〈終幕 美雪〉証明10-2

文字数 5,460文字

 肩を借りる、という行為は想像以上に密着するものだ。
 骨折した左足の甲は、もうほとんど痛まず、階段の上りはそんなに苦労がない。むしろ、下りる時のほうが、バランスを崩さないか、サンダルを滑らせないか、注意しなくてはならない。
 だから、一度は断った。けれど、二度は断らなかった。身を寄せれば相手に自分の手入れが行き届かないところまで見えてしまう危険がある。けれど、久しぶりに香世子さんと会った私は、羞恥心よりも飢餓感が勝った。彼女への(かつ)えを、結局、読まれていたのだろう。
 さらさらと頬にあたる黒髪、立ち上る香り、熱い吐息。今感じているそれらは私自身のものか、香世子さんのものか。それは溶け合い、混じり合い、調合された媚薬となった。
「少し休みましょうか。下、ぬかるんでいるから気をつけて」
 さほど長くない石段だが、ちょうど真ん中に踊り場があり、左右には石灯篭が設置されていた。両脇の木々の枝葉が日光を遮っているせいだろう、足元には小さな水溜りがあった。それを避けて香世子さんは足を止めて息を吐く。心なしかほんのりと頬が上気しているように見えた。
 大丈夫? とこちらを気遣う彼女の口腔内から赤い飴玉がのぞく。私はそれを見つめながらぼんやりと頷いた。今更、キャンディーが欲しくなったとはさすがに言い出せなかった。
 歩みを再開し、しばらく。湿気を帯びた冷気が増す。緑の匂いがより濃くなる。赤い鳥居が立ち上がる――たどり着いた神社に人影はなく、物憂いカラスの鳴き声だけが響いていた。
 あっさりと回されていた腕が外され、温もりというにはやや熱過ぎる身体が離れる。安堵とも名残惜しさともつかぬ息が漏れ出た。
 香世子さんは少女のように軽やかに参道へと踏み込んだ。一歩先行き、くるりとこちらに向き直る。
「ここに来るのは随分と久しぶりだわ。美雪ちゃんは?」
「上まで来るのは初めてかも」
 ごくスタンダードな小さな神社。宮司や神主の姿もなく、特に見るべきものがあるわけでもない。わざわざ足を運ぶ理由はなかった。しかし、こちらの回答になぜか香世子さんは首を横に振り、
「美雪ちゃん、私と一緒にここに来たことあるのよ」
「ええ?」
「黄色い鞠を追いかけてね」
 慌てて記憶を探る。香世子さんとやって来た? 一瞬、絵本めいた情景が浮上した。黄色い鞠を追いかける女の子。その後には、赤い椿、白い椿がてんてん落ちてゆく。鞠を拾ったのは、白いマントの女王様。いい子にしてたら、かえしてあげる。
 かえす――返す? 帰す? それはどちらの意味だったのか。
「そういえば、あったかも。なんとなく覚えてる……」
 どこか夢見心地で呟く。しかし。
「嘘よ」
「え」
「美雪ちゃんとは来たことないわ。簡単に引っかかっちゃ駄目。こんなんじゃ先々苦労するわよ」
 さもおかしそうにくつくつ笑う。
「香世子さん、でも、本当に」
 〝こうかんこ〟に関しては思い出せなくて嘘をついたけれど、でも今は本当に浮かびかけたのだ。私はこの神社に来たことがある。
 反論しかけたが、拝殿に向かってさっさと歩き始めた真っ直ぐで高潔な背と言葉の裏に潜む意味に、私は沈黙を強いられた。
 美雪ちゃんとは(・・・・・・・)。では、誰と来たというのか。その言い回しが香世子さんの手管だとは理解していた。そして私が理解しているということを、香世子さんも理解しているはずだった。
 参道脇に設えてあった手水舎の水は濁っており、お清めははしょっちゃいましょ、と悪びれず香世子さんはさっさと参道の砂利を踏み進む。もちろん、真ん中ではなく、少し端を。古風ではあるけれど、無駄は切り捨てる。それは彼女の美徳で、憧れだった。今もってなお。
 そうして古びた拝殿の賽銭箱前に立ち、いつのまに用意していたのか、彼女は五百円玉を差し出してくる。
 お賽銭にしてはやや額が大きい気がしたが、香世子さんはいいのよと言い、その言葉に甘んじた。香世子さん自身も五百円玉を持ち、賽銭箱に落とし、二礼二拍手一礼する。流れるような所作で、手を合わせて目蓋を閉じた横顔は美しかった。私も真似て、お参りする。
