〈幕間 美雪〉取引9-3

文字数 4,560文字

 私は左足甲の骨折とこじらせた風邪で、学年末テスト終了から一週間寝込んでしまった。高台の邸からは父の帰宅を待ち、深夜になってから背負われて自宅に運ばれたという。
 そのまま冬休みに突入し、回復した頃には当然、三者面談も私立推薦の学内選考も終わっていた。担任は私の回復を待ち、冬休みに入ってから三者面談の機会をもうけてくれた。
 そこで初めて自分がN西女推薦の学内選考から漏れたことを知らされた。こちらの体調を慮ってなのか、担任に言い出す勇気が無かったのかわからないけれど。どちらかと言えば、そこそこの成績である自分より、良くも悪くも優先度の高い生徒たちにかまけていたら、うっかり忘れてしまっていた、というふうだろう。
 N西女の推薦は、他に若干名希望者がいて、他クラスの女子に決定したそうだ。担任はいいわけめいて「藤田は部活動をやってなかったからなあ」と呟いた。
 織り込み済みだったくせに。内心思わないでもなかったが、それでも私は予想よりもずっと冷静に事実を受け止めた。進路はT高校一本に絞られた。これからの高校三年が灰色どころか溝鼠色に染まることを覚悟する。いや、覚悟ではなく単なる予想か。それでも、なんの心づもりが無いよりはましだろう。
 けれど、そこで驚くべきことが起きる。母がN西女の一般受験を認めてくれたのだ。あれほど推薦枠をとれなければ諦めろと言っていた母が。
 どういう心境の変化なのだろうか。けれどその問いを三者面談中にするのは、憚られた。母も担任も、N西女の一般受験をするのが当然のような、いってみれば予定調和の面談だったから。不可解ではあったけれど、私自身がその予定調和を崩す愚は犯さなかった。その場で私は、N西女とT高校ともう一校滑り止めの私立を一般受験することに決まった。
 
