少女とライスカレーの日

文字数 7,200文字

「次ッ」
 パンッ──。
 谷底のように深く、細長い地下壕(ちかごう)
 鋭い合図とともに、小銃の発射音が鳴った。
 射垜(しゃだ)土塁(どるい)に立てられた木の(くい)
 そこに縛りつけられた<標的>の肉が弾丸に穿(うが)たれ、パチャッと血肉のはぜる音がする。
──さすが、有坂(ありさか)大佐殿。
 仲之助(なかのすけ)は、その姿をうっとりと(なが)めていた。
 試射しているのは、砲兵工廠(ほうへいこうしょう)でも話題の新式銃だろうか。
 小銃を置いた有坂大佐が、こちらに気づいた。
「貴様は──先日の」
「はっ、伊藤(いとう)であります」
「砲兵工科学校にいるのだったな。生まれは」
「宮城であります。農家の三男坊です」
「小銃に関心があるか」
「はっ、いつか、大佐殿のように小銃の改良に取り組みたいと思っております」
 仲之助は、背筋を伸ばして言った。
 ふっ、と有坂大佐は息を()いた。
「心強いな。小銃も、大砲も、この国の兵器は、まだまだ改良の余地だらけだ──だが、覚えておけ。改良の余地があるのは、兵器だけじゃないぜ」
「はっ──はあ……?」
 仲之助は、戸惑(とまど)った。
 そんな顔を見て、有坂大佐は目だけで笑った。そして、おもむろに言った。
「ところで……伊藤。あれは、なんだ」
 銀髪の少女が、土塁にしゃがみこんでいる。
 男たちが<標的>を運び出したあとの、血肉の飛び散った地面をほじくり返しているようだ。
──また、大佐殿の前で奇態(きたい)をさらすハメに……。
 仲之助は、頭を()きむしった。
 若宮町(わかみやちょう)の長屋を訪れた翌朝。
 砲兵工廠を訪れたアンは、小銃の試射場を見たいと言ってきた。(いな)、正確には、その<標的>が保管されている場所はどこか、と()いたのだ。
 小銃類の試射に用いる、特別な<標的>。
 それは、死体(・・)だ。
 薬殺(やくさつ)した病気の軍馬を使ったり、ときには東京大学病院からもらい受けてくる検体(けんたい)、つまり人間の遺体を利用したりすることもある。
 銃弾を撃ち込まれた<標的>は、砲兵工廠所属の軍医や陸軍獣医学校の獣医によって解剖され、損傷の特徴が記録される。これが小銃の性能比較の資料とされるのだ。
 アンは、運び出された馬の死体のあとをついて、地下壕につながる()(どお)しを抜け、解剖室のある建物に入っていこうとする。
「君、こら、いったいなんだ!」
 分厚い眼鏡をかけた太鼓腹(たいこばら)の軍医が、驚いて声を上げる。
「……おかまいなく」
「そういうわけには!」
「ニホンゴ、ワカラナイ」
「うそをつけ!」
 ようやく追いついた仲之助は、「少将閣下の特務で……」と苦しい説明をした。軍医は、疑わしそうにアンを見ながら(たず)ねた。
「それで? 何が知りたいの?」
「標的になった馬は、解剖のあと、どうなるんでしょう」
「解剖のあと? そうねえ。普通は積み出して、獣医学校の検体なんかと一緒に(ほうむ)ってもらうよ。多少ツヤのあるやつは、鞍工場(あんこうば)で皮をはいで使ったりするかな」
 アンは、ずいと軍医に詰め寄った。
「積み出す。どこで」
「かっ、河岸(かし)からね」
「鞍工場というのは?」
「まっすぐ行って、小石川(こいしかわ)を渡ったところ。あのでっかい水車塔の手前だよ」

