Fragment1
文字数 2,400文字
まるで、檻 の中の重騎兵 ね──。
工房に足を踏み入れたツェツィーリエ・バーダーは、幼い娘の手を握り直した。
アーチ窓から射 し込 む、青白い光。
雷雲 から漏れる陰鬱 なその陽光 に、黒い甲冑 のような、巨大な金属の塊 が浮かんでいた。
周囲には、木材で組まれた足場。
その機械は、まるで囚 われた戦場の猛者 のようだ。
人払 いされたらしい煉瓦 造りの工房には、誰の気配もない。
うっすらと、鼻をつくような臭 い。石油だろうか。
奇妙な形にねじれたパイプや、金属製の球体、円筒──。
「ルドルフ、いるのかね?」
母娘を案内してきた教授が、声を潜 めて呼びかける。
「先生、こちらです」
鋭い声がする。
工房の奥から、険 しい表情の男が姿を現した。
その男が、小さな少女の両肩に手を置いていることに、ツェツィーリアは、すぐには気がつかなかった。
工房はそれほど薄暗かったし、少女の黒衣 と長い黒髪は、影のようにしか見えなかった。
教授は男と握手を交わし、ツェツィーリエを振り返った。
「あらためて紹介しよう。こちら、ルドルフ・ディーゼル。私の教え子で、いまはこの──」
巨大な機械を仰ぎ見て、教授が続けた。
「新しい内燃機関 に、取り組んでいる。ルドルフ、バーダー夫人のことは話した通りだが、夫妻ともに気鋭の画家だ」
厳しい表情を崩さないまま会釈 をした男に、ツェツィーリエは言った。
「どうか、ツェツィーリエと」
カール・リンデ教授は、ふむ、と鼻を鳴らした。
「そして、彼女が<例の娘>だね」
リンデ教授がそう言って視線を向けると、少女は身を固くしたようだった。
小枝のように細い指を、ぎゅっと握っている。
ツェツィーリエは、腰をかがめて少女に言った。
「……大きくなったわね。あなたは覚えていないでしょうけれど、ご両親──お父さまとは、お友達だったのよ」
ツェツィーリエは、自分の背後に隠れてはにかんで いる娘を引き寄せた。
「この子は、娘のゾマデヴィ。あなたよりふたつ年下よ」
前髪を切りそろえたゾマデヴィと黒髪の少女は、ほぼ同じ背丈 だ。だが、ふっくらとした体型のゾマデヴィと比べて、少女は血色が悪く、頬 が痛々しいほど痩 けている。
「わたしたちがお話ししている間、遊んであげてもらえないかしら」
ツェツィーリエがうながすと、娘のゾマデヴィがおずおずと黒衣の少女の手を引いた。少女の細い身体は、ゆらり、と影のように動く。
危ないから、機械に触ってはだめよ──母の声を背に、子供たちは製図台の向こうへ消えていった。
「いまさらながら、我々がこんな誘拐に手を染めることになるとは」
教授が嘆息する。
ディーゼルは、厳しい目つきのまま言った。
「いえ……、あの娘の様子を直近に見れば、この決断は正しかったと、先生も感じられると思います。私は、バーダー夫人──ツェツィーリエさんを支持します」
「それで……」
教授が髭 をさすりながら、ツェツィーリエに問いかけた。
「君は本当に、このまま<計画>を実行するつもりかね」
「いまさら、後戻りはできませんわ」
ツェツィーリエが答えると、男たちは低く唸 った。
雷鳴が轟 き、雨足 が強くなった。
馬車は、<Maschinenfabrik Augsburg >と掲 げられた門を出て駅へと向かっていた。
隣に座った幼 な子 は、窓の外を見つめながら、鼻歌を歌っている。
ツェツィーリエは、押し黙って考えを巡らせていた。
ミュンヘンに戻ったら、すぐに旅支度 をしなければ。
耳に届く、か細い鼻歌に、次第に歌詞がつく。
これからは、うまく立ち回らなければならない。
幸い、夫は知人に招かれて、遠出している。
体面 や貴族的な付き合いを重んじる夫が、冗談にもこの<計画>に賛成してくれるとは思えない。
──やはり、秘密を知る人間は、少ないほうがいい。
やがて娘は、か細い声で歌い始めた。
<あっめあっめふーれふーれ かあーさんがー>
ツェツィーリエは、ゾッと全身の毛が逆立 つのを感じた。
「おやめなさい!」
その叫びと同時に、雷光が馬車の中を照らした。
稲光 の中で黒髪の少女は、目を丸くした。
そして次の刹那 、打 ち据 えられた獣 のように身を縮 めた。
落雷の轟音が馬車を襲った。
ツェツィーリエは、はっとして少女を抱きしめた。
少女は、腕の中で仔犬 のように震 えている。
だが、やはりそうなのだ。
父親の顔も知らず、出生の真実も知らずに育ったはずの少女が、いま、異国の言葉で歌ったではないか。
かつてツェツィーリエが想いを寄せた、日本人画学生の娘。
この子には、人智 を超えた異変が起きている──。
娘のゾマデヴィと、少女を一時交換する。
それが、ツェツィーリエの<計画>だった。
この少女を追う<協会>の一派は、まだ自分たちの行動に気づいていない。
その隙 に、監視の網が張り巡らされたミュンヘンを出る。
芸術家であるツェツィーリエが、娘をともなってパリを訪れても、何の不自然もない。
目指すのは、東洋美術の貿易で名高い美術商サミュエル・ビングの<Maison de l’Art Nouveau >だ。
ビングを通じてなら、日本への道も開ける──。
ツェツィーリエは、腕の中にいる、小柄な少女の黒髪に頬を寄せた。
車窓を、雨に霞 んだ雄大な山々が流れていく。
人類の歴史の営 みは、絶 え間 なく移り変わっていく。
それに疲れた人間は、不変とも言える大自然と我 とを見比べて、思い悩み、永遠の命や、不滅の自我を求めたのではなかったか。
娘の名前「ゾマデヴィ」も、ヒンドゥーの伝説で、不老長寿をもたらす<神酒 >の女神を指す言葉だ。
限りのあるものよりも永遠を。
現世の苦しみより、来世の幸福を。
そんな人類究極の願望を、この子が、叶えようとしている──?