 手を合わせていた時間はそう長くない。一般的な合格祈願の時間は知らないけれど、後ろに待ち人がいないことを考えれば、比較的短いのではないかと思う。誘ってくれてお賽銭まで出してくれた香世子さんには申し訳ないけれど、私自身が〝神頼み〟というものをあてにしていないからだろう。
 だから、そう長い時間でもないのに、目を開けた時、同じく参拝していたはずの香世子さんに凝視されていたことに気付き、ぎょっとさせられた。
 無言のまま、無表情に、無心に、見つめている。漆黒の眼。同じ眼差しを知っている――ミミタン。唐突に思い出したのは、なくしたはずのウサギのぬいぐるみだった。
「本当にいいの?」
 つい先日、聞いたばかりの台詞。校舎裏の人気ない駐車場で、他でもない母から問われた。本当にいいの?
 どうしてこの二人が同じ台詞を口にするのか。示し合わせているのか。一瞬、疑うが、二人の関係性からそれは考えにくい気がした。
「N西女を第一希望にした一番の理由は、新森茉莉さんのためでしょう?」
 母と香世子さんはできているのか。まったく重なった問いかけに、品のない発想が過ぎった。
「新森さんのおうちに近いから選んだんでしょう。それで本当に良いの?」
「ちがう、それだけじゃ――」
 首を横に振るが、こちらの両肩を押さえつけるように掴んで香世子さんは言う。ようく聞いて、と熱っぽく。
「友達は大切よ。人生に大きな影響を及ぼすわ。だからこそ気まずい状況に陥ったなら、その時に解決すべきなのよ。時間が経てば経つほど言い出しにくくなる。つまらない過去に囚われて、その後何年も、何十年も、その先のずっと先、未来永劫呪われてしまう」
「でも……」
 香世子さんから顔を背ける。白い面は、幼馴染から届く封書を彷彿させた。白い無言の手紙。何も言わない友に、私は何と言えば良いのか。
「三十年以上、私たちは後悔し続けてきた」
 私たち。もちろん、香世子さんと母のことだ。二人が出会ったのは小学生の頃。三十年――私が生きてきた倍の時間。改めて口に出されて、その永さにくらりとする。
「三十年という時間を(どぶ)に棄ててきたようなものなのよ。あの時、逃げずに話し合っていればと何度も思ったわ」
 黒々とした瞳にぶれはなく、香世子さんは真っ直ぐに私を見据える。
「二人の関係性を浚い清めて、耕して、たまに肥料でもあげていれば、もっと綺麗な未来を咲かせていたでしょうに。美雪ちゃんとだってもっと早くに仲良くなれた。たくさんの思い出を作れたはずなのに」
 たくさんの思い出。春のお花見、夏の花火、秋の運動会、クリスマスのケーキ作り……そういった家族の行事の隅っこで香世子さんが品良く座って微笑している様子を想像する。ありえたかもしれないもう一つの過去。私の中で〝あり〟なのか〝なし〟なのか、咄嗟に判断つきかねる。あまりに甘過ぎて現実感のまったくない光景……
 でも、ともう一度繰り返した。掴まれた肩が痛いほどで、逃れるつもりはないのだけれど、反射的に身を竦めながら、
「お母さんは、香世子さんにひどいことしたって」
 一瞬、漆黒の瞳に光が過ぎる。蝋燭の灯火が揺れるように、ほんの一瞬、かすかに。それでも続いた口調はしっかりとしていた。
「運悪く偶然が重なっただけ。彼女だけが悪いわけじゃない。比喩でもなんでもなく野良犬に噛まれたのよ。いえ、あれは野良犬ではなく黒い狼だったけれど」
 香世子さんはふいと視線を逸らした。気まずさゆえかとも思ったが、彼女の眼差しは拝殿の奥に注がれていた。母が、自分の母校である中学の校舎を見上げていた時の姿が重なる。遠い過去を見つめているのだ。
 瞳のピントを私に合わせ直し、私は再びの囚われ人となった。香世子さんは続ける。
「彼女は罪悪感を抱えて、私は罪悪感を与えていることに負い目があった。でも、本当は伝えられたはずなのよ、あなたのせいではないと」 
 ――あの時、少しの勇気があったなら。
 嘆息と共に押し出されたのは、深い悔恨だった。
「私の継母(はは)は、私を守ろうとして、この町から逃がしてくれた。それが親心というものなのでしょう。継母は継母で間違っていなかった。けれど、私はその庇護に抗うべきだった……」
 花の蕾がほころぶように指の先を膨らませ、私の頬を包み込む。