──あれは、いったいなんだ?
 そう(ささ)きながら行き交う軍人や工員たちの視線が痛い。
 歩哨(ほしょう)のように小石川の川べりに立った仲之助は、深く嘆息(たんそく)した。
「……それにしても」
 さっきから、アンは鞍工場に沿った土手の草むらにかがみ込んで、何やら怪しげな動きをしていた。
「いったい、何をしているんだい?」
 アンは、それには答えず、言った。
下谷(したや)の、小澤(おざわ)という家を見つける方法はないでしょうか」
「おマツさんのご亭主の奉公先かい?」
「ええ」
「そうだなあ。農業の関係と言っていたから、陸軍に米や麦を納めている農会のほうからわかるかもしれない。でも、下谷の小澤というだけじゃあなあ」
「チッ……」
「ん? 何か言ったかい?」
 アンは立ち上がって、(すそ)についた土埃(つちぼこり)を払った。
いいえ(Nein)……」
「もういいのかい」
「今日は、あまり遅くならないようにと、奥さまが」
──奥さま。以前はお会いしなかったな。
 仲之助は、あのぬらりひょん(・・・・・・)のような少将の奥方を想像して、(ひと)(うな)った。
「少将も、ご在宅だろうか」
 連絡役を命じられてから、一度も少将本人に挨拶できていないことが気になっていた。
「そう思います」
「じゃあ、午後になったらお邪魔しよう。一度、学校に戻るから」
 アンは不思議そうな顔をした。
「今日も一日、外出許可を取ったのでは」
「今週こそは、(のが)せないものがあるんだ」
「逃せない、もの?」
「ライスカレーさ!」

──どうして、こうなった?
 仲之助は、(スプーン)を口に運びながら、唸った。
 全身に刺さる周囲の視線で、まさに針の(むしろ)だ。
 それもこれも、目の前で無遠慮にライスカレーをかき込む、銀髪の少女のせいだった。

 ライスカレー(・・・・・・)
 その単語を聞いたアンは、ただでさえ大きな目を、普段の二倍になったかと思うほど見開いた。
 そして、有無(うむ)を言わさず、仲之助について砲兵工科学校の食堂に侵入してきたのだ。
 湯気の立ち登る大鍋(おおなべ)筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)の腕で運んできた軍曹──炊事掛(すいじがかり)下士である──は、(どんぶり)を手に生徒の列に並んだアンを見て、絶句した。
「伊藤、この娘は……」
「はっ、特務であります」
 やけくそに比留間校長のご許可もあります、と(たた)みかけると、軍曹は戦傷(いくさきず)の残る頬を(ゆが)めた。言いかけたことを飲み込んだのだろう。

 いつもは談笑の声で騒がしい食堂が、今日は静まりかえっている。
 わずかに聞こえるのは、ヒソヒソという囁き声ばかり。
 誰もが、こちらに聞き耳を立てている。
 とはいえ、アンは、むさぼるようにライスカレーを食べるばかりで、仲之助と会話するでもないのだが。
 ガタリ、と、やおらアンが立ち上がった。
「ど、どうしたんだい」
「……おかわり」
 鍋をかきまぜていた軍曹が大声で笑い出した。
「おお、食え食え。お嬢ちゃん、兵隊なみの健啖(けんたん)だな」
「ひ、久しぶり、なので……」
 アンは、口籠(くちご)もりながら、器を差し出す。
──久しぶり、なのか?
 仲之助には、その言葉が妙に耳に残った。
 アンは丼を受け取りながら軍曹に(たず)ねた。
「お湯か、温かいミルクはありませんか」
「湯でいいなら、そこにあるぜ」
 ライスカレーを席に置いたアンは、バスケットからブリキの湯呑(ゆの)みを取り出した。そして、いつもポリポリと(かじ)っている角砂糖を二つ、湯呑みに入れる。
 全員が注目しているのに気がついているのかいないのか、アンは湯呑みを持ってつかつかと歩き、食事どきに置かれる大薬罐(やかん)の前に立つ。
 学校とは言え、若い兵士が集まる砲兵工科学校の食堂だ。大薬罐はアンの頭二つ分の大きさはあった。どう見ても、持ち上げるのは無理だ。
 ぼんやりしていた仲之助が腰を浮かしかけたときには、すでに五、六人の生徒が立ち上がっていた。
「自分がお手伝いしましょう」
「いえ、自分が」
──お前らなあ……。
 仲之助が人垣の後ろで(あき)れていると、ふわりと、かすかに酸味を()びた(こう)ばしい匂いがした。
「なんですか、これは」
 大薬罐を持った生徒が、アンの湯呑みを物珍しげに覗き込んでいる。
「おっ、珈琲(コーヒー)じゃねえか。(いき)だねえ」
 香りをかいだ軍曹が言った。
 席に戻ってきたアンに、仲之助は訊いた。
「その、茶色いものが、珈琲かい」
 アンは、こくりとうなづく。
「本当は、甘くないのがほしい」
「角砂糖に入っているのなら、甘いものなんじゃないのかい」
「ここでは、これしか買えなかった」
「……ここでは(・・・・)、ね」
 仲之助が繰り返すと、アンの表情が一瞬、変わった。
──君は、何者なんだ。
 喉元(のどもと)まで出かかっていた問いを、仲之助は飲み込んだ。
 アンの顔に、(おび)えたような影がさした気がしたのだ。

