〈二幕 美雪〉夜回8-2

文字数 4,221文字

 自室のベッドに倒れ込むように身を投げ出す。時刻は夕方六時半過ぎ。テストを終えてから、昼食代わりのカロリーメイトを齧った以外はずっと集中していたのだから無理もなかった。
 疲労困憊していたものの、ある種の充足感はあった。明日に備えたテスト勉強は捗り、予想問題を集めたプリントもなかなかの高得点をあげられた。まだ全てをさらい終えたわけではないが、この調子ならしくじった国語の挽回をできる。大日向有加に逆転できるかもしれない。
 大日向有加――私はベッドカバーのミミタンの耳に顔を寄せながら、茶色い後頭部を思い出す。
 彼女は手洗いに立った後、十分ほどしてから図書室に戻ってきた。いや、もしかしたらもっと短い時間だったかもしれない。私が全神経を張り巡らせて彼女の帰還を待ちかねていたから、やたらと長く感じただけで。その後、彼女は淡々とお弁当を食べ終えて、勉強を再開させた。
 意外にも形良い茶色の後頭部を、焦げ付くほどに凝視する。もちろん、大日向有加が気付くはずも無かった。
 彼女が昼食を終えて勉強を再開させてしばらく、代わり映えのしない後頭部から視線を逸らし、私も自分の勉強に戻った。たまにちらちらと大日向有加へ視線を向けるが、特筆するほどの変化は無い。やや前傾になった頭が冬の陽射を受けて控えめな光を反射する。
 シャープペンシルを動かす音、放課後始まった部活動の遠いざわめき、時折、思い出したように図書室をふるわせるチャイム。
 奇妙ではあるが、どことなく静謐な平穏な時間だった。
 午後四時を回ると、大日向有加は勉強道具を片付け、図書室を出た。いつもより一時間ほど早い帰宅だったが、すでに二科目のテストを終えたことを考えればおかしくもない。勉強中も特に変わった様子は見受けられず、黙々と問題集を解いており、いじきたなく毒林檎を齧った白雪姫のように床に倒れ込むこともなかった。
 私はころり仰向けになって、今日という一日をなぞるように思い出す。照明が眩しく、腕を交差させて顔を覆った。同時に肩が震えだす。震えは全身に伝わり、足がうずうずとして、とうとう声を上げて笑い出す。
 『毒薬』なんて人が悪い。要は、香世子さんに担がれたのだ。
 服用後二十四時間、副作用なく集中力や思考力が低下するなんて、そんな都合の良いクスリがあるわけがない。
 身を起こして鞄の中から白いソルトケースを取り出し、ためつすがめつ眺める。そのひんやりとした感触は、年上の女性の指先の質感に似ていた。
 きっと多分、大日向有加に勝たねばというプレッシャーに圧し潰されそうな私を見るに見かねて一計を案じたに違いない。
 なるほど、効果は覿面にあった。いわゆるプラシーボ効果だったけれど、何か講じる手段があると思えばこそ心に余裕が生まれ、実際に勉強に集中できたのだから。これは香世子さんなりの、香世子さんにしかできない魔法だったのだ。
 今朝の精神状態は最悪だった。それから状況が変わったわけではない。写真の差出人は未だ不明で、テストは三科目残っていて、幼馴染とは向き合えていない。けれどN西女の推薦を勝ち取り、残り三か月となった中学生活を耐えれば、何もかもが解決する。この暗くてじめついた森を抜け出せるのだ。
 気分が上向いたお陰か、急に眠気に襲われる。森の中、ようやく辿り着いた小人たちの家で、彼らの食事を盗み食いした白雪姫は、ベッドを拝借して眠った。何かが満たされると、人は眠気を催すらしい。少しだけと自身にいいわけをして、私は瞼を閉じ、意識を手放した。

 一時の気の緩みは、体調不良となって化けて出た。
 ほんの小一時間、布団を被らず寝ていただけなのに(ヒーターは点けてあった)、目覚めた時には喉が痛み、頭痛が増し、悪寒が走った。
 うたたねから私を呼び起こしたのは、夕飯よと叫ぶ母の声だった。父の出張のせいもあるかもしれないが、最近、夕飯の時間が三十分ほど遅くなる傾向にある。もし、いつも通りの時間に呼ばれていれば、ここまで風邪が悪化しなかったのではないかと恨めしかった。
 母には風邪薬を飲みなさいといわれたが、まだやり残した勉強があったため、飲むふりだけをした。けれど風邪薬を飲まずとも、夜が深くなれば自然と眠くなる。無理矢理机に向かって捗るわけもない。捗らないからだらだらと続けてしまう。悪循環だった。
 勉強の合間に、自室の窓から高台の家の方へ視線をやれば、木立の隙間からぼんやりと滲む明かりが見えた。香世子さんもまだ仕事をしているのだろう。
 その明かりに導かれるように、なんとか机にすがりつく。疲労困憊していたけれど、定めたノルマを片付け、結局、ベッドに潜り込めたのは午前三時過ぎだった。