「……でも、それがなぜ、こんなに残酷なのかしら」
ツェツィーリエの呟 きは、馬車の屋根を打つ激しい雨音にかき消されていった。
工房に足を踏み入れたツェツィーリエ・バーダーは、幼い娘の手を握り直した。
アーチ窓から
周囲には、木材で組まれた足場。
その機械は、まるで
うっすらと、鼻をつくような
奇妙な形にねじれたパイプや、金属製の球体、円筒──。
「ルドルフ、いるのかね?」
母娘を案内してきた教授が、声を
「先生、こちらです」
鋭い声がする。
工房の奥から、
その男が、小さな少女の両肩に手を置いていることに、ツェツィーリアは、すぐには気がつかなかった。
工房はそれほど薄暗かったし、少女の
教授は男と握手を交わし、ツェツィーリエを振り返った。
「あらためて紹介しよう。こちら、ルドルフ・ディーゼル。私の教え子で、いまはこの──」
巨大な機械を仰ぎ見て、教授が続けた。
「新しい
厳しい表情を崩さないまま
「どうか、ツェツィーリエと」
カール・リンデ教授は、ふむ、と鼻を鳴らした。
「そして、彼女が<例の娘>だね」
リンデ教授がそう言って視線を向けると、少女は身を固くしたようだった。
小枝のように細い指を、ぎゅっと握っている。
ツェツィーリエは、腰をかがめて少女に言った。
「……大きくなったわね。あなたは覚えていないでしょうけれど、ご両親──お父さまとは、お友達だったのよ」
ツェツィーリエは、自分の背後に隠れて
「この子は、娘のゾマデヴィ。あなたよりふたつ年下よ」
前髪を切りそろえたゾマデヴィと黒髪の少女は、ほぼ同じ
「わたしたちがお話ししている間、遊んであげてもらえないかしら」
ツェツィーリエがうながすと、娘のゾマデヴィがおずおずと黒衣の少女の手を引いた。少女の細い身体は、ゆらり、と影のように動く。
危ないから、機械に触ってはだめよ──母の声を背に、子供たちは製図台の向こうへ消えていった。
「いまさらながら、我々がこんな誘拐に手を染めることになるとは」
教授が嘆息する。
ディーゼルは、厳しい目つきのまま言った。
「いえ……、あの娘の様子を直近に見れば、この決断は正しかったと、先生も感じられると思います。私は、バーダー夫人──ツェツィーリエさんを支持します」
「それで……」
教授が
「君は本当に、このまま<計画>を実行するつもりかね」
「いまさら、後戻りはできませんわ」
ツェツィーリエが答えると、男たちは低く
雷鳴が
馬車は、<
隣に座った
ツェツィーリエは、押し黙って考えを巡らせていた。
ミュンヘンに戻ったら、すぐに
耳に届く、か細い鼻歌に、次第に歌詞がつく。
これからは、うまく立ち回らなければならない。
幸い、夫は知人に招かれて、遠出している。
──やはり、秘密を知る人間は、少ないほうがいい。
やがて娘は、か細い声で歌い始めた。
<あっめあっめふーれふーれ かあーさんがー>
ツェツィーリエは、ゾッと全身の毛が
「おやめなさい!」
その叫びと同時に、雷光が馬車の中を照らした。
そして次の
落雷の轟音が馬車を襲った。
ツェツィーリエは、はっとして少女を抱きしめた。
少女は、腕の中で
だが、やはりそうなのだ。
父親の顔も知らず、出生の真実も知らずに育ったはずの少女が、いま、異国の言葉で歌ったではないか。
かつてツェツィーリエが想いを寄せた、日本人画学生の娘。
この子には、
娘のゾマデヴィと、少女を一時交換する。
それが、ツェツィーリエの<計画>だった。
この少女を追う<協会>の一派は、まだ自分たちの行動に気づいていない。
その
芸術家であるツェツィーリエが、娘をともなってパリを訪れても、何の不自然もない。
目指すのは、東洋美術の貿易で名高い美術商サミュエル・ビングの<
ビングを通じてなら、日本への道も開ける──。
ツェツィーリエは、腕の中にいる、小柄な少女の黒髪に頬を寄せた。
車窓を、雨に
人類の歴史の
それに疲れた人間は、不変とも言える大自然と
娘の名前「ゾマデヴィ」も、ヒンドゥーの伝説で、不老長寿をもたらす<
限りのあるものよりも永遠を。
現世の苦しみより、来世の幸福を。
そんな人類究極の願望を、この子が、叶えようとしている──?
「……でも、それがなぜ、こんなに残酷なのかしら」
ツェツィーリエの