 左足の骨折は全治二か月。といっても、ギプスは一か月ほどで外れるそうだ。若いので治りも早いでしょうとは医者の弁だった。折れたのは甲部分のため、ゆっくりならば松葉杖なしで歩けなくもない。ギプスもふくらはぎ下からつま先手前までを覆うもので、ズボンを履いてしまえばほとんど見かけ上はわからない。それでも徒歩二十分かかる通学は厳しく、今日の三者面談も母が運転する軽自動車に乗せてもらった。
 連れ立って校舎を出て、校舎裏にある田舎の中学のただっぴろい駐車場を歩く。前を行く母との間に、わずかな距離をとって。
 冬休みに入って三日目、まだ年末年始休みまでは間があり、グラウンドからは運動部の声が響いてくる。沈黙を埋めるにはありがたかった。
 年輩教師たちのセダンが点在する灰色の駐車場で、母のウグイス色の軽自動車は場違いなおもちゃめいて目立った。今にも雪が降りそうな曇天だったからなおさら。
 助手席のドアハンドルに手を掛け引く。が、開かない。いじわるでもされているのか、これ以上風邪をこじらせたくないのだけど。そう非難の眼差しを母に送ると、彼女は運転席のドア横であさっての方向を向いてぼんやりと佇んでいた。
 ちょっと。そう促そうと声を上げる寸前に思い出す。この中学が母の母校であるという事実を。
 母の代からとっくの昔に建て替えられた校舎を見上げているのか、その後ろに広がるグラウンドを眺めているのか、よくわからないけれど。母は〝娘の中学校〟ではなく、〝自分の母校〟を見つめているのかもしれなかった。
 どんな中学時代を過ごしたのだろう。その頃、香世子さんはもう引っ越して不在だったはず。中学卒業後、母はT高校ではないがやはり地元の公立S高校へ進学して、県内の短大に進んだ。
 本当に、母は私のN西女への進学を許しているのか。疑念が頭をもたげた。高校卒業後は四大に通いたいし、できるならば地元を出て一人暮らしもしてみたい。だけど母は――
「本当にいいの?」
 私の言葉ではない。一瞬、内心の声が読みとられたのかと思ったが、それは早とちりだった。乾いた風に吹かれながら母は口を開く。油気の無い髪が乱れるのを腕でかばっているせいでその表情が読めなかった。
「N西女を選んだのは、茉莉ちゃんのことがあるからでしょう?」
「茉莉には言わないで!」
 反射的に叫んだ。叫んでから後悔した。冬の冷気以上に冷たい何かが、熱をもった頭を冷やす。
 新森一家が引っ越した今、母が茉莉と話す機会はまずない。やぶへびだ。訝られるのではないかと身構える。けれど、腕を下ろした母は無表情だった。あるいは無表情という仮面を被っていたのか。
「……茉莉のおばさんにも、言わないで」
 迷いはしたが、念のために釘を指す。母が喋るとしたら、母自身の幼馴染である茉莉の母親にだ。おばさんが気にするといけないから、といいわけのように付け足した。
「あんたが真実本当にN西女に行きたいならもう止めない。だけど、」
 母が気づいていたなんて。一瞬、茉莉の件は香世子さんから伝わったかと訝ったが、それはないような気がした。香世子さんは面と向かって私が嫌だということはしない。
 では、どうして。冷静になって思い返せば、母が気付くのも当然かもしれなかった。新森家の引っ越し、T高校希望の取り下げ、N西女への進路変更。因数分解と同じく、一つ一つの事象を共通項目でくくれば、シンプルな解が見えてくる。
「大丈夫だから。ちゃんと自分で決めたから」 
 どういう偶然か唐突に風が止み、思いのほか大きな声が駐車場に響く。車のボンネットを挟み、母と視線が絡んだ。
 正直なところ、まだN西女に行きたいのか自分でもよくわからない。N西女の推薦枠を勝ち取ったのは大日向有加かもしれなく、だとしたらかなり厄介なことになる。けれどN西女をやめるなら、私の進路は自動的にT高校へと切り替わる。すなわち、この中学で最も受験者が多い高校に。
 どこかの運動部の女子たちの集団だろう、グラウンドから甲高い笑い声が流れてくる。それは学年末テスト中、光溢れる教室にいながら迷い込んでしまった暗い森を思い起こさせた。蔓草が足を絡め取り、腕をしばり、やがて全身にまではびこり息を止める。毒と同じだ。けれど、蔓草ならば断ち切れる。
 私は母に向かって、N西女に行きたい、とはっきりと告げた。
 友人関係で志望校を決めるなんて不真面目だと、また小言を言われるのかと身構える。しかし、先に視線をそらしたのは母だった。
 それならいいわ、と無感動に呟き、キーロックを解除する。いい加減身体も冷えてきて私はそそくさと助手席に身を滑らせる。けれど、やはり左足の不便があり、動きが鈍くなる。だからこそ、母が再びこちらを見ているのに気付いた。
 少なくとも、前途ある若者を見送る晴れ晴れとしたそれではない。あえて言うのなら、狩人が白雪姫を見逃して森へ見送る、哀れむような、悼むような眼差しだった。
 そして自宅までの十分弱、母と二人きりの車中でその眼差しの意味を問うことはなく、冬休みが終わりたびたびあった送迎の車中でもそれは同じだった。

