文字数 1,955文字

    
 鳥打ち帽の男の子は、肘や膝を擦りむいて唇も切っていた。

「俺は大丈夫、追いかけて来た悪い奴に体当たりした時ちょっとぶつけただけ。それと先に行っておくけれど、リッカも多分逃げおおせたと思うから、安心して」

 警察署の建物から少し離れた暗がりで、子供は二人の大人に向かって、まずそう前置きした。

「多分とはなんだ、はぐれたのか? 何から逃げたんだ? 悪い奴とはどういった者だ?」
 シカルは焦って問いただすが、肝心のジョシュが言葉少なに落ち着いているのが、彼には不可解だった。

「待ってよ、シカルさん。俺も順序立てて話さないと、上手く説明出来ない」

 それからヤコブは訥々と、病院での顛末を語り始めた。


 ***


 病院の裏路地。
 せっかく身を呈して二人を転ばせたのに、敵はもう一人いた。

 転がった三人を避けて病院の裏口方面に逃げるリッカに、向こう側から同じ風体の男が迫って来たのだ。
 ヤコブは素早く立って、男より早くリッカに追い付き、彼女の手を引いて、裏口から病院へ駆け込んだ。

「手を離すなよ!」
 この女の子が蛍光灯の下、どれほど物が見えているか分からない。
 でもヤコブを信用するようにギュッと手を握り返して、必死に足を前に出している。

「人拐いだ、助けて!」
 走りながら叫んでみたが、やはり浮浪児の言う事なんて、大人は本気にしてくれない。職員も患者も眉をしかめて眺めているだけだ。

(このまま正面玄関を抜けて人の多い表通りへ逃げ込むか?)
 だが身なりの良い紳士と浮浪児、いざとなったら通行人はどちらに味方をするだろう?

 しかも正面玄関の扉が開いて、回り込んで来た一人が姿を見せた。

「ちっ」
 ヤコブは舌打ちして、目の前にあった玄関ホールの階段を上った。
 袋のネズミになりそうだが、病院の構造は知っている。非常用の外階段があった筈。
 リッカも懸命に足元に集中して、三段飛ばしに着いて来る。

 しかし、男の一人はかなりな運動能力で、女の子にあと数歩の所まで迫って来た。
 「スリだ、捕まえてくれ」の声に、周囲の大人も反応する。 

(掴まれたらその手に噛みついて、とにかくリッカを逃がす!)
 浮浪児と見くびって銀貨で友達を売らせようとする連中なんか、絶対のゼッタイにロクな奴じゃない!
 決意が固まった時、二人の横を掠めて何かが凄い勢いで落ちて行った。
(え??)

 肉と肉がぶつかる音、ぐふっという悲鳴、衝撃音。

 横目でチラと見ると、階段の下で大人三人が、丸い子供の下敷きになってこんがらがっている。

(イノシシ坊やだ) 

 いつも大通りで、弱い者に突進して遊んでいる子供。
 ヤコブ達は『イノシシ坊や』と呼んで、覚めた目で眺めていた。
 お喋りに夢中な母親も目を逸らして無関心な父親も、自分が『敵』を作って来た時だけ全力で『闘って』くれる。だから坊やは、彼らが勝てる『弱い者』を狙ってぶつかりに行くのだ。
(俺らみたいに最初から持っていなければ、あんな風に『親』を求めて荒ぶらなくて済むのにな)

 階段上に、松葉杖の男性がビックリした目で立ちすくんでいた。
 あの坊やがどうして病院の二階にいたのか知らないけれど、いつものように弱い松葉杖の人間に突進して、思いがけず避けられたんだろう。
(気の毒に、何も悪くないのにトラウマだぞ、あの人)

 ちなみにイノシシ坊やは両親の愛情の賜物で、大人三人を階段下に叩き落とすだけの破壊力(ウエイト)の持ち主だ。年齢だけは『小さい子供』だが。

 「スリだ」の声の届いた二階の廊下にいた大人が、こちらへやって来る。
 ヤコブは更に階段を上がるしかなかった。
(屋上……! 屋上の物干場の向こうの柵から外階段に降りられる。そこまで追い付かれずに……!)
 後ろの女の子はしっかり着いて来る、大丈夫だ。
 三階を抜け、更に上がり、屋上の扉を開けて外へ飛び出す。

 途端、火照った身体を夜風がヒヤリと包んだ。
 外で暮らす身のせいか、病院が嫌いだからか、とにかく解放感に高揚した。
 ぜったい逃げられる! リッカを逃がしてやる!

 しかし絶望が正面からやって来た。
 カンカンと足音を響かせて、外階段からジャケット男が上って来たのだ。ボタンは飛んでいるが元気一杯。
 背後の階段からも奴らの声と足音が聞こえる。 

 ダメか、もうダメなのか?
 この人数相手じゃ、どんなに暴れてもリッカを守りきれない。
 屋上の真ん中で立ちすくむ。
 大人はどんどん迫って来る。
 もう手はないのか?
 何も出来ないのか?

 その時、しっかり繋いでいた手を、後ろの女の子は離した。
「おい、手を……」
 振り向くと、ツバ広帽を取って、両手を空に突き出している。その口が大きく叫んだ。


「イグネー!!」


 そうして今度は、満月みたいな瞳で男の子をしっかりと見て、腕をがっしりと掴んで来た。



 
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