アンネの鍛冶場小屋

文字数 12,039文字

 小石川(こいしかわ)砲兵工廠(ほうへいこうしょう)から、水道橋(すいどうばし)でお(ほり)を渡って、神田(かんだ)()に入る。
 そのままぶらぶらと表通りを歩けば、神保町(じんぼうちょう)の書店街。
 仲之助(なかのすけ)にも慣れた道だが、今日は勝手が違う。猿楽町(さるがくちょう)の教会の向かいを東に入り、駿河台(するがだい)崖下(がけした)を進む。一本入っただけで、商店の並ぶ表通りの喧騒(けんそう)(うそ)のように静かになった。
 その敷地の(はし)(いた)ってから、歩くこと数百メートル。
 延々(えんえん)と続いていた生垣(いけがき)に、ようやく切れ目が見えた。
 門を入ると、左斜め前に、赤煉瓦(あかれんが)の洋館。屋根の勾配(こうばい)が急で、(とが)ったように空に突き出ている。
 秋も深まって、色づいて(ちぢ)れた(かえで)の葉が舞っている。
 どこかで目にした西洋の風景画のようだ。
──ここが、日本とは。
 仲之助は、そんなことを思いながら、戸口に立った。
 通されたのは、玄関の(つぎ)()だ。
 「次の間」といっても、仲之助の居室より広い。
 玄関ホールからは二階に上がる大階段があった。その階上から音楽が──ピアノの音色がポロリポロリと聞こえてくる。仲之助には、なんという曲ともわからないが、快活なメロディーだった。
──あの子が、()いているのだろうか。
 アン、と呼ばれていた銀髪の少女。
 いったい何者なのだろう。
「ふん」
 開け放たれたドアのほうから、鼻息が聞こえて、仲之助は顔をあげた。
 肉付きのいい少年が、腕組みをして立っていた。
 大きくて丸い顔に、三角定規のような鼻がちょこんと乗っている。その鼻筋の通り方は、どこか西洋人を思わせた。十歳くらいだろうか。
「やあ、こんにちは」
 仲之助は座ったまま、笑顔で声をかけた。
 だが、少年はいかにも(あき)れた様子で肩をすくめた。
「一家の主人に、座ったままこんにちはとは。軍の規律も相当(ゆる)んでいますね」
「な……?」
 やれやれ、と少年は次の間に入ってくると、仲之助の向かいに座った。テーブルに出されていた()菓子(がし)(つま)むと、無遠慮(ぶえんりょ)に口に放り込む。
「僕はこう見えても、原田家の嫡男(ちゃくなん)。何年かしたら、この家も何も、ぜーんぶ僕のものになるんですよ」
「し、失礼いたしました!」
 太っちょの少年は、立ち上がって敬礼した仲之助を見て、悪戯(いたずら)っぽく笑った。
「へへ、兵隊さん、びびりましたね。冗談ですよ、じょーだん」
 僕が嫡男なのは、ほんとですけどね、と少年はまた菓子を口に運ぶ。
「おじいさまはいらっしゃらないのに、新顔の兵隊さんが来るなんて珍しいですね」
「少将閣下はご不在ですか」
 ああ、だめだめ、と少年はかぶりを振る。
「このうちに出入りするなら『閣下』はだめです。おじいさまがいやがるから」
「いやがる?」
「『そういう大袈裟(おおげさ)な敬称はいらんのじゃ』って。知ってますか、貴族院議員って汽車の一等のパスがもらえるんです。なのに、おじいさまはいつも、三等に乗るんだ」
「三等に?」
「その(あた)りのおじいさんみたいな服を着て。それで、乗り合わせた農家のおじさんなんかと仲良くなって、今年の作柄(さくがら)はどうですかとか、そんな話をするのがおもしろいんだって」
──いつも、ああなのか。
 砲兵工廠であった老人の飄々(ひょうひょう)とした様子が思い出された。
 仲之助は()いた。
「では、アン(じょう)は」
 げっ、と少年は(まゆ)をしかめる。
「まさか、兵隊さんもアンネを追っかけてきたの」

