伊藤仲之助の受難

文字数 5,496文字

「ぶぁっかもぉーん!」
 今日、何度目だろう。
 窓ガラスまで共鳴するような怒声を受けて、伊藤(いとう)仲之助(なかのすけ)は直立不動のまま、申し訳ありません、と繰り返した。
「まあまあ、いいじゃないか」
 校長室の長椅子に腰を下ろした、着流(きなが)し姿の老人が鷹揚(おうよう)に言う。
 隣では──なぜ、こんな(むすめ)がここにいるのか──銀髪、いや白髪の少女が、小さくなって座っていた。
 厄日(やくび)だ──。
 仲之助の脳裏に、そんな言葉がよぎった。
 そもそも、なぜあんな現場に通りかかったのだろうか。
 昼前、半日の外出で出かけた神保町(じんぼうちょう)からの帰り、水道橋(すいどうばし)を渡って小石川(こいしかわ)砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の門に差し掛かったとき、何か小さな騒ぎが起こっていることを発見した。
 門番が、敷地に歩み入ろうとする老人を押しとどめている。だが着流し姿の老人は、器用に(たい)(さば)いては、ぬらりと門番の制止をかいくぐり、侵入しようとする。それで、若い門番は真っ赤になって怒鳴(どな)っているのだ。
 だが、仲之助の目をとらえたのは、そんな珍妙なやりとりだけではなく、老人が(とも)につれているらしい、ひとりの少女だった。
 銀髪だ──。
 まず、それが珍しい。(とし)(ころ)(とう)ばかりだろうか。いかにも頼りない細い身体(からだ)の線が、西洋の女中(メイド)が着るような紺色の服と白い前垂れ(エプロン)の上からでも見てとれた。
 西洋人なのだろうか。
 鼻柱がすっと通っていて、肌の色も陽にあたったことがないかのように白い。しかし、砲兵工廠に時折やってくるフランス人やドイツ人の技師の婦女とも、どこかちがう。東洋的というか、日本人らしいところもある顔立ちだった。
 仲之助は、深い考えもなく、声をかけた。
「どうかしたのですか」
 この()らぬ一言が、不幸の始まりだった。
「こちらのご老人が、敷地に入る、約束があると言って聞かないのです」
 新任らしい門番は、困り果てた様子で仲之助に訴える。
 仲之助は、老人に向かって言った。
「ご老人、この砲兵工廠は陸軍の施設なのです。もしや水戸のお屋敷だった頃にご縁があったのかもしれませんが……」
「はて、水戸さま」
 老人は、さも的外れなことを言われたというように、頭をぽりぽりと()いた。
「とにかく、ここへは入れませんよ」
 門番とともに、老人の前に()(ふさ)がったとき、
「何を騒いでいる」
 と声をかけられた。
 仲之助が顔を上げると、怪訝(けげん)そうな表情の有坂(ありさか)成章(なりあきら)砲兵大佐が、馬上から(にら)みつけていた。この東京砲兵工廠の提理(ていり)にして、野砲(やほう)に続いて、歩兵銃の改良を短期間で成功させたと噂の、時の人だ──。
 仲之助は、最敬礼をして報告した。
「はっ、こちらのご老人が迷い込まれたご様子でしたので、お帰りを願うところであります」
 ところが、当の老人は、近所の小僧に声をかける好々爺(こうこうや)よろしく、有坂大佐に手を振った。
「おお、有坂。わし、止められてしもた」
「しっ、少将閣下!」
 有坂大佐は、馬からひらりと飛び降りると、仲之助の頭にいきなり拳骨(げんこつ)()らわせた。
「な、なにを……!?
「大馬鹿者! 我が砲兵工廠の生みの親のお一人とも言うべき、原田(はらだ)少将閣下を。この不心得ものがっ!」
 呆気(あっけ)に取られた仲之助と門番を捨て置いて、有坂大佐は、その原田という老人をうやうやしく招き入れてしまった。そして、振り返りざま、厳しい口調で仲之助に怒鳴った。
「貴様、氏名と所属を言え!」

