〈二幕 美雪〉夜回8-3

文字数 3,950文字

 辿り着いた高台の白い邸には煌々と明かりが灯っていた。門扉を開け放ち、芝生を踏み付けてアプローチをショートカットして、衝突する勢いで玄関ドアへ行き着く。そして歩き疲れた森の奥、ようやく人家を捜し当てた旅人のごとく、縋るようにインターホンを鳴らした。
 けれどしばらく待っても応答は無い。明かりを消し忘れたまま出掛けてしまったのか。しかし、赤いフォルクスワーゲンは駐車場に行儀良く収まっている。焦った気持ちを押さえ切れずインターホンを鳴らし続けた。
「……どちら様?」
 ほどなくして、とろり眠たげな声が漏れ聞こえてきた。いかにも寝起きという風情で。
「香世子さん、私、美雪。お願い、開けて!」
 常ならば、香世子さんにとって迷惑となるような行動はできる限り慎んでいる。香世子さんと相対する時は、気遣いができる聡明な少女であろうとして、それを誇りにしていた。けれど今はそんなちっぽけな誇りに構っていられない。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「大日向有加が、大日向さんが学校に来なかったの!」
「あらそう。それは良かったわね」
 香世子さんの口調ははいつもと同じく柔らかかったが、同時に冷ややかだった。
 私の立場にからすれば、大日向有加の欠席は喜ばしい。大日向有加に対する同情心がまったく感じられなかったことではなく、こちらの切羽詰まった感を理解されなかったことに対して冷たく思われた。ともかく、状況を伝えんとインターホンに向かい唾を飛ばす。
「でも、先生が、ひどい腹痛を起こしてるって。香世子さん副作用は無いって言ってたよね、なのにどうして!? 大体、私、飲ませてなんか――」
「大日向さんはテストを受けなかったのね。美雪ちゃんの望みが叶って嬉しいわ」
 会話がまったく噛み合っていない。原稿の〆切明けか何かで寝ぼけているのだろうか。玄関ドアのノブに手を掛けるが、鍵が掛かっている。がちゃがちゃと回したり上下させたりするが開く気配はなかった。
「早く開けて、香世子さん! 大日向有加が手遅れになったら、」
 それは悲痛でありながら、滑稽であり、皮肉な叫びだった。嫌悪していたはずの私が大日向有加の身を案じるなんて。
 けれど返ってきたのは、優雅というよりものんびりとした声音で、どこか浮世離れしていた。内容はことさら。
「あなた、本当に美雪ちゃん?」
「ええ?」
「私が知っている美雪ちゃんはそんな乱暴にドアを叩かないわ。それに声も変。がらがらのがらっぱち」
 唖然としてしまう。本気で言っているのだろうか。あるいはお酒でも飲んで酔っ払っているのか。
 乱暴なのは今が有事だから。声が変なのは風邪のひき始めだから。そんなことをこの状況下で説明する気にはなれなかった。そもそも玄関にはカメラが設置されており、こちらの様子が見えているはずなのに。私は声を張り上げる。
「香世子さん、ふざけないで! お願い、開けて!」
「では、証拠を見せてちょうだい」
「……証拠?」
「あなたが美雪ちゃんという証拠よ」
 どこかで読んだ話だった。
 こつこつ。扉を叩く音。七匹の仔山羊たちが、母さん山羊のフリをする狼に、母さん山羊のきれいな声ではないと追い返す。
 こつこつ。再びやって来た狼に今度は前足を見せてと言う。母さん山羊の足は白い、狼の足は黒い。狼はパン屋と粉屋に赴き、足を白く塗る。
 こつこつ。香世子さんの要求は、私の想像の外のものだった。
「私と『こうかんこ』した宝物を持ってきて」
「……たからもの?」
「私は美雪ちゃんから指輪をもらったわ。美雪ちゃんは私があげたものをもちろん大事にとっておいてくれているわね」
 幼い私がアミュレス・アミュレットと交換したという、宝石箱の中に入っていた何か。一向に思い出せないそれ。何度も思い出せないことを告白しようとした。今日、この時に蒸し返されるなんて。
「あなたが美雪ちゃんならば、二人の絆を証明できるはずよ。さあ、早く見せて」
 言外に、宝物が無ければ『美雪ちゃん』ではないと含めて。
 香世子さんは母さん山羊を思わせるきれいなやさしい声音で、しかしインターホン越しに冷厳と告げた。