 兵隊さんも、という意味は、裏庭に案内されて、すぐにわかった。
「師匠、こんなもんですかぃ」
「……曲がってる」
「くっ」
 駿河台の、椿(つばき)()(しげ)る崖下。
 一面に、白い布がはためいていた。シーツの海だ。
 午前いっぱいをかけて、この大量の洗濯物を済ませたのだろうか。
 少女は腕まくりをして、自分の身体(からだ)より大きいカゴを抱えて物干(ものほ)しの間を歩き回っている。
 その少女にこき使われて、日焼けした職人風の男が悪戦苦闘していた。
 どう見ても、この(やしき)の者ではない。
「アンネ」
 少年──クマオというらしい──が声をかける。
「お。ぼっちゃん。そちらさんは?」
 なぜか、職人風の男のほうが反応する。
「アンネを追っかけてきたの。(いけ)さんの恋敵(こいがたき)さ」
「なにぃ?」
 年は三十を超えているだろうか。どんぐり(まなこ)の男は、怪訝(けげん)そうにぎょろりと仲之助を見た。
 仲之助は、あわてて否定した。
「いや、自分は決して、そのような」
 池さんと呼ばれた男は、なぁに、()に受けていやがると吹き出した。
「なんだかズレたお人だねえ。俺は池貝(いけがい)庄太郎(しょうたろう)、師匠の一番弟子で。兵隊さんは?」
「小石川の砲兵工廠から来た、伊藤仲之助です。それにしても、いったい何を──」
「……今日は、月曜日」
 アンが、さも忌々(いまいま)しげに言った。
「月曜日は、洗濯の日(・・・・)
 そして──。

 仲之助もまた、上着を脱いで、洗濯物と格闘することになった。
 シーツ、テーブルクロス、手拭(てぬぐ)い……。
 干すべきものは無尽蔵にある。
 中には仲之助が見たこともないようなレース編みの逸品(いっぴん)──花瓶(かびん)の下に置くのだという──などもあった。
 この邸の敷地は三千坪(さんぜんつぼ)
 中には六軒の家屋と洋館があり、それぞれから洗濯物が出る。
「家を建てるのはおじいさまの道楽(どうらく)」とクマオは言った。
 洗濯の日である月曜日には、それらの家々の大物を一度に洗う。
 それが、アンの、この家での仕事なのだ。

──あんな小さな身体で。
 東北の生家では、たしかに小さい弟妹も、いつも家の手伝いをしていた。
 だが、背の高い物干しと、細く小さいアンの姿は、いかにも不釣(ふつ)()いで危なげに見えた。
 彼女は、使い古した木箱を台がわりに、爪先(つまさき)()ちをしながら自分の何倍もあるシーツを器用に広げていく。
 棒切れのような手足は、少し間違えば、すぐにでも折れ曲がってしまいそうだった。
 その上、そんな作業をしながら、彼女は肩で息をしている──。
 庄太郎と仲之助、そして──(そば)から文句を言っていただけだが──クマオも参加した物干し作業は、ゆうに一時間かかっていた。
──なるほど、これは、なかなかの重労働だ。
 仲之助が息をついたとき、庄太郎が声を上げた。
「よおしっ、終わったっ! 師匠っ! 行きましょう」
「池さん、行くというのは……?」
 庄太郎は、仲之助に胸を張ってみせる。
「おう、師匠の工房さぁ」

