文字数 2,535文字

   

 ヤコブと呼ばれた子供は、まだ窓を気にしているリッカを促して、先に立って歩いた。

「病院の前まででいいよな」

「ありがとう」

「ビスケット分だけだからな」

「うん」

 ヤコブは、本当に表通りに出ないで、上手に裏の細道を進んでくれた。
 たまに塀の上を歩いたり、ドブ川を飛び越えたりした。
 最初めんどくさそうにしていたヤコブだが、チビの女の子が意外とヘコたれないで真剣に着いて来るのを見て、段々に態度をやわらげた。

「なあ、お前、帽子を目深にしてろって、やっぱ傷痕とかある訳?」

「分からない。リッカは自分の顔を見た事がない。兄が、住み処を出る時は被っていろと、帽子をくれた」

「ふうん、俺はこんなの」
 ヤコブは鳥打ち帽を取って、自分の頭を突き出した。
 片方のこめかみに髪が無くて、皮膚の裂けた痕と、腫れた形がそのまま固まったような瘤があった。
「大人ってやるよね、こういうコト」

 しかし自分から突き出した頭を、ヤコブはビクッと引っ込めた。
 女の子が目の前まで来て、傷に掌を伸ばして来たからだ。
「な、なに?」

「手を当てようと思って」

「何でだよっ?」

「手を当てたら痛いのがちょっと治まる。兄はいつもそう言ってリッカの痛いのを緩めてくれる」

「……」

 ヤコブは女の子の小さい指をマジマジと見た。
 大概の人間はこの傷を見たら、ビビるか憐れむか目を逸らすかなのに。
「い、今はもう、痛くないから大丈夫……」

「そう」
 と、女の子は何だか残念そうに掌を下ろし、ヤコブは空白を埋めるように言葉を継いだ。

「サマリア婆さんがさ……ああ、さっきの婆さんね。見苦しいから被ってろって、この帽子を投げて寄越してくれたんだ。
 物言いは悪いけど良い婆さんだよ。俺らみたいなのが窓辺に寄り付くと近所にあれこれ言われるから、大きい声で追っ払うフリをする。だから俺らも気を使ってやらなきゃならない。それがイキルチエって奴」 

 したり顔で講釈する子供に、リッカは「そうなの」と返事をした。街はややこしい…… 

「お前のも見して」
 と言われ、リッカは素直に帽子を上げた。
 この子供の言うことは、何だか聞いてあげたい気がした。

 男の子は興味深気にリッカの顔を覗き込む。

「うわっ」

「どうしたの? もっと凄い傷だった?」

「いやいやいや、傷はないよ。それより、お前、すっ


   ***


 無機質な灰色の部屋。
 無愛想なイスとテーブル。

 室内には男性が三人。
 着席して向かい合う二人と、テーブル端で記録をとる一人。

「濡れ衣だってハッキリしたろ? 何でまだ拘束され続けなきゃならない?」

 よく日焼けした、小柄だが筋肉質な青年。
 膝に置いた両手には縄が掛けられ、机に繋がれている。

 対面するのは、壮年の落ち着いた警察官。

「確かに、ぶつかって来た子供は、いつも大通りで大人に突進して面白がっているような子供だった。女性や弱そうな者を選んでな。しかしどんなにクソガキでも、払い除けたのはまずかった」

「両親がすぐ側にいた事が驚きだった」

「まあ、親は注意すべきだとは思うが」

「違う。親は怖くないのか? 自分の大切な子供が、どこの何を考えているとも分からない者にぶつかりに行っているんだぞ。次の瞬間目玉を抉り出されるかもしれないのに」

 身なりは粗野だが筋道立った理屈を喋る青年に何だかアンバランスを感じながら、警察官はキチンと聞いてやっていた。
 彼の言い分は、個人的には嫌いではない。しかし……

「君な、そういう物騒な事を言い出すから不審者度が濃くなって、勾留が長引いているんだぞ」

 書記の若い警察官も肩を竦める。
 水溜まりに転ばされた子供が大泣きして両親がクソ騒いだのが発端だが、青年の懐に大きな山刀が入っていたのがまずかった。
 子供の母親がサイレンみたいな金切り声を上げ、ありもしない罪状が湧いて出て捕縛されてしまったのだ。

 もっとも一晩たてば、「彼は森の住民だから山刀持ってて当たり前」「荒物屋に品物を納めに来ただけ」「真面目な普通の兄ちゃんだよ」と、馴染みの店が弁護をしてくれ、「妊婦を庇って悪ガキを払い除けた」という複数の目撃証言も得られて、濡れ衣は晴れた。
 通常ならそこで、「災難だったな」と放免される所だ。 

 しかし当の青年が、調書を一切作らせてくれなかった。
 ジョシュというファーストネーム以外、住所 姓名 年齢 家族 出身地などを一切喋らないのだ。それは事務処理上とても困る。
 捨て子の孤児だから知らぬ存ぜぬは通るのだが、今住んでいる所すら明かさないのは、上の者の心証を悪くした。

「なあ、現住所くらい喋らんか?」

「俺に罪状は無いのだろう。何でそんな紙に記録されなきゃならんのだ」

 捕縛された理由は濡れ衣だが、あそこまで意固地になるのは怪しい、何かを隠している、犯罪集団の匂いがする等と、上は決め付け、意地張りのように勾留を長引かせている。
 とばっちりで、この中間管理職の警察官が、毎日聞き取りをやる羽目になっている。そんなに暇でもないのに。

 彼は青年を気の毒に思っていたが、独断で放免してやれるような権限はない。
 それで、青少年カウンセラーをやっている姪に頼った。
 普段は子供相手の仕事をしている彼女だが、たまに少年犯罪者のカウンセリングに携わったりしている。
 明るくよく喋って見映えの良い若い娘。青年と歳も近そうだし、気を許して少しでも調書を埋めてくれまいかと思ったのだ。

 青年が未成年の可能性もあるという名目で、カウンセラーとの面談を捩じ込んだ。

 青年は確かに少し心を許したように見えた。彼女にだけ何か話したかもしれない。
 しかし姪は、叔父に少し待てと言ったきり、休暇を取って何処かへ出掛けてしまった。せめて調書に書ける何かを提供してから行って欲しかった。

 そうして何も進まない中、署内でも持て余し始めて現在に至る。
 ぼちぼち証拠不十分で解放してやれないかなぁと、今日やる事が後に詰まっている警察官は、切に思っている。

 扉がノックされ、下働きの者が面会の取り次ぎを述べた。
 カウンセラーのエバ嬢との名を聞いて、叔父は立ち上がりかけたが、それより先に下働きの者を押し退けて、興奮した姪が鼻息荒く入室して来た。

「分かったわよ、その人の正体!」




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