第5話 Evil eye

文字数 4,745文字

 ユヴェントスがエリクソンに興味を持ったのは、兄のアレスが彼に徹底的に叩きのめされたと知ったときだった。
 あのアレスがと思った。彼女の周りの若い純血種のヴァンパイアの中で一番強い男のアレスが敗ける?好戦的な性格のため、他の男たちと喧嘩になったことも何度もある。しかし、今までどの男もアレスが打ち負かしてきた。彼は妹を溺愛し、まるで恋人のように振る舞ってきた。付きまとってくる男の始末はアレスにいうと簡単だった。頭に血がのぼった彼が相手の男を半殺しにして、二度と彼女に近寄らないようにしてくれる。そのためアレスと彼女は男女の関係だと噂されていた。実際二人は危うい関係だったいえる。
 ヴァンパイアの貴族社会では近親婚は禁忌ではない。圧倒的に女が少ないからだ。ユヴェントスの父と母も実は半血の兄と妹だった。血族は王家の血筋を絶やさないように近親婚を重ねてきた。
 数少ないヴァンパイアの女の中で、ユヴェントスは皇帝と正妻の間にできた姫君であり貴種中の貴種、それも絶世の美女であって、彼女に求愛する男たちは多かった。彼女の自尊心の高さはそういうところに由来している。彼女に相応しい男など、同じく皇帝と正妻の間に生まれた嫡男アレス以外にいるはずがなかった。彼以上に強く、美しく、身分の高い貴族の男などいなかったからだ。
 父は彼女を二番目の兄のヘファイストスに嫁がせたいようだったが、ユヴェントスはずっと拒んでいた。
 ヘファイストスは彼女にとって好ましい相手ではなかった。彼だけは父にも母にも、他の兄妹誰にも似ず、貴族特有の金髪碧眼ではなかった。珍しく浅黒い肌、黒い髪、黒い瞳だった。別にそれが悪いわけではないが、彼女は美しい男が好きで彼女にとって彼は美しくなかった。
 また彼女とヘファイストスとは性格も合わなかった。彼女にとって彼は大人しすぎた。生まれつき足が悪いせいか、引っ込み思案な性格で、華やかで自信家の長兄とまるで正反対だった。
 ユヴェントスはアレスに訴えた。ヘファイストスに嫁ぐのは嫌だと。愛しているのはあなただと。もともと彼女に惹かれていたアレスはたがが外れてしまった。それから二人は愛し合うようになった。
 父はヘファイストスとの縁談を取り下げた。母は自分の産んだ子たちの間で起こったこの騒動を苦々しい思いでみているようだった。大人しい次兄は破談に異を唱えなかったが、長兄と妹に完全に面子を潰されたと感じただろう。きょうだい間でギクシャクするようになった。それでも彼に悪いことをしたと思うような二人ではなかった。周りを黙らせたことで、二人は自分達の関係をますます誇示するようになっていった。
 貴族たちはいずれアレスは妹のユヴェントスを妻にするだろうと思っていたし、彼女もそう願っていた。アレスに比べれば他のどんな男など見劣りしてしまう。その彼を半分人間の異母弟が倒したなど信じられなかった。しかもその一件で、アレスは処分され異国へ追放になった。結婚はもう無理だろう。旅立つ前の面会も許されなかったため、彼女は父親を恨んだ。それで反発して母のところにやってきた。みんなあの憎い愛人の子のせいだよと、母はそう言って泣いていた。
 以前から母が躍起になってエリクソンを殺しにかかっていることも知っていた。今までは放っておけばいいのにくらいに思っていたが、これは只事ではないかもしれない。是非彼を見てみたいと思った。
 ユヴェントスは自分の美しさをよく理解していた。男たちが自分をめぐって争うのを見るのが好きだった。美しく生まれたんだから、愛されて求められて当然だと思っていた。実際、彼女が艶然と微笑めば、彼らをたちまち虜にしてしまった。自分に落とせない男はいない。自分が誘惑して、エリクソンの隙をついて殺してやってもいい。愛するアレスの仇をとる。
 伯爵のところにエリクソンがいると聞いて会いに行った。伯爵は父の親友ということだが、彼女はあまり好きではなかった。考えていることがこの男には全部お見通しような気がする。そして何より彼女の美貌の虜にならない。彼女にとってそのような男は自尊心を満足させてくれない存在で、操り難く厄介だった。だから伯爵のいないときを狙った。
 エリクソンは美しい青年だった。長身で金髪、瞳は珍しいオッドアイで、左がブルー、右がヘーゼル。面差しは父に似ている。突然訪ねてきた腹違いの姉に戸惑っている様子だった。
 あのアレスを倒すなど特別な能力があるのだろうか?ユヴェントスは彼をもっとよく観察してみたかった。
「あなたの瞳は片方ずつ色が違うのね。とても綺麗。よく見せて」
 優美な仕草でエリクソンの腕に手を置いて、瞳を覗き込んだ。大抵の男は彼女に触れられたり見つめられるだけで、舞い上がってしまう。二人でしばらく見つめあったが、エリクソンもまた彼女を観察しているとユヴェントスは感じた。
「悪いが帰ってくれ。殺しに来たのなら相手するが、私を値踏みしに来ただけならもう済んだだろう」と言われた。
 彼女の関心を引きたくて、最初わざと冷淡な態度を取る男もいるので、ユヴェントスはエリクソンもそうに違いないと思っていた。だが、彼女がいくら誘いをかけてもエリクソンは乗ってこず、彼女はムキになっていった。一体自分のどこが気に入らないのかとエリクソンを問い詰めたら、冷たい一瞥をくれたあと言われた。
「お前の眼は邪悪だ」
 そこまでのことを言われたのは初めてだった。父に似たようなことを言われたことがあったが、あれはいつのことだったろうか。自分を取り合って男たちが揉めて、殺しあいになったときだったか。侍女を打ち据えて殺してしまったときだったろうか。
 ここからユヴェントスのエリクソンに対する執着が始まった。いつか彼を自分の前でひざまずかせてやる。
 