 工房とは、物干し場からも見えていた、煉瓦造りの小屋だった。
「これはアンネのじゃない、おじいさんの鍛冶場小屋(かじばごや)だい」
 クマオは、不満そうに教えてくれた。
──少将の実験室か。
 戸をくぐった仲之助は、目をみはった。
 小屋、といっても広い。建物の中は奥の半分ほど、地面が掘り下げられており、天井が高く感じる。
 鍛冶場小屋というだけあって、金属を溶かす()が二基。壁一面に(たな)が作られ、さまざまな工具や機械がところ(せま)しと並べられている。
 一角には薬品棚があり、変色したラベルに流麗(りゅうれい)な筆記体が見える。薬品名が書き込まれているようだ。
 感心してあたりを見渡していた仲之助の靴先(くつさき)が、こつんと木箱を()った。目を落とすと、達筆(たっぴつ)墨書(ぼくしょ)で「(ほう) 試験火薬参號(さんごう)」とある。仲之助は飛びのいた。
「ここで何を……?」
「こいつを、修理(なお)してるんでぇ」
 庄太郎が、鼠色(ねずみいろ)のシートを取り払う。
 仲之助の胸のあたりまである、大きな回転輪。
 機関車の模型のような機構部の真ん中に、(にぶ)黄金色(こがねいろ)に輝く千成(せんな)瓢箪(びょうたん)のようなパーツが突き出している。
「アクロイド式ってんだ。うまくいきゃ、こんなオンボロでも結構な馬力が出る」
 アンは、鋼鉄の管のようなものを庄太郎に見せた。
「……中が、腐食している」
「おっと、やっぱりか。こりゃ交換だ」
 うちの工場(こうば)でどうにかなるか……と庄太郎は部品を(にら)んで考え込む。
 仲之助は、目を輝かせて、鈍く光るギヤやパイプに見入った。
「お、兵隊さんもわかるか、こいつのよさ(・・)が」
 庄太郎が、仲之助の様子に気づいて言う。
「ご隠居(いんきょ)が、砲兵工廠で(ほこり)をかぶってたこいつを、師匠のために引っ張り出してきてくだすったのよ。元は幕府が買い付けた舶来品(はくらいひん)だが、ぶっ壊れて、うっちゃっておかれたらしいぜ」
 もったいねえじゃねえか、なあ、と庄太郎は仲之助の肩をバンバン叩く。
「でも、アン嬢は一体、これをどうしようっていうんです?」
 仲之助が聞くと、アンがぽつりと言った。
「電気を、作る」
「電気?」
「ここでは、電気が夜しかこない」
 それはそうだ。電気は電灯をつけるためのもので、家庭用の契約では、夕方から深夜までか、長くて翌朝までしか供給されない。
「それに、すごく高い(・・・・・)
 アンは、いかにも不満そうだ。
 たしかに、翌朝までの契約をすると電気代は、月二円はするだろう。砲兵工廠の工員たちの給金が一日四十銭(よんじゅっせん)といったところだから、四、五日分の賃金が飛んでしまう。
──だが、昼間に、電気で何を?
 仲之助が考え込んでいると、庄太郎が待ちきれないように声を上げた。
「そいじゃ師匠、今度はこっちの図面を見てくれよ」
 と棚に置いた頭陀袋(ずだぶくろ)から丸めた紙を取り出すと、机の上のガラクタを無遠慮に押しのけて、図面を広げた。
「……ずいぶん大きい」
「そうさ、こいつは船に積むんだ」
 仲之助も図面を(のぞ)()む。
 全体的に目の前にあるアクロイド式と似ている──ように見える。
「これも、アクロイド式ですか」
「てやんでぇ、馬鹿いっちゃいけねぇ」
 庄太郎は()頓狂(とんきょう)な声を出した。そして、床に置かれていた如雨露(じょうろ)のようなものを手に取ると、カチリ、と音を鳴らす。器具の先から、青い炎を勢いよく吹き出した。
「いいかあ、アクロイドってのは、こう、外から火を入れてやる必要があるのよ」
 火を吹く先端を振りまわしながら、庄太郎は熱弁を振るう。
「だが、こいつぁ別もんだ。こう──」
 スコン、と火を吐く着火器(トーチ)を机に置く。
「空気を圧縮する。そこに燃料を吹き付けりゃあ、熱がなくても火がつく。圧縮着火。それが、ディーゼル氏式のおもしれぇところよ」
「あ、あの、池さん、熱いんですが……」
 仲之助が身をよじって火を避ける。
 アンは、そんな仲之助たちには構わず、いつの間にか出してきた角砂糖をポリと(かじ)りながら図面を(なが)めている。
 だが、ふいに首をかしげて、一角をトン、と指した。
「これじゃ、だめ、かも」
 庄太郎が、なんだってぇ、と着火器を仲之助に押し付ける。
「師匠、どこだ」
「これ……排気弁が先に閉じる」
 おおお、と庄太郎は頭を()きむしる。そして、ぶつぶつと呪文のような言葉を()きながら、図面の余白に計算を書き込み始めた。
「あの人はいつも、あんな感じかい?」
 ようやく炎を消した仲之助は、長椅子に腰を下ろして蒸気船のおもちゃをいじっているクマオに耳打ちする。
 クマオは、小さく息を()いて答える。
「あんな感じだね」
 アンが、悩んでいる庄太郎を置いて、仲之助の前に立った。
「……それで?」
 今日初めて、アンが仲之助をまともに見た気がする。
「ああ……そうそう」
 すっかり、本来の用事を忘れていた。仲之助は、例のアルミニウムの(たる)──いや、(おけ)(づく)りの様子を報告した。
 作業は、思いがけないことで難航しそうだった。
肝心(かんじん)のお(はつ)ちゃんが、どうも心ここにあらず、なんだ──」

