文字数 3,218文字

 鳥の声に、リッカは目を覚ました。
 兄と二人横になれるだけの狭い寝床なので、反対側に転がって降りる癖が付いている。

 夕べ雨が降ったらしい。草葉の湿った匂いが、洞穴の入り口から流れて来る。
 帽子を掴んで外へ出る。兄がくれた青い帽子。
 両手を頭上に伸ばすと、初夏の森の生き生きとした匂いが身体中に入って来る。

 大丈夫、今日もがんばれる。

 枝から落ちる滴を避けながら、この住み処で唯一、梢が途切れて空へ抜けた場所へ歩く。
 リッカの腕の一抱えもある天水用のカメに、満水の雨水がキラキラしている。
 良かった、これで畑の水はしばらく大丈夫。

 畑といっても畝が五つ六つの小さい物。
 兄は森を切り開いて畑を広げるような事はしなかった。二人分の口を賄えれば足りると。
 そのせいか、ここは獣に荒らされない。

 畑と作業場と食卓と、洞穴の前の少しの平らな空間が、リッカと兄の『住み処』だった。

 竹筒と二つの木桶を下げて、森の灌木に分け入る。
 住み処を出てきっちり二百歩で、シダの繁る岩場の湧き水に着いた。
 噴き出す穴に竹筒を刺して、流れる水を木桶に溜める。小さな溜まりと沢もあるが、飲み水は必ず湧き口から汲めと兄に言われている。

 水汲みはリッカの役割。
 記憶にある頃から水を汲んで運んでいる。
 幼い手に合わせて兄は木桶を作ってくれた。何年か毎に大きく作り替えて、今は五つ目。昔に比べて何往復もしなくてよくなった。
 それでも毎日の作業は大変で、雑水をくれる雨は大助かりだ。

 他の事は何でもやってくれる兄なのに、水汲みだけはリッカにやらせた。
 「命に繋がる一番大切な事だから」らしい。
 よく分からない。
 兄のやっている、鳥を捕ったり魚を捕ったり、畑を耕したり柵を作ったり、道具を作って外の世界へ売りに行ったり、街のトショカンで本を借りて来てリッカに文字や数字を教えてくれたり、そっちも順位を付けられないくらい大切な事だと思うんだけれど。 

 水が一杯になると桶を差し替えて、一つ目の桶を運ぶ。
 飲み水用のカメが一杯になるまで住み処と水場を往復するのだが、行きと帰りは必ず違う道程を、二百歩以上かけて歩けと言われている。
 他人に住み処を見付けられない『おまじない』らしい。たまに五百歩くらいの遠回りもする。

 今日は忙しい。保存食が尽きかけているから何か捕らなきゃならないし、雨上がりのキノコは開く前に摘んでおかなくては。気は急くけれど、兄の言い付けは守る。


 ***


 兄の言うとおりだった。外から来る者はまず水場を捜すって。
 戻った湧き水の側に、知らない人間が立って居た。
 うかうかと歩いていたリッカは、咄嗟に反応出来なかった。

 桶と竹筒を覗き込んでいたその人物は顔を上げ、向こうも驚いた表情で、今茂みから出て来た女の子を凝視している。

「こ、こんにちは、ジョシュの家族の人?」

 クルクル巻いた長い髪、柔らかそうな肌、ツヤツヤのピッタリした衣服。

 リッカは表情を動かさなかった。
 桶をそっと地面に置き、次の瞬間、獣みたいに横の茂みに飛び込んだ。

 ジョシュは兄の名。
 だけれど知らない人間を見たらとにかく隠れろと言われている。
 水場は気をつけなきゃならないのに、用心を怠ってしまった。何て愚か。兄に申し訳ない。

 灌木の間を身を屈めたまま駆け抜け、森に幾つかある穴の一つを目指す。

「待って」
「あやしい者ではないわ」
「私はエバ、ジョシュの友達なの」
「あなた、彼の妹でしょう?」
「出て来て頂戴、お話がしたいの」 

 女性の叫ぶ声が聞こえる。
 衣服と同じにツヤツヤした声。

 小さい穴にうずくまり、外をシダで塞いで、リッカは息を潜める。
 人間の言葉は、喋っている内容ではなく声の調子で感じろと、兄に言われている。
 猫なで声で誘惑して来る言葉ほど気を付けろと。

「ジョシュが帰って来なくて心配じゃないの?」

 肩が震えた。これも誘惑の言葉?