 彼女が袖にしたヘファイストスと憎きエリクソンが懇意にしていると知ったのは、つい最近のことだ。
 次兄に裏切られたような気分になった。あの汚れた人間どもの血をひくエリクソン。母と長兄アレスと我々の共通の敵ではないか。一体どういうつもりなのだろう。
 様子を探りにいくと、ヘファイストスは妹の突然の訪問に驚いていた。
「ユヴェントス、息災であったか?」
 元婚約者ではなく兄として取り繕うように尋ねる。しかし動揺は隠せないようだ。彼女と長兄に心の傷を負わせられたのだから。
「お兄様」
 ユヴェントスはヘファイストスと抱擁を交わす。
「会えて嬉しいわ」
 次兄が自分を女として見ていることは分かっている。まさに今この瞬間も彼はユヴェントスに見とれている。
 金色の長い巻き毛、陶器のように白い滑らかな小さな顔、吸い込まれそうなブルーの大きな瞳に金糸のような長い睫毛、薔薇色の頬と形の良い唇と、とても愛らしい顔立ちをしている。
「そなたは相変わらず美しいな」
 ヘファイストスが感嘆の溜め息をもらす。
「お兄様、痩せられたのでは?汚らわしい人間どもに煩わされて苦労されているのかしら」
 ユヴェントスの白い指先がヘファイストスの首筋を撫でる。息を呑むヘファイストス。
「ここなんて骨と皮だけみたい。可哀想なお兄様」
 ユヴェントスはそう言いながら、彼の目を見つめて艶然と微笑む。指先はまだ彼の首筋にある。
「止めなさい」
 ヘファイストスは彼女の手を掴んで引き離そうとしたが、ユヴェントスは素早く彼の胸に顔を埋めた。そのままヘファイストスの背中に手を回す。彼は今、ユヴェントスの肌の香りに心をかき乱されていた。
「お兄様は我慢できるの?」
 その声でヘファイストスは理性を失い、ユヴェントスが勝った。彼は彼女の服を引き裂き首肩胸を露出させ、首筋に乱暴に唇を這わせた。そして二人はもつれ合うようにしてヘファイストスの寝室に消えた。
 