 初音(はつね)の一家が住む長屋は、牛込(うしごめ)神楽坂(かぐらざか)の南、若宮町(わかみやちょう)にある。
 三軒隣に島田(しまだ)という夫婦ものが入居していて、その女房マツは房州(ぼうしゅう)の出身だった。
 日焼けした顔でニカッと笑い、性格は竹を割ったようで、長坂(ながさか)()でも士族平民の(へだ)てなく、年来(ねんらい)(ちか)しく付き合っていた。
 半年ほど前、不幸にして夫の島田何某(なにがし)脚気(かっけ)で世を去った。だが、マツは相変わらずの元気さで、親類から送られてきた野菜や果物を近所に分けてくれたりしていた。

 そんなマツが、警察にしょっぴかれた。
 三歳になった、息子の忠太(ちゅうた)を惨殺したというのである。

「おマツさんが忠ぼうを殺すなんて、考えられません」
 初音は、仲之助にそう訴えた。

 凶事(きょうじ)が起こったのは、一週間ほど前だ。
 昌平坂(しょうへいざか)をくだった湯島(ゆしま)のお濠端(ほりばた)に、竹問屋の荷揚(にあ)()がある。
 底冷えのする早朝、その河岸(かし)で番をしていた親父(おやじ)が、奇妙なものを水面(みなも)に見つけた。
 ここ数日、雨も降らぬ晴天で、神田川(かんだがわ)の流れは(よど)んでいる。
 その(ゆる)い流れに、真っ赤な小鬼(こおに)が──その親父は、そう証言した──浮かんでいた。
 身につけているのは、ふんどし一枚。
 顔を下にして浮いた、その背は真っ赤だ。
 舟を出して、竹竿(たけざお)でおそるおそる引き寄せる。
 はずみで、真っ赤な子供の身体が、くるりと天を向いた。
 親父は、ひえっと声をあげて、舟底にへたり込んだ。
 子供の顔は、()(ただ)れた傷跡のように(くず)れていた。顔面からは(くちびる)が失われ、苦悶(くもん)する地獄の餓鬼(がき)のように、乳白色の歯が()()しになっていた──。

「……<赤鬼(あかおに)事件>ね」
「げっ」
 机にかじりついて、仲之助の話に聞き入っていたクマオが飛び上がった。
 背後で突然、声がしたからだ。
 仲之助も驚いて、小屋の戸口を振り返る。
 西洋人形のように、きれいに巻かれた髪。桃色のワンピースを着た女の子が、壁にもたれて話を聞いていた。
「おノブ、おどかすな!」
 クマオが(わめ)くが、女の子は鼻でわらう。
「お兄さまは、犬が鳴いても悲鳴をあげるじゃないの」
──兄妹なのか。
 仲之助が立ち上がると、女の子はごきげんよう、と淑女(しゅくじょ)らしく挨拶をする。
「事件のことを知っているのですか」
「ええ、もちろん。学校の前で子供の遺体が上がったといって、警察の方々がずいぶん大騒ぎをなさっていましたもの」
 学校──。
 たしかに、湯島の川岸は、御茶ノ水(おちゃのみず)高等師範(こうとうしはん)のすぐ目の前だ。
 クマオとノブという、この兄妹は、高師附属(こうしふぞく)の小学校に通っていると見えた。

 遺体の異様さ、そして場所柄(ばしょがら)もあったのだろう。すぐに警察が動き出し、現場には東京地方裁判所の予審判事(よしんはんじ)まで呼ばれた。
 予審判事は、事件が本裁判で審理すべき事案かを判断する役目を負っている。
 そして、顔の崩れた子供の遺体を見て、西洋かぶれの予審判事はこんなことを言ったのだ。
「諸君。我輩(わがはい)はちょうど、フランスの刑事裁判の事例集を読んでいたのだが──欧州では、どうも親が望まぬ子供に、硫酸を飲ませて殺害するということが横行(おうこう)しているらしい。
 見れば、この子供は、身体はそれほど腐敗しているとも思えないが、口の(まわ)りは無惨に損傷している。身体の色が奇妙なことといい、どうもこれは、その(しゅ)の薬物劇物による殺人ではないだろうか」
 殺人──それも、子供に酸を飲ませるという、西洋伝来の(むご)い犯罪だとすれば、これは一大事(いちだいじ)だ。ただちに周辺の警察署に、知らせが飛んだ。
 すると、牛込署から、三歳の男児が行方(ゆくえ)()れずだという訴えが五日前に出ていると、捜査陣に連絡が入った。