 砲兵工廠を出て、裏猿楽町(うらさるがくちょう)の西洋絵画のような洋館の玄関にたどりついたときだった。
 背後で、じゃり、と砂を踏みしめる車輪の音がした。
 仲之助は、何気なく表通りのほうを振り返った。
 そして、絶句した。
 色づいた(かえで)の葉が落ちる中を、二人の紳士がやってくる。
 手押し椅子、とでもいうのだろうか。
 車輪がついた椅子に座った、着物姿の男。
 その車輪付きの椅子を、黒い洋装の壮年(そうねん)の紳士が押している。
 車上の人物は──やわらかく微笑(ほほえ)んでいる。
 だが、膝掛(ひざか)けの上に重ねた両手は、枯れ枝のように痩せ切っていた。
 丁寧に整えられた(ひげ)──だが、頬は()(くぼ)み、肌の色は土気色(つちけいろ)をしている。
 それなのに──
 二人の紳士は、仲之助の目には、その西洋絵画のような景色の一片(いっぺん)(にな)う造形のように美しく(うつ)った。
 気づくと、アンもまた、二人を見つめて立ち尽くしている。
 車上の紳士は、ゆっくりと手を上げると、アンに優しげな目を向けた。
Bonjour(ボンジュール), Mademoiselle(マドモワゼル) Anne(アンヌ) Huber(ユベール)
 椅子を押してきた黒服の紳士が、冷たい表情で仲之助を見た。
「君は?」
「はっ、砲兵工廠と少将閣下の連絡役を仰せつかりました、伊藤であります」
「そうか。ご苦労」
──この人、軍人なのか?
 仲之助が敬礼すると、黒服の紳士は力を込めて、椅子を玄関に押し上げた。
 玄関ホールに続く階段の上から、足音が聞こえる。
直次郎(なおじろう)さん」
 (つや)やかな声だ。
「まあ、(もり)先生も」
 仲之助は、階段を見上げた。
──美しい──
 そんな言葉が、脳裏をよぎる。
 ゆったりとした紫の上衣(カーディガン)を羽織った女性が、足早に降りてくる。
 上品な栗色(くりいろ)の巻き髪。くっきりとした西洋人のような目鼻立ちで──その点は、アンも同じだが──、痩せぎすで血色の悪いアンとは違って、明るい桃色の肌と紅色の唇は、豊穣(ほうじょう)女神(めがみ)という言葉を思いおこさせた。
「アンネ、そちら(・・・)は?」
 夫人が仲之助に気づいた。
「砲兵工廠の連絡係でいらっしゃる、伊藤上等兵です、奥さま」
──この人が、奥さま? どう見ても三十前じゃないか──
 仲之助は内心、混乱した。
 夫人は笑顔を見せていった。
「まあまあ、お客さまが重なってどうしましょう」
照子(てるこ)義姉(ねえ)さん、僕たち身内はいいですよ」
 直次郎と呼ばれた病身の男は、そう言って、半ば抱き上げられるように、森という紳士に支えられながら立ち上がった。
「私は、身内になった覚えはないんだが」
 森は冷静な声で言った。照子夫人は、艶然(えんぜん)と微笑んだ。
「いいえ、先生はもうお身内ですわ……さあ、アンネ、手をお貸しして」