 かつての遊び部屋である六畳間に飛び込むと、脳天気な襖の落書きが私を迎えたが、今日は悠長に鑑賞などしていられなかった。
 あれからインターホン越しの声はふつり途絶え、いくら鳴らしても、呼びかけても、ドアノブを押しても引いても白い邸の主は応えてくれなかった。
 冗談ではなく、本気なのだ。そう理解すると、私は泣き出したい心地で、けれど泣く暇などなく、母屋に駆け込んだ。
 突然やってきて部屋を荒らし始めた孫娘に、祖父母は目を丸くしてどうしたのかと訊いてきたが、それに答える余裕はない。押入れから手当たり次第におもちゃをひっくり返すが、一度は漁り済みだ。目ぼしいものが見つかるとは思えず、実際に見つからなかった。
 小一時間後、祖父母に説明もせず、片付けもせず、挨拶もせず、母屋を出て自宅へ向かう。明かりが点いていないことから予想はできていたが、母はまだ帰っていなかった。受験生の娘を放ったらかしにしてという苛立ちと、家捜しするには都合が良いという思いが入り交じる。いや、母に対しての苛立ちは、こんなに困っているのにどうして助けてくれないのという甘えなのだと薄々は気付いていたけれど。
 自室、リビング、畳部屋。こちらも既に先日さがしているので、そうそう見つかるとは思えない。あと残るのは夫婦の寝室ぐらいだった。
 そこは思春期の娘としてはあまり立ち入りたい部屋ではなく、先日は宝物さがしをした際は、深夜で母もいたため、大っぴらには漁っていない。寝室にはシングルベッド二台と化粧台とチェストが置かれ、押入代わりのクローゼットが備え付けてあった。やはりこの部屋も、ベッドカバーや壁掛けなど母の手作りの品が蔓延っていたが、父に配慮してあるのか色調はブルーで統一されており、他の部屋より甘ったるさは控えめだった。
 まずは化粧台とチェストの引き出しに取りかかるが、めぼしい品は見つからない。次にクローゼットを開ければ、クリーニングから戻ってきたままのスーツやコート、ワンピース、そして旅行鞄などがぎゅうぎゅうに詰め込んであった。密林に入る心地で分け入れば見覚えのない衣服も多い。特に女物の白いレースのワンピースはまったく記憶になく、母自身の服はシンプルなものばかりで趣味とも思えず、もしかしたら貰い物かもしれなかった。
 どうして着もしない衣服をとっておくのか、どうしてこんなにもたくさん鞄があるのか。父の出張は多いが、ここ十年ほどは毎回決まった黒いボストンバックしか使用していないはずだ。女物の鞄はもちろん母のもので、旅行のたびに新調しているのではないかと思われた。いったん鞄の類をクローゼットから伐採して運び出さないと探索が続けられない。毒づきながら、放り投げるように出してゆく。と、一つの古びた鞄を掴んだ時、奇妙な重さを感じ取った。
 ファスナーを開ければ、紙袋に包まれた平べったい何かが入っていた。本にしては厚みがない。紙袋から中身を取り出し、その視線にひっと音を立てて息を吸った。
 赤い絵本。黒髪の少女が大きく映し出された表紙。髪の一筋、睫毛の一本、わずかにのぞいた歯並びさえも克明に描いてある。
「……白雪姫と七人の小人たち?」
 呆然とページをめくるうちに、徐々に記憶が甦る。私は、この絵本を、知っている。
 表紙の少女が好きで、何度も寝しなに読んでとねだった。文字が多くて、いつも途中で眠ってしまい、いつの間にか消えていた絵本。好きだったにも関わらず、消えたことすら気付いていなかったそれ。どうして、こんなクローゼット奥の鞄の中に、まるで隠すように仕舞い込んであったのか。
 稲妻に打たれたように絵本を手に立ち上がり、――そう、これこそが香世子さんと交換した宝物なのではないだろうか――そして足が萎えたように再びへたりこんだ。
 香世子さんは螺鈿の宝石箱に入っていたものと交換したと言っていた。この大判の絵本が宝石箱に収まるはずがない……では、なに?
 香世子さんはなんと言っていただろう。他にヒントはなかったか。必死に記憶を手繰り寄せる。なんでもいい、思い出せ、思い出せ、思い出せ――『Sun room』のショートケーキ。N西女。アミュレス・アミュレット。三回忌。宝石箱。忘れ姫。グリム童話。香世子さんはどの話が好きと言っていた? 忠臣ヨハネス、杜松の木、子どもたちが屠殺ごっこをした話……原本は改竄される。どうして? おそらくは生き良いように。千匹皮。娘に求婚した父王。真っ白なソルトケース……そして、キス。だから、頑張ってね。美雪ちゃん。
 美しい年上の人に胸のうちで呼びかける。一体、何を頑張れば良いの、香世子さん。大日向有加に勝てば頑張ったことになる? 大日向有加は倒れ、私がN西女の推薦を獲得できる可能性は高まった。でも、本当にそれだけだろうか。
 大日向有加は私の受験のライバルであるが、他にも厄介な面がある。すなわち、香世子さんの信奉者、ストーカーだ。
 写真の送り主も大日向有加だとして、これが初めてではなく、常習犯だったとして。香世子さんが、それに気付いていており、疎ましく思っていたとしたら。女性の一人暮らし、身に危険すら感じていたとしたら。私は一つの可能性に思い当たる。
 冷ややかなフローリングにへたりこみ、スカートのプリーツを体重で圧し殺し、衣服と鞄の山に囲まれたまま、呟いた。
 
 ……私は、貴女に利用されたの、香世子さん?

 
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