 それが、神楽坂若宮町の島田マツの長男、忠太であった。
 ただちにマツが面通(めんとお)しに呼ばれた。無惨な亡骸(なきがら)を前にして、マツは半狂乱となった。
 だが、警察の目は冷ややかだった。マツを連れ出したのと入れ替わりに、巡査が島田家を捜索した。その結果、押し入れの奥の行李(こうり)から、各種薬品の入った木箱と、血のような染みのついた男物の着物が発見されたのだ。
 マツは、それは先年亡くなった夫の持ち物で、自分にはなんだかわからないと言った。だが、警察は信じない。
 故人である島田氏は、やはり房州の農家の出で、東京に来てからは下谷(したや)あたりの商家で雑役夫(ぞうえきふ)のようなことをする(かたわ)ら、農業改良運動というようなことに熱弁を振るっていたという。薬品も、そうした経緯で入手したものだろうが、警察の関心はそこにはない。
 空になった小瓶(こびん)のひとつに、「硫酸」の文字が見えるラベルがあった──。
 予審判事の見立て通りではないか。

 (あわ)れマツは一度の帰宅も許されず、留置場に入れられた。
 翌日からの聞き込みで、警察はさらにマツへの疑念を深めた。

 まずは、忠太失踪の届けが出た経緯である。
 忠太が夜になっても戻らないと、マツから聞いたのは、隣家の女房だ。だがこの証人によると、マツの様子はどうもおかしかった。探しに出ようとするでもなく考え込むばかりで、(しび)れを切らした証人は、マツを引っ張るように駐在所を訪れたのだ。
 マツは、何を躊躇(ためら)ったのか?
 何か(うし)(ぐら)いことがあったに相違(そうい)ない。

 さらに、別の証言。
 近頃、時折、長屋を訪ねてくる男があった。
 男が来ると、マツは忠太を外に遊びに出し、戸を閉め切って過ごす──。
 もちろん、亭主の死んだあとのこととて、何も不義密通ではない。だが、口さがない近所の住民の中には、こんなことを言うものがあった。

──おマツさん、また子ができたと言っていたが、ありゃ、島田さんの子なのか、間男(まおとこ)の子なのか、わかりゃしないねえ。
──いつだか、男とおマツさんが口論していただろう、ありゃきっと、男が忠ぼうを引き取るのをいやがって、()めたのさ。
──男を取るか、子供を取るかで、()()したんだろうねえ。

「そんなのは出鱈目(でたらめ)です!」
 と、初音は仲之助に怒りをあらわにして()(つの)った。
「赤ん坊が生まれるまでは十月十日(とつきとおか)と言うじゃないですか。島田さんが亡くなって、まだ半年。何もその男が赤ちゃんの父親とは限らないでしょう」

──私は、本当のことが知りたいんです!

「……と、まあ、お初ちゃんはそんな調子というわけさ」
 仲之助は肩をすくめた。
 ふむ……とアンは(あご)に手を当てて考え込む。
「真相がわかれば、初音さんは作業に集中できる、と」
「まあ、そうだろうね」
「……仕方ない」
 アンは紙片に何やら書き付けをすると、高田(たかだ)のお(たな)に、といって庄太郎に手渡した。
 そして、仲之助に向かって言った。
「明日も、付き合ってもらえますか」

 翌朝、校長の許可を得て、仲之助は小石川砲兵工廠の門前に立っていた。
 砲兵工科学校の外出は、成績に応じて半日、一日と認められる時間が異なる。それなのに、少将一家の御用と言ったら、すぐに丸一日の許可が出た。
──いったい、どうなってるんだ。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと水道橋のほうを眺めていると、子供たちが駆けてきた。クマオとノブの兄妹、そしてアンである。
 兄妹は「小学生」という言葉がぴったりの、かわいらしい袴姿(はかますがた)。カバンを(たすき)()けにしている。
 アンは相変わらずの服装で、手には(とう)で編んだバスケットを持っている。
「やあ、みんな揃って行くのかい」
 仲之助が言うと、クマオがふん、と鼻を鳴らした。
「僕らは学校。兵隊さんとアンの逢引(あいび)きを冷やかしに回り道しただけさ」
「あ、逢引きとは……」
 仲之助がうろたえると、ノブがふふふと笑う。
「ずいぶんおマセな嫉妬(しっと)ぶりですこと」
「おマセとはなんだ! 僕は兄さんだぞ」
「あら、さっきも犬に吠えられて、散々逃げ回っていらしたくせに」
 なにぉおとクマオが赤くなって怒る。