 仲之助は、二階の応接室に通された。
 手前にダイニングテーブル。
 大きな窓から庭が望める一角には、上品な色合いのソファとローテーブルが置かれている。
 室内にはピアノと──そして、軍服姿の少将を描いた、力強い筆致(タッチ)の油絵が目を引いた。
 (こわ)ばった身体を支えられながら、直次郎は一階のどこかの部屋へ入ったらしい。しばらくすると、照子夫人が森を(ともな)って応接室に入ってきた。
「伊藤さん、とおっしゃったわね。お義父(とう)さまは別棟(べつむね)にいらっしゃって、使いを出しました。しばらく、こちらでお待ちになってね」
 照子夫人が向かいに座ると、ふわりと甘い香りがする。
 森は、勝手知ったる様子で、仲之助の案内されたソファではなく、ダイニングテーブルの椅子に座り、葉巻に火をつけた。
 アンが、ティーセットの乗ったワゴンを押してくる。カップに紅茶を(そそ)ぐと、森の前に置いた。その手を、森がすっと取った。
──なっ……。
 仲之助の心がざわついた。
 玄関先で、あの二人の紳士に出会ったときから、どこかアンの様子がおかしいような気がしていた。そのときは、病身の直次郎に声をかけられたアンが身を固くしたように思ったのだった。
「あの……」
 アンが小さく言うと、森はふむ、と(つぶや)いて手を離した。
 仲之助の中に、何かもやもやとした感情が湧き起こった。
 森が何者か知らないが、断りもなく乙女(おとめ)の手を取るとは何事か。
 そのとき──。
 バタバタと足音がして、白いワンピースを着た少女が駆け込んできた。ノブだ。すぐあとを、クマオが追いかけてくる。
「待て、おノブ!」
「おかあさま、おかあさま、お兄さまが……」
 そう言いかけて、二人は客人たちに気がついた。クマオがぴょこんと頭を下げた。
「森さん!」
「やあ、クマオくん。ノブコくん」
 森が親しげに言うと、ノブが膝を軽く折って会釈(えしゃく)する。
「森さん、ごきげんよう」
 照子夫人は、あらあら、と鷹揚(おうよう)に笑ってたずねた。
「いったい、どうしたの」
 ノブは、照子夫人の後ろに逃げ込む。クマオは腕組みをして仁王立(におうだ)ちになった。
「かあさま。このうちの家長になるのは、僕、ですよね」
「ええ、そうですよ」
「なら、このうちで何を飼うか(・・・・・)は、僕が決めてもいいはずですね!」
「何を飼うか、ですって?」
 クマオは、アンをぴしゃりと指さした。
「犬ですよ、かあさま。アンネが勝手に、我が家に犬を連れ込んだんです!」
 さもおぞましいというふうに、クマオは付け加える。
「しかも、緑の犬(・・・)ですよ!」
 ノブが、ソファの後ろから反論する。
「お兄さまは犬が恐ろしいだけなのよ。こんなにかわいいのに──」
 よく見れば、ノブの両手の中で、小さな生き物が震えていた。若宮町の長屋で生まれた、あの緑の仔犬だ。
「あら、珍しい。本当に緑の犬なのね」
 照子夫人は、ノブから受け取った犬を膝に乗せて、首筋を()ぜた。仔犬はきゅう、と鳴いて伸びている。
「まあ、かわいい」
「かあさま! それは(のろ)いの犬ですよ!」
 クマオは悲鳴のような声を上げた。
「呪いの犬、か。どういうことかね」
 夫人の膝に転がる犬を見つめていた森が、アンに()く。
 仲之助の心が、なぜかまた少しざわついた。
 そして、事情は自分がご説明します、と出しゃばって語り始めた。