 *

 クリスマスは寝込んで過ごし、大晦日はかけそばを啜り、お正月は母屋で雑煮をつつき、受験生という私に配慮してか家での年中行事は食べるだけに終始して、簡素に終わった。母の手作りの品も鳴りを潜めていた。
 そして最終学期が始まり、同時に本格的な受験シーズンが幕を開ける。左足を骨折した私は登下校は車で送迎してもらう恩恵に浴していた。朝は父の出勤のついで、帰りは母あるいは祖父母に頼んでいた。
 元々の女子グループとの諍いに加え、学年末テスト中の態度の悪さ、そして車で送迎という特別扱いにいよいよ孤立を極めるかと危ぶんでいたけれど、怪我をした私に級友たちは親切だった。掃除当番のゴミ捨ては代わってくれるし、移動教室の際はわざわざ連れ立って歩調を合わせてくれ、挙げ句、トイレの順番まで優先してくれる。
 ギプス同様、居心地の悪さと鬱陶しさ、暑苦しさを感じないでもない。けれど突発的に叫びだしたくなる衝動さえなだめすかせば、まずまず快適な学校生活だった。
 受験の慌ただしさの中、一月八日――十五歳の誕生日を迎えた。紡錘に刺されることも、海の上で王子と出会うこともなく、珍しく早く帰宅した父が仕事帰りに買ってきたカットケーキを食後に食べるだけで終わった。ケーキは『Sun room』ではなく、チェーン展開している洋菓子店のもので、大味ではあるが十分過ぎるほどに甘かった。
 誕生日プレゼントとして欲しいものがあるか。父にそう問われて、私は黙り込んだ。コート、ワンピース、バック、手袋、マフラー、帽子、ネックレス、香水、ネイル、靴……結局、何がほしかったのだろう。自分自身でもよくわからない。あの白い陶製のソルトケースは、高台の邸を訪れた日以降見ていない。香世子さんに返却されたのか、母がまだ持っているのか。
 どうした、という父の呼び掛けに私は我に返った。欲しいものがないわけではない。でもまったく思い浮かばず、受験が終わったら考えるとだけ答えた。何を考え違いをしたのか、高校生になったら携帯電話ぐらいほしいよな、と父は一人で得心していたけれど。
 自室に引き上げ、デスクの椅子に座るが、勉強道具を広げることなく頬杖をついてぼんやりとする。しばらくして立ち上がり、窓辺へと向かう。クレセント錠を押し上げ、窓を開くと痺れるほどの冷気が頬を叩いた。
 今夜、木立の向こうの邸から明かりは滲み出ていない。母と連れだって高台の邸を訪れて以来、香世子さんとは顔を会わせていない。熱が高く、意識が朦朧としていた時をのぞき、邸の明かりやゴミ出しの日など注視していたけれど、人の気配が感じられなかった。赤いフォルクスワーゲンも不在だ。泊まりがけの仕事に行ったのだろうか。それとも菩提寺のある県を訪れているのだろうか。
 安堵とも失望ともつかない溜息が夜に白くこごる。
 実のところ、今日こそ香世子さんが帰ってくるのではと期待し、同時に恐れていた。十五は特別な年よ、と身を寄せた美しい人。そして幼い私が大切な『宝物』を喪わせた人。少なくとも、母はそう推論していた。あの晩の、階段上での二人の会話と、向き合ってお茶を飲んでいた幕間のような情景を思い出す。
 過去、香世子さんと母の間に何があったのか。香世子さんの『宝物』とはなんだったのか。本当に私は香世子さんのお父さんに連れ出されたのか――溶けきらなかった砂糖のように謎はいくつも残り、嫌なざらつきを舌の上に残す。けれど、この件について、面と向かって母と話すことはできなかった。してはならない気がした。
 ただ一つだけは確認した。せずにはいられなかった。香世子さんには子どもがいたのか、と。母は私を見つめた後、伏し目がちに頷いた。香世子さんには、交通事故で亡くなった娘がいた。そう言葉少なに母は教えてくれた。
 ――だったら。
 星も出ていない、黒く塗りつぶされた夜にもう一つ溜息を落とす。
 だったら、香世子さんは私を憎んでいるだろうか。
 七つの山を越え、手を変え品を変え姿さえも変え、何度でも何度でも何度でも白雪姫の抹殺を試みたお妃のように。
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