〈一幕 直美〉再会1-1 

文字数 5,518文字

 『白』には、甘く柔らかく芳しいイメージがまとわりつく。
 お砂糖、ホイップクリーム、ババロア、メレンゲ、バニラ、ミルク、フリル、レース……
 うっとりと、滑らかで、陶酔させられる、誘惑の色。
 子どもの頃、親に白いワンピースをねだったが、すぐに汚すのだからと買ってもらえなかった。自分で買えるようになった頃には、その難しさを理解していた。
 手に届かない。触れたい。汚したくなる。
 それは、目の前で優雅にティーカップに口をつける幼馴染を象徴する色だった。

 天気雪、とでも呼べばいいのだろうか。
 薄紙を透かしたような白々と明るい太陽の下、たっぷりと光をまぶされて降りしきる大粒の雪。窓の外に広がる冬枯れの稲田は、まるで粉砂糖を振ったガトーショコラ。青空ではないけれど、妙に眩しい冬の午後――それは風花とも違う、不思議な景観だった。
 東海地方A県の田舎町。太平洋側に位置し、冬は乾燥した季節風が吹くため、滅多に積雪しない。子どもの時から雪は珍しい存在だった。それが今、惜しげもなく、天より降り零されている。
 ふと、彼女を最後に見たのも、こんな日だったなと思い出す。後から後から、舞い降りる、冬の使者。その下で、覆い隠されてゆく、白く美しく清浄な少女。彼女のために用意された舞台装置か、あるいは彼女自身が引き連れてきたのか……
「白雪姫みたいね」
 柔らかな声音に、私は我に返った。
 木製のテーブルを挟み、向かい合う幼馴染は、とおの昔に少女を卒業している。揺れるショートボブ、ツイードのロングジャケット、三連ダイヤのネックレス。どこから見ても成熟した女性の姿だった。だけれど、この、野兎を連想させる黒々とした眼差しは変わらない。彼女の呟きに、自分の心が読まれてしまったのではとドキリとする。
「今、いくつ?」
 だが、彼女が見つめているのは私ではなく、私に寄り掛かって眠る娘の美雪だった。
「先月、四歳になったばかりよ」
 安堵と微かな失望を味わいながら答える。
 出先だというのに、美雪はくうくうと安らかな寝息を立ていた。目を覚ませば癇癪を起こすので、あえて眠ったままにさせている。邪魔されたくないという想いも、正直あったかもしれない。
「はだは雪のように白く、ほっぺたは血のように赤く、髪の毛は、この窓わくの木のように黒い子どもが、うまれたらいいのだけれど……」
 唐突に発せられた、詩でも(そら)んじるような口調に、面食らう。香世子はテーブルに片肘を突き、わずかに身を乗り出して、微笑んだ。
「あなたもそんなふうに願ったの? 白雪姫の母親のように」
 ――願ったというのなら、むしろ、貴女(あなた)
 陽射しと呼ぶには柔らかく淡い雪明かりが照らすティールーム。ゆったりと流れる音楽は、サティのジュ・トゥ・ヴ。平日の午後三時過ぎ、私たち以外に客はいなかった。
 緩い弧を描いた紅の唇を、泣きたくなるような気持ちで見つめる。二十年ぶり。けれども、その白さも、赤さも、黒さも、ますます匂い立つほどに艶めいて――
 彼女がこの町に戻ってきているのは知っていた。
 だけど、もう一度向かい合えるなんて思ってもみなかったのだ。

 事の始まりは、三箇日も過ぎた頃に届いた一枚の年賀状だった。
 三十路を過ぎると、受け取る年賀状は家族写真をプリントアウトしたものが格段に増える。ポップな配色、子どもの笑顔、長男・次男と連なる名前。結婚する前はこの手の年賀状はうんざりだったが、娘を持った今では送り手の気持ちがよくわかる。誰だって自分の子が一番可愛いに決まっている、それを受け入れるほどの度量は人並みには培っていた。
 だが、やや食傷気味になっていたのも事実だ。だからこそ、雪の結晶が数片散らされただけのシンプルな一枚が余計に目を引いたのだろう。
 『 HAPPY NEW YEAR 』
 書いてあるのはその一言のみ。しかし、素っ気無く、無機質に感じられたかといえばそうではない。かえってある種の清冽さを私に与えた。こんな趣味の知人がいただろうか? 何気なく裏返せば、
 『藤田 直美様』 
 細く、とろり溶ける半透明の飴細工を連想させる筆跡。差出人は――
 『佐和市青葉町大字**** 初瀬 香世子』 
 それは自宅から数百メートルも離れていない住所。そして、もう何年も前に心の奥底に沈めたはずの名前。
 ……帰ってきてたんだ。私は放心したように呟いた。

