〈二幕 美雪〉再演5-3

文字数 5,663文字

「ただいま」
「また初瀬さんのお宅にお邪魔していたわね、美雪」
 おかえり、と挨拶を交わす前に母は仏頂面で小言を始めた。香世子さんの対応との落差に、反発よりもある種の感動めいたものを覚えてしまう。
「聞いてるの? ぼうっとして」
 見上げる私の様子に、母は眉根を寄せる。四十三歳にふさわしい皺と肌つや。どちらかと言えば痩せ気味で、体型はそこそこ維持されているので極端に老けては見えない。年相応といったところだ。母のほうが、四十三歳としては正しいのだろう。
「……聞いてるよ。偶然会っただけ」
 学校から帰ってきて自宅には入らなかったのに、高台の邸への訪問はあっさりばれていた。高台の邸につながる道路は目の前だから、窓から帰ってくる姿でも見つけたのだろう。まあ、行ってからばれても構いやしない。
「初瀬さんはお仕事をしているんだから、遠慮しなさい。それにあんたは受験生なのよ。自覚あるの?」
 初瀬さん。母はかつての同級生を名前ではなく、苗字で呼ぶ。私が『香世子さん』と呼ぶことに対し、大人に向かって友達のような言い様は失礼だと、わかるようなわからないような理屈で怒る。失礼という建前の奥に、何やら感情の渦が見えないでもないのだけれど、自分から火に油を注ぐ真似はしない。
 わかってる、と小さく返して、靴を脱ぐ。我が家の玄関は狭苦しく、高台の邸のように下駄箱に靴を仕舞わないから、尚更だった。仕舞いたくとも、下駄箱はいっぱいですでに溢れた状態なのだ。母の脇をすり抜けて玄関からリビングへ移動する。脱ぎ散らした靴を揃え直している気配がしたけれど、あえて振り返らなかった。リビングに入ると、玄関とは裏腹に、湿った温かい空気が充満していた。カウンターで仕切られたキッチンで何か煮込んでいるのだろう。多分、豚の角煮の下茹。私の好きなおかずだけれど、今は澄んだ紅茶の後味が濁る心地だった。
「もうすぐテストが始まるでしょう。ちゃんと勉強しているの?」
「してるってば。N西女の推薦してもらうもん」
 背中を追いかけてきた声にぶっきらぼうに答える。
 勉強はしていた。特に、一二月半ば、来週から始まる学年末テストの勉強は秋から熱心に励んでいた。二日間にわたって行われる、学校内の五教科の総合学力テスト。三学期には受験が控えているため、三年生は前倒しで二学期に行われる。範囲はなく、二学期で習った箇所はもちろん、中学三年で学習した全てが出題される。この結果を元に、冬休み前に三者面談と推薦希望者の学内選考が行われ、最終的な受験校が決定するのだ。
「本当にN西女の推薦を受けるつもりなの?」
 母はこの一か月、何度も同じ質問を繰り返していた。T高校の一般受験からN西女の私立推薦に切り替えたことに未だ納得していないのだ。
 確かに今更の変更だった。推薦入試を受けるには、まず学内選考を通過しなければならない。推薦では、学力の他に部活や生徒会・委員会などの活動状況が強く影響してくる。けれど公立一般受験するつもりだった私は、それらに気を払っておらず、特別な成果を上げていなかった。手持ちの武器がない私は、あとは学年末テストで、他のN西女の推薦希望の子よりも良い成績を修め、二学期の内申点を上げるしか道はない。学年末テスト後に開かれる学内選考で推薦受験を認められたなら、私立の推薦入試は受かったも当然だ。
 幸い、N西女の偏差値はT高校よりもわずかに低い。十一月の半ば、担任へ進路変更を申し出た時も、驚かれはしたが、今までの内申点と素行から、頑張り次第で推薦も狙えるとの返答をもらっていた。もっとも、偏差値が低いというのが、母におけるT高校>N西女の図式をつくる一因なのかもしれないけれど。
「N西女は進学率も高いし、カリキュラムもユニークだし、付属の大学もあるし。もちろん大学は国公立狙うけど。でもN西女で上位の成績をキープしておけば、希望の大学に推薦してもらえる可能性もあるし。下手にレベルの高い学校に行っても、そこで授業についていけなかったら、意味ないでしょ」 
 これは香世子さんからの受け売りだった。水も漏らさぬ鉄壁な理論。しかし母の眉根は寄ったまま。頑固な母には、香世子さんの賢明な考えが理解できないらしい。もう一つ進路を変えた理由はあの白い手紙にあるわけだけれど、その件に関しては母には話したくなかった。母は茉莉の母親と幼馴染だ。妙な勘繰りを吹き込まれたくなかった。話したいけれど話せない、話したところで何の解決にもならないどころか、事態を悪化させかねない。そんな諸々含めて私は苛立ち、
