プロローグ

文字数 3,125文字

ふたつの光が手の中から離れていく。

必死に追いかけても、絶対に追いつくことは出来ない。次第に息が荒くなり、全身に(かせ)をかけられて体の自由が奪われていく。どう足掻いても、ボクの手がふたつの光に届くことはない。

最後には声を上げることも出来なくなって、光が遠く見えなくなるまで見続けなければならない。

この結末はいつも同じだった。

「ハッ……!!

目を覚ますと、天井のシーリングライトに向かって左手を伸ばしていた。手は酷く汗ばんでいる。

ゆっくりと体を起こし、手汗の水分で顔を拭って、乱れた呼吸を丁寧に整える。鼻から肺に空気を一杯に送って、口からゆっくりと息を吐き出し、唾を飲み込む。

久しぶりに見た『あの夢』から、現実に戻ってきた安心感と忘れていた憂鬱が脈を打ち、体の中で活動を再開する。

()()ソファで寝てしまった自分に落胆してしまう。今回も『テレビと部屋の灯りは点いたまま』だった。ローテーブルに置いたスマートフォンで、今の時刻を確認する。

【3月13日 水曜日 7:06】

何時何分に寝落ちしてしまったのか分からないけれど、もう日付が変わって朝になっていた。両手をソファに沈め、体重を支えながら起き上がる。この睡眠は体力を酷く消耗してしまう。

頭が鉛のように重たくて、目眩で体を後ろに倒されそうになりながらも、何とか踏ん張り耐える。

アイボリーの遮光カーテンを開けると、春の陽射しが視力を奪っていく。波模様のレースカーテンを半分だけ開けて、バルコニーに出る窓に額を押し当てて、七階の高さから外の様子を観察する。

スーツ姿の男性

ランドセルを背負った小学生

大きなゴミ袋を持っているエプロン姿の女性

それぞれ会社や学校、家庭で自分の存在意義を全うする強い人達だ。でも、あの人達にも大小さまざまな悩みがあって、葛藤をし、妥協と諦めを繰り返しながら、他人には分からない苦難を乗り越えているのだろう。

それでも会社や学校、家庭といった、それぞれの生きる場所で活動を続けている。

「凄いな…」只々、羨ましかった。

その言葉を掻き消すように頭を振り、ゆっくりと大きく深呼吸をする。

テレビからは、芸能ニュースを欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して報じる女性アナウンサーの声が聞こえてくる。

「薬…飲まなきゃな」

『上司にしたい女優ランキングですが、今年も…』

テレビの電源を落としてからキッチンに向かい、冷蔵庫にある2ℓの天然水を取り出し、津軽びいどろのコップに水を注ぐ。

『朝食後 1錠』と書かれた薬袋から、PTP包装された錠剤を解放して口の中に放り込む。処方されている、名前すら()()()覚えていないこれを、何の躊躇(ためら)いもなく飲み続けている。

今の自分は朝昼晩と、薬を飲む為だけに生きている存在のように思えた。


今回が二度目だった。



それまでのボクは、睡眠時間や休日を潰す『自己犠牲が美徳』という、何の根拠もない信念を持って仕事をしていた。疲れを感じることも無かったし、その(ほか)の思考を与える暇が無い状況を、自ら作り出していた。いま思い返せば、上司や同僚たち、クライアントからも身に余る程に評価されていた。役職も順調に上がっていたし、それなりに自信を持っていた。はずだった。


その日は突然やって来た。


取締役と直属の本部長からの呼び出しを受けたボクは、新年度から新設される支社への異動を命じられた。既存の支社から小さな案件を切り離して寄せ集めにするという、社長の鶴の一声で作られた『目的が曖昧』なもので、まるで死の宣告をされたように感じてしまった。

罪人が罪状を聞くような、酌量(しゃくりょう)の余地があるのかという心情だった。

「自分を()()に異動させる、会社の狙いは何でしょうか?」

「え?特に意味は無いよ」

突きつけられた異動の理由、ボクに対する会社の評価。それが現実だった。今まで我武者羅(がむしゃら)に積み上げてきたものはハリボテで、蝋燭(ろうそく)の火のように一吹きで一蹴されてしまう、そんなにも(もろ)いものだったのだろうか。この人達に、ボクの価値なんて分かる訳がない。

