第1話

文字数 1,110文字

「もう、秀ちゃんじゃないわね。秀二さんね。」
開いたドアの先に立っていたのは、記憶の中の長髪の青年ではなく、きちんと歳を重ねた落ち着いた雰囲気の男性だった。

20年前、私は高校卒業後、結婚式場に就職し、数年前からお付き合いしている恋人と成人式が終わったら結婚するのだろうと思いながらただ過ぎていく日々にふわふわと身を任せていた。
今思うと、結婚なんて早すぎるし、何も考えていない事に小言を言いたくなるような過去の自分。ただ私の育った環境では二十歳で結婚も当然の選択肢だし、珍しいことではなかった。
  19歳の夏、友達と出かけたカラオケ店でアルバイトをしていたのが秀ちゃん
 時田秀二だ。
とにかく好みの顔だった。声も好みで、後に分かる事だが匂いも好みだった。
秀ちゃんの方はきっと、そんな感覚はなかったのだろう。ただ、若さと夏の空気が手伝って私たちは1度目のデートにいともたやすく漕ぎ着けた。
ファミレスで食事しながら、秀ちゃんの話や仕草にどんどん惹かれていくのが分かった。これぞ正に恋に落ちるなんだなと、今まで相手が恋に落ちていただけで私が落ちるのは初めてなのかもしれない。形が好き過ぎて目を離す事ができない秀ちゃんの上唇を見つめながら真っ逆さまに恋に落ちていた。
「俺、自分の名前嫌いなんだよね。一じゃないでしょニだから、なんか二番手な感じがするから嫌い。」
「二番手じゃなく二倍って思ったら?二倍秀でてるって。」
「そっか。」
我ながらいい事言ったと思った。きっと秀ちゃんの心に響いたと。これも後に分かる事だが彼の海馬にこの時の会話は記録されなかった。それどころか私の存在すら記録する気がなかったらしい。

お酒の力を借りなくても大胆になれる年頃。
私達は車で2時間ほどの距離にある温泉地へ出かける事となった。時刻はもう22時。温泉へたどり着く頃にはどこの施設も閉まっているだろう。
「塀を乗り越えて入れる露天風呂があるんだ。」
「乗り越えるの?面白そう!」
今では考えられないがその時の私は本気で面白そうと思った。まるで大冒険に出る前のようにワクワクしていた。
彼の大冒険はもっと広い世界で始まっていて露天風呂に忍び込むのは大したことではないのだが、私にとっては今も人生で一度きりの大冒険だ。そして大切な思い出。

露天風呂までの道のりは緩い坂道になっていて近くを流れる川の音。虫の声。硫黄の匂い。
前を行く秀ちゃんの背中。
映画のワンシーンのような完璧な時間。こういう時間はなかなか味わえない。
乗り越える塀は身長155cmの私でもすんなり越えられた。

誰もいない深夜の露天風呂
温泉で温まられた若い体

圧倒的な幸福感だった。
でも、やっぱりな事が数日後に起こる。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み