 晴天。
 神田川沿いに万世橋(まんせいばし)方向に向い、順天堂(じゅんてんどう)病院を過ぎる。
 東京高等師範の前で兄妹とは別れた。
 高師の真ん前に、御茶ノ水橋がかかる。路面が(ひのき)張りの美しい鉄橋だ。
 風呂敷(ふろしき)(づつみ)を抱えて登校してきた女学生たちが、物珍しげにこちらをチラチラと見ている。
 昌平坂を下って、遺体発見現場に着いた。
 川向かいの崖の上に、ロシア正教の大聖堂、ニコライ堂の尖塔(せんとう)が仰ぎ見えた。
風景(ふうけい)絶色(ぜっしょく)にして、()(しょう)赤壁(せきへき)(しょう)す──。まさに東京の絶景だね」
 仲之助はそんな言葉を口にしたが、アンは聞いているふうでもない。
 岸に竿指(さおさ)して小舟を泊めている船頭(せんどう)に、
「ここから、川上に行けますか」
 とアンが問うと、ちょうど牛込(うしごめ)揚場町(あげばちょう)河岸(かし)まで戻るという。
 鉢巻(はちまき)を巻いた船頭は、仲之助とアンとを無遠慮に見ると、何を思ったのか、
「朝っぱらから、いいご身分だねえ」
 と(つぶや)いた。
──どいつもこいつも。
 仲之助は、にわかに頭痛がしてきたように思った。

 小舟に揺られる。
 神田川の南岸は、水面近くまで枝を垂らす、鬱蒼(うっそう)とした木々に埋め尽くされた崖が続く。
 行き交う船は少なくないが、夜ともなれば、あたりは真っ暗だ。
 子供が泣こうが叫ぼうが、まず人目につくことはないだろう。
 水道橋の手前で、市中に上水を引く万年筧(まんねんかけい)をくぐる。
 砲兵工廠の中を抜けてくる小石川と合流。
 このあたりから、少し岸辺が開けてくる。
 南に三崎河岸(みさきがし)。北には陸軍が利用する市兵衛河岸(いちべえがし)がある。
 アンは、ときおり、バスケットから小さな角砂糖を出しては、口に放り込む。
 小石川橋。
 甲武線(こうぶせん)の起点となる飯田町(いいだまち)駅が南にできて、(つつみ)の向こうはずいぶん(にぎ)やかだ。
 飯田橋の手前に、江戸川(えどがわ)との分岐点がある。お堀沿いに、さらに(さかのぼ)れば江戸の頃から使われてきた牛込揚場町の神楽河岸(かぐらがし)だ。
 仲之助が船頭に船賃を払っているうちに、アンは桟橋(さんばし)の人混みに歩き出してしまう。バスケットを抱えた西洋風の少女は、あまりにも場違いで、人々が振り返る。
 河岸には昔ながらの町家もあるが、川面(かわも)近くの地階が石造りで、荷を引き込めるように半地下になった建物も見える。煉瓦を積んだ真新しい物置小屋もあった。
 材木屋が()げる杉や松の香り、船頭たちが(だん)を取る炭火の(にお)いが薄く(ただよ)っている。
 西の突き当たりに(そび)える洋館は、数年前にできた警視庁牛込署だろう。おマツが留置されている場所だ。
──このあたりの景色も、どんどん変わっているんだな。
 仲之助が、その屋根を見上げていると、いつの間にかアンが(かたわ)らに戻っていた。
「この人たちは、どこから……?」
 アンが仲之助に訊いた。
 河岸では他にも、米、雑貨、魚など、さまざまな荷が積み下され、野菜の籠を背負った行商人なども行き来している。神楽坂あたりの商家で売られるのだろう。
「どうだろう。柳橋(やなぎばし)あたりから神田川に入った舟が、ここまで回ってくるんじゃないかな。ああいう葉物(はもの)なんか、近頃は、大川(おおかわ)の向こうからここまで売りに来る人もいるらしいよ」
「おおかわ」
「えっと、隅田川(すみだがわ)と言えばわかるかな」
「隅田川の向こう……すみだ区」
「いや、それを言うなら本所(ほんじょ)区か深川(ふかがわ)区。すみだ区なんてないよ」
 アンは、むむ、と押し黙る。
 妙なことを言うものだ。
 仲之助は続けた。
「でも、言いたかったのはもっと東、つまり千葉県だね。佐倉(さくら)方面からは両国(りょうごく)まで総武鉄道(そうぶてつどう)が通っている。清国との戦争のときは、出征する兵士たちが汽車で移動したんだ。他にも、我孫子(あびこ)松戸(まつど)からは千住(せんじゅ)あたりに土浦線(つちうらせん)で出られるようになった。そこからは、舟で上ってくるんじゃないかな」
 実際、習志野(ならしの)の練兵場まで出向くのに、両国まで舟で出て鉄道を使うこともある。そもそも、この水運の()が、小石川に砲兵工廠ができた理由なのだ。
 維新ののち、水戸藩上屋敷(かみやしき)は後楽園の見事な庭園もあることから、皇室の離宮にという計画があったと聞く。
 だが、幕末に湯島にあった大砲(たいほう)鋳造所(ちゅうぞうしょ)、その後身(こうしん)である関口(せきぐち)製造所に近い土地柄でもあり、また小石川や神田上水の水力を動力にできること、さらには市兵衛河岸から兵器の搬出(はんしゅつ)が可能なことを軍部が強く主張して、砲兵工廠がこの地に置かれることになった。
「でも、甲武鉄道もまた延伸されるというし、鉄道だけで日本中に移動できる日も近いかもしれないね」
 仲之助は、そう付け加えた。