「……なるほど、子殺しの下手人(げしゅにん)の犬が産んだ、緑の仔犬、か」
 森は(あご)に手を当てて、言った。
 クマオは、もっともらしい顔をして、ひとり(うなず)いた。
「どうです、呪いの犬でしょう? ほらおノブ、早く捨ててきな」
「いやよ! お母さまもかわいいとおっしゃったじゃないの」
「どこがかわいいんだ、そんな気持ちの悪い緑──」
 アンが、ぽつりと言った。
「……緑は(・・)治る(・・)
 えっ、と仲之助とクマオが同時に言った。
「アン嬢、治るというのは」
「成長すれば、普通の毛色に戻ります」
 ほう、と森が感情の読めない声を出した。
「なぜ、わかる。説明したまえ」
 アンは、少し躊躇(ためら)ったようだったが、口を開いた。
「……緑色は、母親の胆汁(たんじゅう)色素。古い赤血球が分解されてできたビリベルジン。(あざ)が緑色に見える原因。多胎生(たたいせい)の動物では、栄養状態のよくない個体が緑色になることがある。母体由来の物質だから、時間が()てば消える」
 ふむ、と森は人差し指でこめかみを叩いた。
「胆汁色素……ヴィルヒョー先生か……」
 照子夫人が、どこか不安そうに、森先生、と呼びかけた。
「ああ、失礼……。アンネの言うことは、一理あります」
 森が言うと、ノブが、()(ほこ)った顔をクマオに向けた。
「ほら、やっぱり呪いなんかじゃないんだわ」
「くっ……だいたい、おノブはアンネの言ったことがわかったのか」
「わかるもんですか」
──そうとも、わかるものか(・・・・・・)
 仲之助も、心の中で(つぶや)いた。いったい、この子は──。
「それにしても」
 と、森は()(いき)がちに言う。
「君たちはその探偵の真似事(まねごと)を、いつまで続けるつもりなのかね」
「そ、それは、アン嬢が……」
 自分は振り回されているだけなのに、なぜか森は仲之助を()めるように見据(みす)えている。
「……とにかく、次は下谷の、小澤という家を探しているのですが、手がかりがないのです。農業の改良運動をしていたとかなんとか」
「下谷の、小澤……」
 森が、顎をさすりながら言った。
「それは、小澤善平(ぜんべえ)の家のことじゃないのか」
 仲之助は勢いこんで訊ねた。
「ご存知ですか」
「以前、下谷に住んでいた時期があってな。近くに小澤という種苗業者(しゅびょうぎょうしゃ)の家があった。陸軍病院でも話題になったことがある」
「陸軍病院で……?」
葡萄酒(ぶどうしゅ)だよ。日本ではまだ葡萄酒を日常、(たしな)むことはないが、陸軍では滋養強壮(じようきょうそう)のために仕入れている。小澤のところでは、葡萄の国産化に取り組んでいたはずだ」
 仲之助はアンと顔を見合わせた。
 どん詰まりと思われた調査に、思いがけず光が()した。
「それですよ、きっとそれだ! ありがとうございます」
 仲之助は興奮して、森の前に身を乗り出していた。
「ところで、森さんは、やはり軍医殿でいらっしゃるのですね!」
 はあ?とクマオが大きな声を上げる。
「……クマオくん、自分は何か変なことを言いましたか」
 知らないの、と言いかけたクマオを制して、森が感情のない声で言った。
「自己紹介がまだだったな。陸軍軍医監(ぐんいかん)、森林太郎(りんたろう)だ」
「ぐっ……」
 軍医監といえば、少将相当だ。
「なんぞ、盛り上がっておるのう」
 気の抜けた声がした。着流しの老人が小包を抱えて部屋に入ってくる。
 仲之助は飛び上がって敬礼する。
「ああ、よいよい、そういうのは」
 原田少将は、仲之助に軽く手を()げて(こた)えると、ダイニングテーブルに小包を置いた。
「照子さん、これ今、下でな。高田(たかだ)(みせ)丁稚(でっち)が来て受け取ったんじゃが、急ぎと言っておったわ」
「まあ、お義父(とう)さま。誰かに持たせていただけばよろしかったのに」
 照子夫人が優雅に立ち上がる。
 老人は、夫人と入れ替わりにソファに腰を下ろした。
「それで、森くん。どうじゃな、直次郎は」
「は……。本人は、このところ調子がいいなどと(うそぶ)いていますが、衰弱が進んでいます。この際、どこか空気のよいところで静養したほうがいいのではないかと」
「そうか」
 (とき)がないのう──。
 老人が目を細めて呟くのと、照子夫人が不思議そうな声をあげるのが同時だった。
「何かしら、これ」
 しっかりと封のされた、ガラスの小瓶。中には無色透明の液体が入っている。
 夫人は添えられたカードを読み上げる。
「『西陣(にしじん)帯着物(おびきもの)マデ買ワサレ(たか)クツキ(そうろう)(おっ)御届(おとど)(もう)()(そうろう)』」
「……わたしが、(いけ)さんにことづけて、お願いしておいたものです」
 アンが歩み出ると、老人に膝を折って言った。
「お力添えを、いただきたいことがあります──」

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登場人物紹介

ドイツ名、アンネ・フーバー。フランス名、アンヌ・ユベール。

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