〈幕間 美雪〉取引9-4

文字数 3,559文字

 
 こすり合わせた両の手に吐息を吐きかける。
 
 私立推薦入試がぽつぽつと始まった一月後半。私は一人校門に佇んでいた。
 手を暖めるだけでは足らず、左足に負担をかけないよう小さく足踏みする。骨折してからかれこれ一か月経つが、先日医者に診せたところ、ギプス生活の一週間延長を命じられた。医者は近所の整形外科医で、祖父母が朝も早くからよく通っている病院だった(午前中の病院はご老人のサロンだ)。私自身は子ども頃、肩が抜けて診てもらって以来、今回の骨折で十年ぶりぐらいの受診となる。だというのに、設備も、壁に貼ってある骨粗しょう症に関する啓発ポスターも、老医者の年齢すら、何一つ変わっていないように見えた。老医者は左足のレントゲン写真を眺め、若いくせに治りが遅い、ダイエットしとるんじゃないかねと無遠慮に言った。
 ギプス装着のままの登下校はやはり厳しく、車での送迎も一週間延長となったのだが、今日の迎えは母ではない。数日前から迎えは祖父母に頼んであった。
 母が仕事を始めたのだ。唐突に。短時間勤務の事務採用らしいが、晴天の霹靂だった。
 いや、よくよく思い返せば予兆はあったかもしれない。やたらと出掛けたり、帰宅が遅かったり。思い返せば、あれは面接や研修を受けていたのだろう。どうして今更仕事を始めるのかという問いに、母は老後の蓄えだと素っ気なく言った。確かにひいてはそうなるだろうけれど、目下、一人娘の進学費用のために違いなかった。だからといって娘の受験直前から勤め始めるのはどうかと思わないでもなかったけれど。
 校門から首を伸ばし、祖父母のミニバンが来るのを待ちかねる。祖父母は時間におおらかで、少なく見積もって十分から二十分は平気で遅れてくる。この数日、時間通りに来たことは一度たりともなかった。
 昨日は寒さに耐えかねて校舎に戻って待っていたところ、案の定、行き違いになってしまった。窓から待ち合わせから大分過ぎた頃に見覚えのあるミニバンを見つけ、精一杯の速さで校門へと急いだのだが、ミニバンはほんの一分ほど停車していたかと思うと、疾風の速さで発進してしまったのだ。左足を骨折して受験を数日後に控えた孫娘を置き去りにして。
 あまりの出来事に呆気にとられた。慌てて職員室脇に設置してある公衆電話へと向かい、祖母が最近購入したいう携帯電話に連絡した(ハンドルを握っているのはもっぱら祖父だ)。十コール以上鳴り響いた後に祖母はようよう応答し、「なんで外で待っとらんかったの。おらんと思って、帰ってまったわ」と責められた。戻ってきてと不本意ながらも頼めば、再放送の刑事ドラマが始まるから、観終わったら迎えにいくわと告げられ、一方的に電話は切られた。十五年以上家族としてつき合ってきた祖母に、これ以上は何をしても何を言っても無駄だということは身に染みてわかっていたが、沸き立つ感情を抑えるのに苦労した。
 左足を引きずりながらでも歩いて帰宅したほうが早いことは重々承知していた。けれど徒歩で通学できると知れば、祖母は二度と迎えにきてくれなくなるだろう(実際にハンドルを握っているのは祖父だが、祖父の手綱を握っているのは祖母だ)。あと一週間とはいえ天候不順や体調不良の保険として、私は刑事ドラマが終わるのを待ち続けた。
 ――今日も二人組の刑事が説教して犯人を自白させるまで待たなくてはならないのだろうか。
 校舎の時計を見上げれば、待ち合わせの時間から既に十五分経過していた。
 高校受験が終わったら、父が言っていたように携帯電話を買ってもらおうか。けれど余計な悩みの種となりそうでいまいちふんぎりがつかない。わざわざ雑草の種を自ら蒔く気にはなれなかった。父にはきちんと断っておいたほうが良いだろう。男親というものは、ずれているわりに、サプライズをしたがるものだから。
 今週は私立高校の推薦受験が始まり欠席する生徒が多いため、三年生は実質的な授業はほとんどない。午後三時過ぎには下校となり、十分前まで校門は多くの生徒で賑わっていたが、今はもう誰もいない。
 こんなことなら図書室で時間を潰せば良かったかもしれない。そう思う一方、図書室にはやはり行き辛かった。冬休みが明けて、調べ物があって昼休みに一度だけ行ったけれど、以来、足を踏み入れていない。有体に言って、大日向有加と顔を合わせたくなかった。
 