「私たちのようになっては駄目」

 石畳から伝う寒さのためか、漆黒の瞳に囚われたまま、震えが走った。私たちのようになっては駄目。でも、もう、茉莉は。
 眼差しの呪縛を解いたのは、二人の間に割り込んだ大粒の雪だった。ちらりひらり、一度は止んでいたそれが再び舞い踊り始める。ちらり、ひらり。送り続けられる手紙と同じ色。全ての白色が私を責め立てる。
 いやいやするように首を振り、香世子さんのやはり白い指先を逃れ、
「茉莉は私を怒ってる。許してくれない」
 白紙の手紙は何より雄弁で、乾いて、冷ややかで、身を竦ませた。引っ越す前ならいざしらず、今さら何ができる? 新森家近くのN西女への進路変更も結局はポーズだ。近付く度胸はないくせに、体裁だけ整えた。実質は何もしていない。
「だとしても、美雪ちゃんと繋がっていたいから、手紙をくれるのよ」
「でも、」
「大人として同じ轍を踏ませるわけにはいかない。美雪ちゃんは新森さんと仲直りしなくちゃ。できるだけ早く」
 一貫して真摯な瞳と言葉。少女である私たちは、基本的に大人の言うことなど信用しない。けれど、経験者であり、香世子さんであるならば話は別だった。
 なんとか気持ちを鎮め、一つの解を出す。
「受験と、茉莉のことは、別々の問題ってこと……?」
「そう。一緒くたにしては駄目。大事なものなら、一つ一つ丁寧に向き合わなくちゃ」
 優しげな口調に、私は頷いた。そう、なのかもしれない。私はN西女への進学と、茉莉との関係を地続きに考えていた。だからこその焦燥と憂慮と苛立ちだったのだ。
「……わかった。茉莉と話をする」
 王子に捜し当てられた娘のように。父親と再会した兄妹のように。魔女の呪いから目覚めた姫君のように。
 香世子さんはこの上なく嬉しそうに微笑んだ。
「約束ね」
 彼女は小指を差し出してきた。指抜き手袋の上質なファーに埋もれた小指はいっそう華奢に見える。おずおずと小指を差し出せば、こちらが関節を折り返す前に蛇が巻き付くようにするりと絡みついた。ただの指先の接触。商品や釣り銭の受け渡しなど、赤の他人とでもしょっちゅうする行為なのに、どうして、この人が相手だと痺れるほどに、疼くほどに、血が沸くほどに反応してしまうのか。口惜しいことに、彼女はそれを理解して、なお素知らぬ顔をしているのだ。
 絡んだ手を軽く上下させ、指切りげんまん、うそついたら、はりせんぼん、――大人の無邪気な声が境内に響く。瞬間、ファーの隙間から紅い煌めきがのぞいた。ネイルではない。きっと多分、指輪だ。ライターであるこの人が手先に装飾品をつけるのは珍しかった。あのきらめきは、もしやアミュレス・アミュレットだろうか。私が香世子さんの宝物の代わりに差し出した罪の証。
 ――のーまーす!
 掛け声と共に、指先が離れる。一切の未練を感じさせず。声に驚いたのか鳥が飛び立つ羽音がした。
 約束を終え、微笑む香世子さんは少女のように素直な喜びを滲ませていた。あまりに無防備で晴れやかな。こんな表情を引き出せるのなら約束も悪くないと思う。あとは

。香世子さんに誓おう。来週に控えたN西女の受験が終わったら、必ず茉莉に会いに行くと。会って、仲直りをしてみせる――と。
「香世子さん、私、茉莉に会いに行くから。絶対に」
「ええ。そうね。電話やメールや手紙よりも直接話したほうが良いに決まっているわね」 
 私もそう思うの。だからね、香世子さんは頷いて笑った。きらきらと光をまぶしたような明るい顔。
「二つ目のバースデイプレゼントを用意しているの。新森茉莉さんに来てもらっているのよ」
「え?」
「本殿の前で待っているから。ようく話し合って、後は二人で帰ると良いわ」
 ――ほら、足音が聞こえるでしょう。
 指先が示す先を見る。板戸が開け放たれ本殿が覗くが、そこに人影はない。
「私はお邪魔にだろうから先に失礼するわね」
 こちらの返事を待たず、言うが早いが、香世子さんはくるりと背を向けた。参道を進み、赤い鳥居を潜り、石段を下りて、徐々に私の視界から消えゆく背中。降りしきる大粒の雪に塗り潰されるように。
「あ、……」
 身動きがとれなかった。何事も聞き逃すまいと耳をそばだてるが、誰の足音も聞こえてこない。耳が痛いほどの静寂。雪が全ての音を吸い尽くす。
 いや、社の奥から、足音が、聞こえた、ような……
 ほとり、と落ちた白いツバキにびくりと肩をふるわせる。はっとして社の向こうを見据えるが、虚空に雪がちらつくばかり。
「……茉莉?」
 返事はない。〝ホレばあさん〟の羽ぶとんを叩き、寝床をしつらえている空模様。夢のように美しい景観。
 私は社に背を向け(・・・・・・)、駆け出した。
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