 砲兵工科学校の校長室で、仲之助は校長の比留間(ひるま)信良(のぶよし)砲兵少佐に、さんざ絞られた。
 その過程で、この老人が陸軍少将・原田一道(かづみち)という人物であることを知った。
 いわく、我が帝国陸軍の軍律の基礎を作った方である。
 いわく、(かつら)太郎(たろう)乃木(のぎ)希典(まれすけ)その他、日清の大戦で名をあげた将官たちを兵学校(へいがっこう)で指導された方である。
 いわく、かの大村(おおむら)益次郎(ますじろう)の信頼厚く、大阪と東京の砲兵工廠の設計にも携わった「陸軍きっての工学者」である……などなど。
──そもそも、貴族院議員が、そんな恰好(かっこう)で来ないでくれよ……。
 そんなことを思ったりもしたが、口に出せるわけもない。
「まあまあ、比留間。もういいじゃないか。わし、飽きちゃった」
 と、当の老人は、本心から飽きてしまったというふうで、長椅子の上でゴロゴロと寝転がって伸びている。
 そして、場違いな異国風の少女は──長椅子の端に座って、子供らしからぬ貫禄(かんろく)で出された茶を(すす)っていた。
 老人は、今にも欠伸(あくび)をしそうな様子で言った。
「それより、君。伊藤上等兵」
「はっ」
懲罰(ちょうばつ)を申し渡す」
「はっ」
「うちのアンに、礬素(アルミ)圧搾機(プレス)を見せたいんじゃけど、案内(あない)してきてくれる?」
「はっ?」

 旧水戸藩邸の跡地に造営された東京砲兵工廠。
 その広大な敷地には、後楽園(こうらくえん)の日本庭園を取り囲むように、鍛工場(たんこうば)鏇工場(せんこうば)、小銃製造所などが林立している。
 その煉瓦(れんが)造りの工場の間を、仲之助は、とぼとぼと歩いていた。
──ああ、俺の夢も、ついえるか……。

 宮城の山里に生まれた仲之助は、農家の三男坊だ。
 子供の頃から算術が得意で、機械に目がなかった──とはいっても、機関車や電灯というものは、人の噂でしか聞いたことはなかった。
 身近にあった機械と言えば、粉を引く水車小屋の歯車くらいのものだ。

 いつか、蒸気機関や電信のような西洋の技術を学びたい。
 一旗(ひとはた)あげて一攫千金(いっかくせんきん)、親兄妹に豊かな暮らしをさせてやることもできるかもしれない。

 だが、夢ばかり見ても、勉学をする元手(もとで)伝手(つて)もない。
 そんな中、耳にしたのが「軍隊に入れば西洋の学問も学べるらしい」という話だった。

 満十六歳、仲之助は一歳年齢を(いつわ)り、十七歳と申告して陸軍に入った。
 だが入ってみると、およそ勉学どころではない生活が待っていた。
 入隊したのは、清国との講和条約が結ばれる数ヵ月前。
 仲之助は、大陸での戦闘にこそ参加しなかったが、割譲された台湾に出征した。
 初めて見る日本の外。マラリアや赤痢、ゲリラ戦を挑んでくる敵──。
 仲之助は、不安と(おび)えを必死に抑えて、軍務に精勤した。
──ようやく、ここまで来たんだ。
 (よわい)十九、数えで二十歳(はたち)
 砲兵工廠は、我が国の工業技術研究の最先端だ。
 四千人もの人々が働く、この大工場では、陸軍の装備だけでなく、民需に応えて、さまざまな金属製品、工作機械を生産していた。新しい世の中、次々と発明される新商品で世間をにぎわせる民間の機械工業者との付き合いも多い。
 砲兵工科学校は、そんな砲兵工廠の中にある、下士(かし)のための技術学校だった。
 それなのに。
 あの有坂大佐さえ最敬礼で迎える、大物に無礼をはたらいて、無事に学校を修了できるだろうか。

