Fragment3

文字数 1,642文字

親愛なるNへ

 この手紙が、無事にあなたの手に届くことを祈っています。
 わたしたちはいま、パリに滞在しています。あなたにとっても、(なつ)かしい街でしょう。
 Maison(アール) de() l’Art(ヌーボー) Nouveau(の家)の支配人ビング氏は、わたしたちにとてもよくしてくれます。
 彼の日本美術のコレクションを見ました。あなたが昔、話してくれた日本の数々の伝説や、神々や、妖怪。そういう神秘が描かれた作品です。

 そう、東洋の神秘──。

 あなたが私たちの師、ガブリエルに送った手紙を、偶然、目にしたとき、何が起こっているか気がつくべきでした。あなたは「先生やご家族の写真を送ってほしい」と繰り返し書いていたわね。それは、あなたが彼に託した、マリイと幼い娘が、その家族写真に写り込んでいることを期待していたからではなくて?

 わたしは、見ないふりをしてきたのです。
 あなたがミュンヘンを去ったとき、マリイがあなたの子を宿していたことは知っていました。正直に言って、わたしはそのことにいらだっていた。
 産まれた赤ん坊にも会いにいったわ。そして、祝福の言葉をかけた。でも、本心から祝福できていたかはわからない。
 彼女の面倒を、あなたがこっそりガブリエルに頼んでいたことは、なんとなく察しがついていたのよ。マリイがどこかに奉公に出て、ミュンヘンを去るらしいと聞いたときも、彼がどこかのお(やしき)でも紹介したのだろうと思って、深く知ろうとはしなかった。

 マリイ母子(おやこ)が、どうなったのか──。
 私はガブリエルに悪意があったとは思えないし、思いたくない。
 でも、東洋と西洋の血を引いた、あなたの娘──不思議な力を持った彼女と再会したとき、彼女は<神秘の(あかし)>として、見世物(みせもの)のように引き回される存在になっていた。
 だから、わたしは信頼できる人たちの力を借りて、彼女を<知られざる大師(マスター)>のもとから連れ出したのです。

 彼女の腕に残る傷は、慈悲の心をもって、見ないであげてね。
 ロシアの貴族の邸に住まわされていた頃、神秘の力を発揮させるためには、ある種の注射を打てばいいと言った医者がいたそうよ。なんてこと……。
 いまの彼女の身体は、ぼろぼろだわ。
 日本までの遠い旅路、神の御加護(ごかご)がありますように。
 でも──。

 日増しに、彼女は弱っています。
 発作のように不思議な言動をするたび、あるいは何かを<思い出す>たびに──そう表現するほうがいいような気がするのだけれど──、熱を出して、ひどいときには倒れてしまうのです。
 断片的に、ぽつりぽつり口にする内容は、どれもこの世のこととは思えない。生物、化学、医学……そう、犯罪や死体について語ったこともある。
 でも、愉快なこともあったわ。
 パリに向かう汽車の中で、彼女がそわそわとしていて。
 幸い、その列車にはお手洗いがあったのだけれども、あの子ったら、すぐに飛び出してきてしまって。どうしたのと(たず)ねたら、
「トイレの中から、線路が見える。あんなの使えない」
 ですって。
 なぜ普通の水洗トイレがついていないのかって、真っ赤になって怒るのよ。
 ほんとうに、おかしな子。
 そう、それに、なぜか「(ネッツ)」にもご執心(しゅうしん)よ。「網が、網が……」とよく(つぶや)いているもの。どういう意味かと()いたけれど、意識がはっきりしているときの彼女には、わからないみたい。

 彼女がすべてを思い出したとき、何が起こるのか。
 身体のことを考えれば、不安のほうが大きいのは事実。
 でも、何か大きな変化が──彼女自身だけでなく、この世界にも──起きるのではないかという気がしてなりません。

 書きたいことはたくさんあるけれど、そろそろペンをおきます。
 ビング氏の夫人ヨハンナさんは、あなたのお義姉(ねえ)さまにとって、叔母(おば)に当たられるそうね。日本までの旅は、ヨハンナさんともご縁が深いという高田商会(たかだしょうかい)のロンドン支店の方にお任せすることにしました。
 どうか、すべてが無事に済みますように。
 あなたと、あなたの小さな奇跡の子に祝福があらんことを。

あなたの──
ツェツィーリエ
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登場人物紹介

ドイツ名、アンネ・フーバー。フランス名、アンヌ・ユベール。

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