 初瀬香世子(はせかよこ)は小学五年生の春に引っ越してきて、次の春を迎えず、再び転校した友人だった。
 とは言っても、初瀬家の人間全てがこの町からいなくなったわけではない。彼女の実家は依然として、我家の近所に在る。つまるところ、たった十一歳の少女がひとりでよそに出されたのだ。彼女の転校は寝耳に水で、当時の私はひどく困惑した。仲が良かったただけにショックだった。
 香世子の母親は後妻であり、血が繋がっていない。複雑な家庭の事情とやらで、おそらくは実母の側に引き取られたのだろう。深く追求してはならない――子ども心に重苦しい空気を嗅ぎ取り、私が香世子の連絡先を担任教師や初瀬家に尋ねることはついぞなかった。
 突然舞い込んだ年賀状を握り締め、彼女に連絡をとるか否か、私は延々と悩んだ。長年、やりとりのない友人と向き合うのは、思いのほか勇気が要るものだ。手紙の一通も送ろうとしなかったという負い目もある。返信を出しそびれているうちに松の内が過ぎ、早々と一月は終わろうとしていた。礼儀としてせめて寒中見舞いを出そうと何度かペンを手にしたが、こんな目と鼻の先でハガキのやりとりをするなんて、と妙な気恥ずかしさが邪魔をした。
 家事や子育て、夫の世話。日々の雑事に、美しい白雪のカードは埋没してゆく。けれど、常に頭の片隅にあったのも事実だった。
 だから。だからこそ。
 一昨年前、郊外にできた大型ショッピングセンター。その一画にあるスーパーで娘をカートに乗せ、夕飯のおかずを吟味している私の横を通り過ぎようとした人物。自分と同世代の、けれど、所帯じみた主婦とは明らかに違う風体の、すらりとした女。
 同じ町のごく近所に住んでいるのだ、いつかは出会っていただろう。だけれど、私は必死だった。この偶然――あるいは運命――を、逃してはならないと。それとも単なる衝動だったのか。
 名を呼ぶよりも先に、咄嗟、彼女が小脇に抱えていたコートを掴んでいた。そのカシミアの色は、白。二十年ぶり。だけど見間違えるはずがない。この私が、貴女を。
「――香世子?」
 長年、胸の中で燻っていた名を音にした時、奇妙な違和感を覚えた。……人違い? いやそんなはずは。
 女の切れ長の瞳がいっぱいに見開かれ、実際よりもずっと引き伸ばされた沈黙が過ぎ。
「……久しぶりね」
 彼女は、ゆっくりと微笑んだ。