 明朝は当然ながら寝過ごし、身体にまとわりつく熱っぽさを振り切り、大慌てで家を出た。母に自家用車で送ってもらうという手もあったが、まだ先日の庭先でのやりとりが尾を引いている。気にしているのは私だけだとわかっていたが、頼むのが癪だった。
 畢竟、学校までは早歩きで向かい、ホームルーム開始五分前に校門を通り抜けた。昇降口は森閑としており、この先に連なる教室に数百人もの学生がいるとはとても思えなかった。
 手早く靴を脱ぎ、自分の下駄箱へとやや乱雑に入れて、上履きをコンクリートの上に敷かれたすのこに下ろす。下駄箱はスチール製の蓋なしで、図書室の本棚とよく似たつくりだった。学校の備品なので同じメーカーなのかもしれない。ふと屈んだ拍子に視線が、向かいに並んだ他クラス――C組の下駄箱に向く。
 C組の下駄箱の下方には一つ空きがある。かつて幼馴染が使用していたスペースだ。茉莉が転校してから四か月。その空白は未だ埋められていなかった。彼女のためにも、今日のテストは絶対にしくじることができない。
 身を起こして視線を上げた時、ふいにC組の下駄箱にもう一つ空きがあることに気付く。いや、仕切られた上の段には上履きが入っている。単に欠席しているだけだろう。
 ……受験前のこの大事なテストで欠席? インフルエンザなどの感染症に罹かったのなら、そういうこともあるかもしれない。休まないほうが迷惑だ。でも。
 ふいに。吹き上がるような怖気が背筋を駆け上がった。
 下駄箱は毎年学年が入れ替わるため、番号が書いてあるだけで個人名は書かれておらず、ぱっと見は誰が欠席したのかわからない。けれど、上履きには名前が書いてある可能性が高い。思いついて、私はC組の下駄箱に歩み寄る。残された上履きでその主を確かめようなんて、シンデレラの王子じゃあるまいし。自虐は、笑えるどころか、伸ばした指先を震わせた。
「藤田、ホームルーム始めるぞ」
 上履きのかかと部分に指が届くその寸前。びくりと肩を揺らして振り向けば、担任の男性教諭が出席簿を持って立っていた。
 遅刻寸前とは珍しいな、体調でも悪いのか?――問い掛けられ、私は無言のまま首を横に振る。そして軽く会釈をして、担任の前を通り過ぎ、三階の教室へと急いだ。

 テストの手応えは悪くなかった。特に社会では昨夜睡魔と闘いながらも取り組んだ予想問題が的中し、八割、いや九割以上の得点を期待できそうだった。
 学年末テスト終了後、教室は束の間の解放感に包まれる。クリスマス直前の金曜ということもあり、打ち上げにミスドかスガキヤ、いっそカラオケ行こうかとのはしゃいだ声がそこかしこで咲いた。
 けれど私は黙々と支度を済ませ、教室を後にした。私を誘おうという物好きはおらず、誘われたとしてもそんな気をにはなれなかった。いつもと同じ経路を辿り、図書室へと急ぐ。下駄箱を覗いてこようか、C組に立ち寄ろうか。ちらりと考えでもなかったが、ついでならともなくあえての行動はとりたくなかった。
 だって、私は担がれただけ。香世子さんのちょっとした魔法にかかっただけ。何も心配することはない。
 図書室は薄暗く静かで冷気に満ちており、いつも通りまだ誰もいなかった。書架が林立するこの空間は考えてみれば森によく似ている。私はざわつく胸を宥めながら、いつもの端の席についた。
 そして数時間後。
 いつもの席で、私は無情にも太陽が去ってゆくのを眺めていた。
 四時間目、五時間目、六時間目……いつまで経っても、埋まらない対角線上の席。私は図書室の静寂の中、ひたすら祈っていた。
 明かりもヒーターもつけていない室内は寒々しく、けれど学校指定のコートも羽織らず、かじかんだ指先に息を吐きかけもしない。ただ疑念が暗雲のごとく心に立ちこめていた。
 そして午後五時半。冬期の最終下校時刻を告げる鐘がスピーカーから流れ出る。同時に、鞄とコートをかき集め、私以外の誰もいない図書室を飛び出した。

 職員室に駆け込んできた私を、担任の三十代教諭は、まだいたのかと驚いた表情で迎えた。テスト終了後の放課後、いくら受験生といえども一息つくものかもしれない。しかし、私は担任を無視してその隣に席を構えた学年主任へと向かった。すなわち、C組の担任に。
 職員室は図書室に比べれば随分と熱く濁っており、人いきれに満ちていた。学年主任はわずかに四角い眼鏡の奥の眉をひそめ、採点中だったのだろう、机に広げていた答案の上にさりげなくファイルを置いて隠す。
 そんなこと今気にしちゃいない――見当外れもいいところの学年主任の行動に舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、尋ねる。呼吸を整えてから職員室に入ったはずなのに、紡いだ言葉は途切れ途切れだった。
「あの、大日向さん。先生のクラスの、大日向、有加さん。今日、出席していましたか?」
 学年主任は虚を突かれたように瞬き、眼鏡の弦を押さえてから、 
「ああ。昨日から体調を崩して、今日は欠席だ」
 ――インフルエンザではないそうだが、ひどい腹痛で倒れて病院に行ったらしい。原因はまだ不明だそうだが……お前たち、仲が良かったのか?
 学年主任の言葉に、私は自分が大きな、あまりに大きな失敗をしたのだと気付かされた。仲が良いわけない。良いわけないじゃない。だって、私は……
「顔色悪いけど大丈夫か? お前まで風邪か」
 体調不良=風邪という、担任のシンプルな思考を背に受け流して。私は大股で出入り口に向かい、失礼しました、と深く腰を折った。

 
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