 大日向有加は、冬休み明けにはいたって普通に登校していた。時折、廊下ですれ違うこともあったが、言葉を交わすことはない。互いに無視しているというよりも、図書室で話しかけられる以前の状態に戻ったというふうだった。彼女が今でも放課後の図書室で勉強しているかどうかは知らない。
 ちなみにN西女の推薦を勝ち取ったのは大日向有加ではなかった。別段、探りを入れたわけではない。N西女推薦入試日だった昨日、いつもと変わらず登校し下校した彼女を見かけたから。いや、正直を言えば下駄箱を確認し、その上でC組を見に行ったのだけれど。
 おかげで私の心持ちはかなり軽くなった。その他、N西女推薦入試日に休んだ女子をわかる限りで調べてみたが、私のクラスにもC組にもおらず、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。
 
 一段と冷たい風に吹かれ、たまらず大きなくしゃみをする。この地方特有の季節風〝伊吹おろし〟だ。自転車通学者は伊吹おろしが吹き付ける方向によって、遅刻度合いが違ってくる。
 校門の周囲には風を遮るものはない。少し離れたところに民家が点在し、その背後には高速道路の高架が横たわっている。目の前には田畑が広がっており、夏は波打つ緑が美しいけれど、今はただ冬枯れの寂しい風景だった。
 赤いマフラーに首を埋めて目だけで空を見上げれば、晴れとも曇天とも言い難い冬模様。夕暮れにはまだ早いけれど、晴天の明るさはなく、陽光のぬくもりもほとんど感じられない。停滞した時間。
 その狭間の時に、雲間から地上へ光の脚が差し込んでいた。
 天使の梯子。雲間からのびる光の脚をそう言うのだと教えてくれたのは、誰だったろうか。紫色と灰色と金色が入り交じった雲から射し入る光は世界を白く清浄に染めていた。オランダの画家レンブラントが好んで描いたことからレンブラント光線とも呼ばれており、宮沢賢治は『光のパイプオルガン』となんともロマンチックな表現をしたとか。確かにそれに足る荘厳さを感じた。
 
 ――誰だったろうか、なんて滑稽だ。こんなことを教えてくれるのは一人しかいない。
 
 嘆息が漏れた。十五の誕生日を過ぎ、私の中では一つの区切りをつけていた。今はもう目前の受験にだけ集中しようと努めていたのに。
 歳上の美しい人は日常のいたるところに隠れていて、ふいにその気配に気づかされて私を縫い止める。それが嬉しいのか悲しいのかわからない。
 もう一つ吐いた嘆息が、突如として白い粒となって現れた。起毛したマフラーにそっと舞い降りたそれは、私自身の吐息で今度は透明に変わる。
 
 ……雪。
 
 分厚い雲からあとからあとから舞い降りてくる冬の使者と光の帯が、見慣れた地方都市を塗り替える。少し失敗した手作りの焼き菓子に粉砂糖をまぶせばそれなりに美味しそうに見えるように、白く、清浄に、美しく。
 天候としては雪が降ってきたのだから悪くなったはずなのに、雪の白さのためか、奇妙に明るく静かな景観だった。
 予感めいたものがあったかもしれない。美しいものを見て、美しい人を思い出したから、そんなふうに思うのだろうか。
 こつり、という硬い靴音が背後から聞こえた。
 彼女(・・)の音だと感じた。けれど、こんなところにいるはずない。今、自分は学校に背を向け、公道を向いている。つまり、背後からの足音ならば、学校の中からやってきたということになる。あるわけない。第一、彼女に田舎の中学という場は似合わない。
 だから私は振り向かなかった。こつ、こつ、とブーツのヒールがアスファルトを踏む音が近付いてきても。ただちらちらと舞い落ちる雪をぼんやりと眺めていた。

「お待たせ、美雪ちゃん」
 
 呼ばれて初めて振り向いた。彼女の声と認識したわけではない。振り向いたのは単なる反射だった。相手が教師だろうが、同級生だろうが、森の中で出会った狼だったとしても、振り向いていただろう。
 白い粒が踊る校舎と校庭を背景に、その人はこちらに向かってくる。
 白いコート――いや袖のないポンチョというかマントのようなものを羽織り、艶やかな黒髪を揺らし、紅い唇には優雅な微笑を湛えて。なんの気負いも気まずさもなく、光を孕んだ雪の中を、ゆっくりと。
 夢を見てるのだと思った。
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