 裸のままユヴェントスはヘファイストスの工房を見てまわっていた。先程までヘファイストスと抱き合って血を吸い合っていた。
 ヴァンパイア同士が愛を交わすときの行為だ。まさかヘファイストスにそれを許すことになるとは思ってもみなかった。愛してもいない相手ではあったが、血で満たされた高揚感に浸れる。噛まれた首筋の傷は既に綺麗に治っていた。
 次兄は変人だとユヴェントスは常々思っていた。美しくないし強くもない、ひたすら地味。だが、武器や工芸品、装飾品など何でも作ってしまう。それも一級品ばかり。彼の熱意ときたら、女より美術工芸品を愛していそうだと思っていた。でもこの人も男だったのね。 
 彼はまだ眠っている。その間にエリクソンに繋がる何かが見つかればいいのだが……。
 美しいビロード張りの箱を見つけ、中を開いてみた。大きな真珠のチョーカー。こんな真珠を初めて見た。大きめのプラムよりまだ大きい。留め具は美しい細工がされている。一目で気に入り、ユヴェントスは裸のまま身に着けてみた。そして何となくヘファイストスに見せたくなり、寝室に戻った。
 ヘファイストスはまだ寝ている。
「お兄様、起きて。さっき工房でこれを見つけたの。とても綺麗だわ。これをあたくしにくださらない?」
 ヘファイストスは寝ぼけているのか反応が鈍い。薄目を開けて、ユヴェントスを見る。彼女はヘファイストスの傍らに身を横たえた。彼女をよく見たくて、彼の腕がさらに彼女を抱き寄せる。
「どれ?」と彼女が首元に着けているチョーカーを見て、ヘファイストスの顔色が変わった。
「それは駄目だ」
「どうして?あたくしにこんなに似合っているのに?下さらないの?」
「依頼の品だからだ。早く外しなさい」
「お兄様に作らせるなんて生意気だわ。どこの誰なの?」
 こんな珍しい真珠を手に入れられるのは、余程の地位と金を持った人物だろう。そこで思い当たってしまった。まさかお父様?そういえば母から聞いたことがある。父が愛人の一人に世にも珍しい大きな真珠を贈ったと。それがエリクソンの亡母だ。
「まさかエリクソンに頼まれたの?これを何に使おうとしているの?女に贈るの?」
 ユヴェントスの声が低くなった。
「違う。彼は関係ない」
 慌ててヘファイストスが否定する。
「じゃあ誰に頼まれたの?あの者でなければ誰に?本当のことを言わなければこの真珠を溶かしてしまうわ」
 ユヴェントスは素早く身を起こしそのままベッドから降りて、ヘファイストスから距離を取った。行こうと思えば一瞬で部屋を出られる。足の悪いヘファイストスに彼女を捕まえることはできないだろう。
「あたくしは本気よ」
「そうだ。ハーキュリーズに頼まれた。もういいだろう。返してくれ」
 珍しく苛立った声をあげて、ヘファイストスもベッドを降り、ユヴェントスと対峙した。
「そなたにとってもハーキュリーズは弟だろう?もうアレスと彼との揉め事は決着がついたはず。放っておくんだ」
「お兄様はお母様やアレスを裏切っている。エリクソンなんかの肩を持って、あたくしたちを捨てるのね。今のこの不幸はみんなあの男のせいなのよ」
「ハーキュリーズだって同じ父親を持つ我々の弟だぞ。その弟の婚約の品だ。アレスとのことがあるからお前は複雑だろう。祝福しろとは言わない。だが、これだけは言っておく。彼の邪魔をするな」
 言ってしまってから、ヘファイストスは後悔したが遅かった。粘着質な妹の性格を知っているはずなのに。案の定、ユヴェントスの目の色が変わった。引きちぎるように真珠のチョーカーを外すと、彼に向かって投げつけた。そして自分の衣服を乱暴に抱えて部屋を出て行った。
 ユヴェントスが異母弟に何かしなければいいがとヘファイストスは案じていた。しかし彼女もアレスに厳しい処分が出たのを見ているわけだし、父が怖くて何もできないと思っていた。

 


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