「学費ならおじいちゃんとおばあちゃんにお願いするから。私が。それならいいでしょ」
 N西女は私立で学費が高く、他にも交通費やら制服代やら、公立のT高校と比べてかなり費用がかさむ。だけど、身近な孫が私一人なので、祖父母に頼めば出費は惜しまないはずだ。
「美雪」
 母の眉根はますます寄って、マズイなと感じ取りながら、でも止められなかった。
「おばあちゃんは良いって言ってくれてるよ。美雪のためならどんだけでも出してやるって」
「美雪!」
 打つように名を呼ばれ、さすがに私は口を閉じた。
 言い過ぎた自覚はあった。でも、結局、問題はお金なんでしょう? だから解決策を提案しているのに、どうして大人は子どもがお金について口を出すと怒るの。お金の話は下品で、とても失礼なのよ、と言わんばかりに。内心で反論しながら、続く母の怒りに身構えた。
 けれど母は嘆息一つして、頭痛を抑えるように額に手を置き、
「おばあちゃんの言うことなんて真に受けては駄目よ」
 それは予期していない台詞だった。こちらの戸惑いをよそに、母は冷めた口調で続ける。 
「こんなふうに言いたくはないけど、おばあちゃんはいい加減な人なんだから」
「…………」
 祖母は確かに雑な人で、家族はたびたび迷惑を被ってきた。賞味期限が切れた生菓子を食べさせられたり、なくしたと思っていた爪切りが当然のように母屋にあったり、切り分けたスイカに度を超えた大量の塩をふられたり。だけどそれは、我が家の『おばあちゃん』という生き物の習性で、おばあちゃんだからしょうがないか、と家族皆が納得しているし、笑い話のネタにもなって、そこには確かに愛情がある。
 だけれど、怒るでもなく、けなすでもない母の口振りは、ただただ事実そのまま述べているだけで、だからこその救いのなさを思わせた。
 額に手を置いたまま、疲れ切ったようにしてキッチンの窓辺に置いてある小さな折りたたみ式の椅子に座る。もやしのひげやさやいんげんの筋を取ったり、家計簿を付けたり、縫い物をしたりする、母専用の小さな椅子。
「あなたの学費はちゃんと積立してあります。おじいちゃんおばあちゃんに頼ることは許しません。本当にN西女に通いたいなら、きちんと勉強しなさい。学年末テストで良い点をとって、推薦枠をとること」
 N西女の推薦受験を母が認めてくれた。どれだけ母が反対しようと、父と祖父母を味方につけて強行するつもりだったから、拍子抜けしてしまう。自分の要望が通ったものの、祖母の話も気になって、もやもやとした何かが心の中を漂い、私は返す言葉を失った。
 立ち上がり、何も無かったように、夕飯の支度を始める母。私は勉強してくると独り言じみて呟き、二階の自室へ上がった。

 制服のまま、ベッドへダイブする。スカートのプリーツに皺が寄ってしまうのはわかっていたけれど、着替える気力はなかった。
 なんだかひどく疲れてしまった。香世子さんの家で、紅茶とお喋りでせっかく温まった心と身体が台無しだった。
 意味もなく寝返りをうっては溜息を吐く。ふと、ウサギのミミタンのつぶらな瞳と目が合った。ベッドに掛けてあるパッチワークのベッドカバーの模様だ。これは母のお手製で、フクロウ、ゾウ、キリン、ネコなどなどが正方形の布の中に収まり、それを繋げて一枚絵に仕上げられている。
 ミミタンは元々私の気に入りのぬいぐるみの名前だった。小学校に上がった年、自室を与えられたものの一人で眠るのを嫌がった私にミミタンを模したベッドカバーを作ってくれたのだ。これで寂しくないでしょう、と。小さい頃、このベッドカバーが大好きだった。ミミタンだけでなく一匹一匹に名前を付けていて、彼らが寒いのではないかと、ベッドカバーの上にさらに布団をかけて眠ろうとして母に苦笑されていた。
 このカバーだけではなく、うちにはいたるところに母お手製の壁掛けやら、クッションやら、編みぐるみやらが無秩序に並んでいる。お稽古バックや給食袋や上靴入れ。そういった布製品は全て母の手作りだった。昔は、それが嬉しかったし、自慢だったし、作ってもらえる自分が特別な子だと思えた。あのキッチンの赤い椅子に座って針を動かしている母の手元を覗き込み、危ないから離れていてね、とよくたしなめられたものだ。
 なのに、いつからだろう。母の手作りの品が息苦しくなってきたのは。
 母は専業主婦で、時間に余裕があるのか、手芸や手作りを趣味としている。けれど、本当に趣味として楽しんでやっているのだろうか。小学校三、四年生の頃、トイレに行こうと夜中に起きた時、母がいつもの椅子で手提げを縫っている姿を見たことがある。もくもくと、もくもくと、唇を横一文字に引き締めて。楽しい趣味というよりも、写経とか、もっと別の苦行でもしているかのような面持ちで。そして時折、窓の向こうを見て溜息をつく。