 仲之助の腹が、ぐう、と鳴った。
──厄日だ……。
 仲之助は、また溜め息を()いた。
 今日は水曜日。
 砲兵工科学校では、昼飯にライスカレーが出る。
 普段は、漬け物やきんぴら、味噌汁(みそしる)白飯(しろめし)だ。
 故郷では()いだことのなかったライスカレーの豊潤(ほうじゅん)な香りに、仲之助は心底、夢中になっていた。
 そのライスカレーを、校長に怒鳴られているうちに、みすみす(のが)してしまった。
──それに……。
 この道中に浴びせられる、好奇の視線にも辟易(へきえき)する。
 六尺(ろくしゃく)の大男である仲之助の後ろを、子供にしても小柄な、銀髪の少女がついて歩くさまは、いかにも珍妙だった。
 砲兵工科学校は、工廠の敷地の北西端にあたる春日(かすが)の地にあった。
 そこから、目指す工場までの道のり、煉瓦造りの舎屋を横切るたびに、兵士や職人たちが顔を上げ、何事かといぶかしむような目を向けてくる。

 長く感じる道行きを経て、鍛工場の一角、圧搾機の置かれた場所についた。
 「比留間校長と原田少将閣下のご指示で」と告げると、工長はふうん、と太い片眉(かたまゆ)()り上げた。
 アン、と呼ばれた少女は──。
 仲之助をよそに、自分の身長の四倍近くある圧搾機の側に駆け寄ると、その動作を食い入るように見つめていた。
 仲之助も、その工程をまじまじと見るのは初めてだった。
 礬素(ばんそ)、つまりアルミニウムの圧搾加工が砲兵工廠ではじまったのは、昨年、明治二十九年のことだ。
 軽量で延伸性に優れるアルミニウムは、地金こそ輸入に頼ってはいたが加工が容易(たやす)く、東京砲兵工廠では水筒、大阪砲兵工廠では飯盒(はんごう)の製造が本格的になっていた。
 切り揃えられたアルミニウムの板を、職人が台座に置く。
 ハンドルを操作すると、上から巨大な鉄の(つち)のようなものが轟音(ごうおん)とともに()りてくる。次に槌を持ち上げると、どんな原理か、金属板は(びん)の形状に延ばされている。こうして、水筒の<(つつ)>の部分が出来上がる。
 あとは、波打(なみう)った(はし)()(そろ)え、角を丸く(けず)れば完成だ。
「……なるほど」
 少女は、いつの間にか取り出した手帳に、鉛筆で手控(てびか)えを始めている。
──日本語、しゃべれるんだな。
 仲之助がそんなことを思っているのをよそに、工長がずんぐりした身体を傾け、手帳を(のぞ)()んだ。
「へえ、玄人(くろうと)はだしだな」
 すると、アンは(つづ)りの一枚を破って、工長に差し出した。
「こういうものを、作れるでしょうか」
「なんだぁこりゃ。(たる)か?」
(おけ)
「こんなでっけぇ槽をこさえて、どうするんだぃ?」
 仲之助は、工長と並んで、アンの描いた図に目を走らせた。
 うまいものだ。
 いや、うまいというより、彼女には製図の知識がある。
 注文の(しな)は、ほぼ円筒。直径六十サンチ、深さ八十サンチ。底に十字型の突起がある。内壁には、幾重(いくえ)かに螺旋(らせん)を描くような配置で、長丸の低い突起が並んでいる。
 さらに、ぴたりと大きさのあった、(ふた)
 蓋と筒とは、二重のリング状に仕立てた丈夫(じょうぶ)鋼線(こうせん)()める仕掛(しか)けになっている。
 仲之助は、感心して言った。
「なるほど、この針金は、一方が蝶番(ちょうつがい)、他方が蓋を引き締める封印の役割をしているんだね」
 工長は太い腕を組んで、思案げに(あご)をさすった。
「西洋の密封瓶に、(おんな)じような仕掛けを見たことがあるな……。少将閣下の御用なら、試作するのは構わねぇ。だが、問題は──」
 仲之助には、工長の言いたいことがわかった。
 水筒の生産は待ったなしの状況なのだ。
 さきの清国との(いくさ)で使われた水筒はガラスやブリキ。だが、ガラスは割れやすく、ブリキは(さび)が出て不評だった。
 来るべき次の戦いまでには、大量のアルミ水筒を製造しなければならない──。