「考えさせて下さい」死の宣告に抗いたかった。

「何も変わることは無いけどね」

飄々(ひょうひょう)と言ってのける上司たちを、心の中で()めつけることしか出来なかった。


それからの一か月は、丁寧に引き継ぎを行なうことに心血を注いだ。付き合いの深いクライアントには一件一件挨拶回りをし、飲みに連れて行ってもらったり、餞別にと贈り物を戴くこともあった。噂を聞いて、個別に電話をもらうこともあり、それだけで自分を肯定することができた。

『また一緒に仕事をしよう』という言葉は、僕の存在意義そのものだった。

特に意味は無い、何も変わることは無い。

そのモヤモヤを心の中に抱いたまま、気付けば新年度を迎え、ボクは会社に命じられた異動を受け入れることを選択していた。



新しい生活も二か月半が過ぎ、例年より早めの梅雨入りがニュースで報じられた頃には、僕の()()()()()()()()()()という感情が、不快な湿度が覆う様に、ボクの心の中を支配していた。

気が付けば、転職エージェントサイトに登録をして、付き合いの深かったクライアントの求人に応募をしていた。

『求人の内容とは違いますが、是非とも面接を受けて欲しいとのことです』

エージェントの女性から連絡が来たのは、応募をした翌日のことだった。一緒に仕事をしたことのある人物が、ボクの経歴書を持って上司に掛け合ってくれたらしい。

『貴方のお人柄を知っているからこそのお話です』

その言葉に胸が高まり、十年勤めていた会社に対して後ろめたい気持ちを抱きながらも、すぐに面接の日程調整を依頼するメールを打ち込んでいた。


面接はWEB形式で行なわれ、面接官は相手方の業務部長と人事部長の二人が担当していた。ここでも、ボクの人柄を聞いて特別にポジションを用意してくれたこと、前向きに話を進めたいことを熱心に語ってくれた。

いつ入社できるか、希望年収(など)の条件面についても最大限に考慮する、と次のステップに進むことが約束されたような、絶対的な圧力を感じてしまう内容だったけれど、結果は一両日中に連絡するということで面接は終了した。

いま思うと、その頃からボクの心は『ゴールのない迷路』に足を踏み入れてしまっていたのだ。


面接の翌日、ボクはエージェントを介して、選考を辞退する連絡を入れていた。

『期待』に応えられないかもしれない。その恐怖がそこにはあった。ボクの人柄を知っていて上司に進言してくれた彼、エージェント、面接をしてくれた二人。一緒に仕事をしてきた尊敬できる人達。

ボクは『その重圧』から目を背けた。

断りのメールを打った翌日、一件の留守電メッセージがボクの元に届いていた。発信元は、今回の応募先であるクライアントの執行役員の一人で、ボクを可愛がってくれた、頭が上がらない程にお世話になっていた人物だった。

今回の選考辞退に対する事かもしれないと、戦々恐々しながらメッセージを再生した。

『お久しぶりです。明日の午前中に電話を頂ければ幸いです』

聞き慣れた、優しくて心地のいい関西訛りの声で届いたメッセージを聴いて、蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。

ボクは、この人からの期待にも応えられない…。

今まで積み上げてきたものはハリボテで、何の(ちから)も価値も無い。

ボクを評価してくれる人達の評価を下げたくなかった。

(いや)、失敗する自分を想像したくないという、自己を保身する為の行動だった。

自分の評価を他人に委ね、自己陶酔しながらも、それを拒絶した。

もう何も聞きたくなかった。

メッセージを消去し、メッセージを残してくれたクライアントの電話番号を着信拒否に設定し、留守電サービスを停止させ、スマートフォンの電波は機内モードに変更した。

ボクが、そのメッセージに返答することは無かった。
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