもよるが何百年と生きること。
「それではわたしもヴァンパイアになれば、あの人とずっと一緒にいられるのですね」とキリエは嬉しそうな顔をする。やはりそうなるよなとヘファイストスは思った。ハーキュリーズを愛しているのだから。
 弟が婚約者に敢えて言わなかったことを、結果的に自分が教えることになってしまった。良かったのだろうか。
「ヴァンパイアになればそなたは人間の血なしでは生きられなくなるのだぞ。良いことばかりはないのだ。それに転向は命懸けだぞ。上手くいかぬことも多い。これは二人でよく話し合って決めなさい」
「何故彼はこのことを言わなかったのでしょう?」
「それは本人でないとわからない。そなたにヴァンパイアになって欲しくないのかもしれないな。我ながら人間の血を啜る姿はおぞましいと思うから」
 ヘファイストスの答えにキリエは表情を一変させた。ヘファイストスは構わず続ける。
「ところで私は何歳くらいに見える?答えずともよい。こう見えて私は百を超えているのだ。そして何もなければあと数百年は生きるだろう。本当の自分を偽り、次々と場所を変え、人間の中で目立たぬように生きる。彼らと親しくしても、長く安定した関係は築けない。私はときどき自分がヴァンパイアでなかったらと考えるときがある。人間は不老不死に憧れるらしいが、私はなかなか死ねない身体であることを呪いのように思う」
 これはヘファイストスとしては正直な気持ちだった。弟に恋している若く純粋なこの娘によく考えて欲しかった。ヴァンパイアになるということの意味を。ハーキュリーズと話し合い、ちゃんと考え抜いた上で結論を出したらいい。
「否定的なことばかり言ってすまぬ。そなたたちには悔いのない選択をしてほしい。愛する者がいるということは生きる理由になる。あまりにも長い時を生きなければならぬ私はそれを見失いそうになるのだ。私はそなたたちが羨ましい」
 ヘファイストスのこの言葉も本音だった。自分にも一緒に生きてくれる相手がいれば、この底知れぬ寂寥が消え去ってくれるのだろうかと思った。
 一方、キリエはヘファイストスの思い遣りに感謝したが、ますます現実を突きつけられたと思った。今のこの状況も辛いのに、愛するエリクソンとの生活も想像以上に困難を伴いそう。

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