 牛込署の前を通過して、若宮町まで歩く。
 神楽坂の一帯は、夜は芸者衆(げいしゃしゅう)が行き交う(はな)やかな(まち)でもある。
 どこかから、三味線(しゃみせん)をかき鳴らす音が()()こえている。
 初音の住む長屋は、若宮八幡(はちまん)と小学校の角を曲がって、しばらく入ったところにあった。
 初音の母キヨは、息を切らしたアンの姿を見て目を丸くした。
「まあ、それでは、おマツさんのことで」
 白湯(さゆ)(すす)めながら、キヨが言う。
「陸軍でも、お調べをなさるのですか」
 仲之助も、何と言ってよいかわからない。
「はあ……まあ、現場が現場だけに、特務といいますか……」
「おマツさんの、亡くなったご主人というのは、どんな方でしたか」
 アンが訊く。
「島田さんですか。真面目な人で、仕事一筋というお方だったと思います」
「仕事というのは」
「下谷あたりの、たしか小澤さんというお宅で奉公していると聞きましたけれど」
「おマツさんは、見つかった薬品は夫のものだと供述したそうですね。島田さんは、その小澤という家で、どんな仕事をされていたんでしょう」
「さあ、詳しいことは……ただ、縁先(えんさき)で変わった(なえ)を育てたりして、何か農業の関係で、勉強会にお出になったりしていたようです。おマツさんは、しょっちゅう目を輝かせて言っていましたよ──」
──あたしにゃ学がないけど、あの人はちがうんだ。難しい西洋の本もすらすら読みこなしちまうんだよ。
 仲之助は、実のところ吃驚(びっくり)していた。
 普段は、ほとんど単語しか話さないアンが、これほど流暢(りゅうちょう)に他人と会話して情報を聞き出すとは。
「ははうえ、ははうえ!」
 そのとき、戸口から坊主頭(ぼうずあたま)の男の子が駆け込んできた。
市之助(いちのすけ)、どうしました」
「島田のカメ(・・)が赤ちゃんを産むって。見にいっていい?」
「いいですか、とおっしゃい」
「見にいっても、いい、です、か」
「ええ、行ってらっしゃい」
 そこで市之助少年は、初めて客の姿を見た。
異人(いじん)さんだ!」
「こら、市之助。お客さまを指差すんじゃありません」
 キヨが(しか)りつけると、市之助はわあああと声を上げて飛び出していった。
「あいすみません、(さわ)がしくて」
「……島田のカメ、というのは、カメ(・・)ですか」
 アンが不思議そうに言う。
「ええ、カメです、おマツさんのところの。向かいのお宅で預かっていて」
「カメが、産卵するんですか」
「はあ、さんらん?」
「赤ちゃんを、産むと」
「ええ、もう臨月(りんげつ)でしたから」
「臨月──カメが?」
 まったく会話が()()わない。
 キヨは、救いを求めるような目で仲之助を見た。
 仲之助は、ああ、と気がついた。そして吹き出した。
「アン嬢、カメというのは、()ですよ」
「カメが、犬?」
 アンは目をぱちくりさせる。
「洋犬のことを、カメというんです」
 横浜あたりで、英国人が飼い犬に”Come on(カメン)”と言ったのを、誰が勘違いしたものか「カメ」が犬のことだと受け止めたらしい。開化の頃の笑い話だが、いまでも洋犬などを洒落(しゃれ)こんで、カメと呼ぶ人がいた。
 島田家では、それがそのまま犬の名前になったようだ。
「カメが、イヌ……」
 眉間(みけん)(しわ)を寄せてぶつくさ言っているアンをよそに、キヨは嘆息(たんそく)した。
「忠ぼうは、うちの市之助とも仲良くしていたのですけれど、本当に(ひど)い死に方をしてしまって。あんな、(のろ)いのような──」
 仲之助は訊いた。
「おマツさんのところに、男出入(おとこでい)りがあったという話ですが」
「ええ、見かけたことはあります」
「警察では、その男が忠太を嫌がるので、おマツさんが犯行に及んだと見ているようです。おマツさんは、その──そこまで、その男に()()んでいたんでしょうか」
「惚れ込む? いいえ……むしろ、おマツさんは迷惑がっているようでしたけれど」
「迷惑?」
「ええ。一月(ひとつき)ほど前だったか──」
 夕刻、帰宅したキヨが戸口に手をかけたときだった。
 ゴトゴト、ドン、と暴れるような音がして、おマツの家から男が転がり出てきた。
「冗談じゃない、帰っとくれよ!」
 おマツの声がして、男のものらしい背負籠(しょいご)が投げつけられる。
 それだけではない。芋、豆、(かぶ)……最後には()れた(うり)まで飛び出して、男の顔面に直撃した。
「……また、来る」
 と、男はぽつりと言うと、籠を拾って去っていった。
「二度と来ないどくれ!」
 おマツは戸口から身を乗り出して叫ぶ。
 キヨは、おそるおそるおマツに近づいた。
「おマツさん、大丈夫」
「あっ、キヨさん……悪いねえ、いやなところ見せちまって」
「いったい、どうしたの」
 おマツは、どこか悲しそうな目をして、言った。
「……死人(しびと)が、追いかけてくるんだよ」