 その数日前に、私は軽い気持ちで母に新しい手提げをねだっていた。細かなアップリケの指定までして。でも、まさかあんな表情をして、溜息混じりに作っているなんて思ってもみなかったのだ。
 それから私が母に手作りの品をリクエストする頻度は減った。それでも母は作り続ける。古くなり捨てると、また新しいものを作る。抜いても抜いてもいつのまにか祖父の畑を覆い尽くす雑草のように。
 もういいのに、と思う。中学に上がった頃には、自分が大事にされていると感じられていた、手作りの品の魔法はすっかり消えていた。ごてごてとパッチワークされた布に覆われた我が家よりも、香世子さんの家のシンプルでシックなインテリアのほうが、よっぽど好ましい。
 時々、使用済みのお弁当箱や体操服を出し忘れて「忙しいんだから言われる前に出しなさい!」なんて怒られると、「そんなに忙しいんなら手作りをやめて。恥ずかしいし、気持ち悪い!」と、言ってはならないことを言いそうになる。
 言ってはならない。そんなことがある親子関係。
 昔は母になんでも話せていたのに。今は香世子さんのほうがずっとなんでも話せる。
 『ママ』と呼んでいたのは何年生までだったろう。幼稚園の頃は『ママ』。小学三年生ではもう『おかあさん』になっていた記憶がある。その境目はいつで、理由はなんだったのか。最近では『おかあさん』とすら、滅多に呼んでいない。
 母と香世子さんは対極だ。片や、洗練された独身のワーキングウーマン。片や、手作りに執念を燃やす専業主婦。どちらに憧れるか、そんなのは決まっている。
 以前、香世子さんは、母とは親友だったと教えてくれたが、きっと娘である私へのリップサービスだろう。対極の二人の仲が良かったはずがない。実際、今も昔も、二人が交流している様子はなく、二人が親しかったら、私自身ももっと小さな頃から香世子さんとお近付きになれていたはず。なんとも身勝手な話だけれど、母がうらめしく思われた。
 もう一度寝返りを打つと、ベッドの端に立て掛けていた通学鞄に足がぶつかり、倒れてしまう。と、その拍子に、鞄から白い紙袋が飛び出す。
 思い出して、私はいそいそと香世子さんからもらった紙袋を拾い上げた。中には白い化粧箱が入っており、さらにその中にはパステルカラーのマカロンが六つ行儀良く並んでいた。お菓子というよりも、雑貨とかコスメを連想させる可愛らしさで思わず頬がゆるんでしまう。
 紅、黄、緑、桃、茶。さんざん悩んでまずは紅を選び取る。歯を立てると、かしゅっとした食感がして、次にしっとり、濃厚な甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。多分、フランボワーズ風味。フランボワーズって普通のイチゴとは違うんだっけ? 考えながらゆっくりと味わいたいのに、不思議な食感のお菓子ははかなく舌の上で溶け消えてしまう。
 香世子さんがくれたお菓子は、甘く、柔らかく、ささくれだった気持ちを沈めてくれた。
 たびたび香世子さんは仕事先でもらったとか、おすそ分けとかで、お菓子をくれる。少量だけれど、とびきり綺麗で、上等なものを。たまに大人向きで、甘党の私には物足りないものもあるけれど、今日のマカロンはヒットだ。
 少しだからという理由で、家族には分けず、いつもこっそりひとりで味わう。本当なら親に報告して、お礼を述べてもらうべきなのだろうけど、そのあたりの微妙なところは香世子さんも汲み取ってくれていた。これは私と香世子さんだけの秘密。秘密というスパイスがいっそうお菓子を甘く、とろけさせるのだ。
 もう一つ食べようと小箱に手を伸ばし……なんとか、自制した。今日はもう角砂糖三個分の紅茶とフィナンシェを摂取している。体型が気になる年頃の娘としては、これ以上はやめておいたほうが無難だし、何より勿体無い。小箱の蓋を閉じ、金色のシールを元通りに貼り直し、机の引き出しに仕舞い込む。そして私は、残り少なくなった夕食までの時間を勉強に当てることにした。

 しばらく後の夕食はやっぱり豚の角煮で、私の席のコップの横には、風邪薬と胃薬が置いてあった。帰ってきた時、ぼんやりしていたことを母が気遣ってくれたらしい。
 迷ったけれど、風邪薬を飲むと眠くなってしまい机に向えなくなるので、結局どちらも飲まなかった。
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