 この繁忙期に、飛び込みの、珍妙な依頼を誰に任せるか。工長はそれを考えている。
「あの、もし……」
 ふいに、(わき)から声がして、仲之助は飛び上がった。
 女の髪には詳しくないが──イギリス巻というやつだろう。仲之助の胸あたりの高さに、声の主の頭頂部があった。
 ふっくらした(ほほ)柔和(にゅうわ)な顔に眼鏡をかけ、小倉色(おぐらいろ)の地味な小袖(こそで)に、作業用の白い──機械油で所々、茶色に染まってはいたが──前掛けをつけている。
 歳の頃は、仲之助より少し下。十六、七だろうか。
 圧搾機から取り出した水筒を並べた(かご)を抱えている。仲之助はちょうど作業動線の途中に立ち塞がってしまったらしい。
「親方、何か新しいご相談ですか?」
「おう、お(はつ)。こちらがアルミニウムの樽……いや、槽をご所望なんだが、ちょうどいい。おめえ、やってみるか」
 仲之助は、驚いた。
「えっ、この子が?」
 口に出してから後悔した。お初と呼ばれた少女に睨まれたからだ。
長坂(ながさか)初音(はつね)と申します。以後、お見知りおきを」
 ふん、と息を吐くと、初音は仲之助などそこにいないかのように、銀髪の少女と相談を始めた。工長はガハハと笑って言った。
女衆(おなごしゅう)には普段、水筒に塗料を塗って、焼き付ける仕事をしてもらってるんだが、お初は、ちとばかし変わった娘でな。機械の組み立てや型の工夫もお手のものよ」
 砲兵工廠でも、規模の拡大にともなって、近頃は女工が増えている。
 仲之助はもともと、「女工」という言葉に、どこか暗い印象を抱いていた。
 若い娘が家を離れ、遠くの紡績工場で酷使され、里にわずかばかりの仕送りをしてくる。そんな噂ばかり耳にしていたからだ。
 だが、ここでは、やや事情が異なる女工もいるようだった。
──やっぱり士族の娘かな。
 どこか(りん)とした初音の横顔に、仲之助はそんなことを思った。
 士族といっても、幕府が倒れ、職を失った旗本(はたもと)の子女などには苦労している者が多い。明治の初め頃は、音曲(おんぎょく)の素養を活かして芸者になったり、人に(だま)され女郎(じょろう)に身を()としたりする者も少なくなかったという。
 だが、世の中が変わって三十年。
 砲兵工廠に、通いでやってくる士族の娘たちの中には、家計を支えるためだけでなく、西洋の知識や技術を学んでやろうという野心を感じさせる者もいる。
──俺と同じ、か。
 仲之助がぼんやり見つめていると、初音と目が合った。
 だが、その刹那(せつな)、初音は眉根(まゆね)を寄せて、ふい、と目を()らす。
──厄日だ……。
 仲之助は、また(ひと)嘆息(たんそく)した。

 帰り道、奇妙な任務を終えた仲之助の心は、いっそう重かった。
 今日あった、さまざまな不幸が浮かんでくる。
 ひとつ、憧れの有坂大佐に拳骨を喰らった。
 ひとつ、ライスカレーを逃した。
 ひとつ、謎の少女を連れて歩き回り、みなに奇異の目で見られた。
 ひとつ、あの凛とした、女工の初音に嫌われた。

 だから、比留間校長と並んで、老人と少女に見送ったとき、仲之助の内心に湧き上がったのは、なんにせよ、この不運の連鎖から解放されるという安堵感(あんどかん)だった。
 だが、二人の姿が見えなくなると、校長は、ギロリと仲之助を睨みつけて言った。
「さて、伊藤」
「はっ」
「今後、お前を原田少将閣下邸との、連絡役に任ずる」
「はっ?」
「ええい、何度も言わせるな。仔細(しさい)はこれを読め。以上!」
 呆気にとられる仲之助の手に折りたたんだ紙を握らせると、校長は肩をいからせて去っていった。
 どうやら、仲之助の災難は、まだまだ続くらしい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ドイツ名、アンネ・フーバー。フランス名、アンヌ・ユベール。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み