 ――お待たせ致しました、ごゆっくりどうぞ。
 飲み物に少し遅れて、二人分のケーキが運ばれてくる。
「ここのショートケーキ、とても美味しいのよ」
 下に敷いてあった銀紙を丁寧に押し広げながら、香世子が嬉しそうに言う。
 促されて私も賞味する。柔らかなクリームとしっとりしたスポンジは、舌先に乗せたとたん淡く儚く消えてしまう。あとには瑞々しい苺の酸味がほのかに香って、ちっともくどくない。大人向けの上品な味わいだった。
 美味しいと素直な感想を告げると、香世子は目を細めた。なんとはなしにデートのような気恥ずかしさを覚え、私はもう一切れ、ケーキを頬張った。
 互いを認め合えば、長らく会わなかった歳月など、一足飛びだった。再会を喜び合い、時間の有無を確認すると、香世子はショッピングセンターから少し離れた洋菓子店に案内してくれた。田んぼだらけの見通しの良い平地に、ポツンと佇んだ瀟洒な建物。地元民である私でも知らなかった『Sun room(サンルーム)』というその店を、香世子は仕事の関係で教えてもらったのだと説明してくれた。以前、有名ホテルに勤めていた人が、オーナー兼パティシエとして地元に開いたのだという。
「今はライターをしているのよ。スイーツの特集を担当した時にね」
 ライター。それはどこか都会的な雰囲気を漂わせている彼女に似合いの職業で、私はとても納得し、満足した。
 それにしても、と香世子は苦笑する。
「よく私だとわかったわね。そんなに変わってないかしら?」
「そういうわけじゃないけど」
 昔の面影を残したまま、洗練された大人の女になった親友。こちらの思いを知ってか知らずか、香世子はどこか面白がるような素振りで見つめてくる。私は買い物途中からずっと眠っている娘の額に掛かった髪を直すフリをして、その視線から逃れた。
 ふいに、香世子は鞄から陶製の小瓶を取り出した。ソルトケースだろうか。蓋付きのごくシンプルなデザイン。彼女はためらいなく蓋を開け、自分の前に置かれたケーキに、さらさらと粉末を落とす。
 白いクリームに、白い粉を、白い指先がまぶす。あまりの眩しさに、私は目をすがめた。
「……お砂糖?」
 香世子は、たっぷりと粉が掛かった生クリームをフォークの先に乗せてペロリと舐め、
「健康食品みたいなものよ。カルシウム不足を補ってくれるの。ちょっと体調を崩していたから」
「ああ、うちの母も飲んでるわ、そういうの。……だから実家に戻ってきたんだ?」
 言われてみれば香世子は少々痩せ過ぎで、顔色もあまりよくない。原稿の締め切りともなれば、過酷な労働を強いられるのだろう。だが、彼女の次の台詞は私の想像を大きく裏切った。
「離婚したの」
 白い微笑。それは白々しい、という意味ではない。洗い立てのシャツのような清潔さを香らせた、それ。
「子ども、駄目にしてしまって」
 香世子はフォークを下ろして、そっと腹の上を撫でる。――流産。
「一年経って、話し合って、決めたの」
「でも、そんな。だからって離婚させられるなんて」
「お互いに納得済みなの。失ったものは取り戻せないって。もちろん子どものことが一番の理由だけど、他にも色々事情が重なってね」
 私はひどくうろたえた。こんなに綺麗で、こんなに細く、こんなにか弱い、貴女が。それはなんという悲劇なのか。自分だって結婚して子どもをもうけたのだ、信じられないと嘆くほどうぶ(・・)じゃない。だが、私の(あずか)り知らぬところで香世子が辛い人生を送っていたのだと思うとやりきれず、また悔しかった。
「あなたがそんな顔しないで」
 ――でも、ありがとう。伏し目がちに、香世子は呟く。
「本当に心配してくれるのは、あなただけね」
「…………」
 ほと、ほと、といつの間にか雪は止もうとしていた。
 薄い雲がさらに引き伸ばされて、青空が透けて見える。あと三十分もすれば、すっかり晴れ渡るだろう。対照的に香世子の表情は曇り、手元を見下ろしたまま、言葉を紡ぐ。
「二十年前は、ごめんなさい。理由も告げずにいなくなって」
 唐突に甦る、十一歳のあの日。一時間目、二時間目、三時間目……いつまで経っても、埋まらない斜め前の席。私は教室の喧騒の中、ひたすら祈っていた。
 とても寂しかった。悲しかった。苦しかった。貴女という友人を失って、私はこの田舎町で空虚だった。でも。
「理由なんて、もう、どうでもいいの」
 最早、彼女を責める気持ちは一片も無い。今、貴女はここにいる。こうして私の前に戻ってきてくれたから。
 香世子が顔を上げる。整った面に光が当たり、陰影が深まる。
 ああ、彼女だ。私は身震いするほどに実感した。一見、無表情にも思える、だがこの上なく無垢な瞳。かつて私を見上げた少女とそっくり同じの表情。
 瞬間、膨れ上がった、彼女の指先を手繰り寄せたいという衝動を私は宥めすかした。荒れた手では触れられない。せめて出掛けにハンドクリームを塗ってこれば良かった。そんなことを考えながら、告げる。私たち友達じゃない、と。
 香世子はもう一度、ありがとうと繰り返した。

「そろそろ行かなきゃ」
 互いの近況を報告し、小一時間ほど経った頃。香世子は細いシルバーの腕時計を確認し、コートと鞄、そして伝票を手に立ち上がった。
「忙しなくて、ごめんなさいね」
「ううん、会えて嬉しかった。……また、会える?」
 私の言葉に、香世子は不思議そうに小首を傾げ、
「ご近所だもの、当然じゃない」
「あ、うん、そうよね」
 はぐらかされたような返答に、頬が火照った。物欲しげに響いてしまっただろうか。見透かされている? そんな、まさか。
 と、彼女は鞄をさぐり、やおら白いカードを突き出してきた。優雅でありながら、飛び立つ鳥にも似た唐突さに、私は瞬く。
「いつでも」
「え?」
「いつでも電話して。最近、仕事の量を減らしたから、都合がつきやすいの」
 受け取ると、それは名刺――携帯電話の番号も書いてある――だった。呆気にとられた私に、香世子は微笑み、にわかに腰を屈めて顔を寄せてくる。それは不意打ちだった。くらりと貧血にも似た眩暈に襲われる。甘い香りが鼻先を掠める。柔らかな体温が伝わってくる。
 だが、身構えた体の緊張と期待とは裏腹に、彼女の唇はあっさりと私を通過して、傍らの娘の耳元に落ちた。
「今度は、目覚めた時に会いましょうね。美雪ちゃん」
 そうして彼女は、クリームを一掬いつまみ食いするように、美雪の頬をちょこんと撫でたのだった。

      
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