「彼に頼まれて来たのよ」
「ちょっと怪我をして、今、病院にいるの」
「入院していて動けなくて、あなたの事を気に掛けているわ」

 リッカは身体が動いた。話ぐらいは聞きに行ってもいいのでは。
 兄が帰って来なくて三つの夜が過ぎる。

 ふ、と背中に吐息が当たる。
 振り向くと、暗がりの穴の奥に、鈍く光る眼。
 そう、自分達が洞窟に住んでいるように、森の穴なんて大概、何モノかの住み処なのだ。


「ね、お願い、出て来て。ジョシュはあなたに会いたがってる。私もあなたが心配よ」
「お腹空いてるんじゃない? お菓子があるわ、甘い果実水も」

 そこまで叫んで、エバと名乗った女性は息を整えた。
 これだけ言えば、さっきの年頃の子供なんてすぐに出て来てくれるだろう。
 こんな森の中で兄が帰らずひとりぼっち。どんなに用心深い子だって人恋しいに違いない。

 背後にガサガサと音がして、女性は笑顔を作って振り向いた。

 が、すぐに凍り付いた。

 ――ググゥ・・

 くぐもった唸り。
 身の丈ひとひろはあろうかという灰色の熊が、毛を逆立てて今まさに立ち上がろうとしているではないか。

「ひぃっ」
 女性は腰を抜かして、手足をバタバタさせながら這うように後ずさった。
 熊は追い掛けない。

 五十歩分くらい尻でずって、やっと立ち上がった彼女は、よく分からない言葉を泣き叫びながら一目散に逃げて行った。
 ツヤツヤの衣服は泥々。
 女の子が熊の後ろの茂みから出て来た事にも気付かなかったようだ。


 リッカは女性の去った方向をじっと見つめる。
 もう森の外まで逃げただろうか。この森がどれだけの広さなのか、森から出た事がないリッカには分からない。でも多分、五百歩を十回歩くよりは広いと思う。

 熊の方を振り向く。
「ありがとうございます」

 熊は丸い眼をパチパチさせてから、踵を返してノソリと藪に戻った。
 別にリッカに、動物と心を通い合わせるなんて、絵本みたいな芸当が出来る訳ではない。
 住み分けが出来ていて、共存関係であると認めてくれている『友達』・・な、だけだ。

 友達だからって、いつでも助けて貰える訳じゃないし、こちらの都合のいいように動いてくれる訳でもない。
 彼はただリッカが間違える前に、手ずから前に出て森の領域を守っただけだ。特にリッカの為でもなかったのかもしれない。
 でも助けになった時はきちんと感謝しろと、兄に言われている。
 
 あの女性の声の調子は、他者を見下ろして踏みしだく感じがあった。そのまま受け取らない方がいいと思う。 
「でも……どこまでが本当なのだろう……」

 兄が怪我をして痛い思いをしているのなら、すぐに側に駆け付けて、安心させてあげなければならない。痛い所に手を当てて、熱冷ましのお祈りをしてあげねばならない。

 ――森から出るな。

 兄から、何があっても一番に守れと言われている。

 ――何があっても。

 今の状況でも、『何が』の範囲なのだろうか。

 確かにリッカは、森に居る限り安全だ。
 住み処の洞穴は、不思議に人間に見付からない。柵を立て『まじない』を掛け、『道』さえ作らなければ人は入って来られないと、兄は言っていた。
 住み処の外で人に会ってしまった場合は、まっすぐ帰ってはならない。その為に森の幾つかの隠れ穴は、リッカの頭に入っている。

「あんなにハッキリと人に出会ってしまったのは初めてだ」
 竹筒を背に差し、重い水桶を両手に下げて、遠回りの家路を辿る。

 今まで、遠目に人を見掛けたり話し声を聞いたりする事はあった。
 兄が言うには、この森は街の人間からは禁足地になっているらしい。来るとしたら不心得な無法者か、肝試しの子供くらい。
 そういう後ろめたい者は、こちらからは安全なのだ。人を避けてくれるから。
 だが興味深く探索に来られるのは厄介だ。

「しばらく水場に行かないようにしよう。食べ物も節約しなくちゃ」

 そして、もしも本当に兄が帰って来ないのならば、考えなくてはならない。
 言い付けではなくて、自分の頭で。



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