死人(・・)が。そう言ったんですか」
 仲之助は(うな)った。
 どういう意味だ。
「狭いご近所ですから、そんな言葉もすぐに広まりますでしょう。それで、今度は忠ぼうのことがあって、おマツさんの家は呪われているとか、死んだ島田の亭主が(たた)ったとか、あることないこと言う人があって──」
 春先にも、人殺しがあったばかりですし、とキヨは言う。
 そうだった。たしか四月頃にも、あの場所で顔を滅多斬(めったぎ)りにされた死体が上がったといって、大きな騒ぎになった。高利貸(こうりが)しの女が、内縁の夫との夫婦喧嘩の(すえ)に殺されたのではなかったか。
「あれも、この近くの家で。ほんとうに──」
 いやな世の中になりましたわね、とキヨが言ったときだった。
「かあさま、かあさま!」
 と市之助が血相を変えて戻ってきた。先ほどとは、明らかに様子が違う。
「どうしたのです」
「カメが、かっ、カメが……」
「なんです、はっきりおっしゃい」
 市之助は、(おび)えきった顔で言った。
「みっ、緑の赤ちゃん(・・・・・・)を産んだ!」

 外に出てみると、すでに向かいの家には人垣ができていた。
 失礼、と仲之助は家に踏み込む。不安そうにヒソヒソと耳打ちをしていた人々は、突然やってきた兵隊と──銀髪の少女を見て、いっそうざわついた。
 裏庭の一角で、この家の主人らしい男が石の上に座り込んでいた。
 視線の先には、耳の垂れた、白い洋犬が横たわっている。
 その腹には、まだ毛も乾いていない、生まれたばかりの仔犬が四頭。
 他の三頭より、ひとまわり小さい一頭が問題の仔犬だと、すぐにわかった。
──本当に、緑だ。
 仲之助も、背筋が寒くなった。
 羊水に濡れたまま、プルプルと震えて、瞳も閉じたままなのは、他の仔犬と変わらない。しかし、それが全身、緑色なのだ。
 凶兆(・・)
 みな、そう思っているのは明らかだった。
「……今のうちに、打ち殺したほうがいいんじゃねえか」
 誰かが言うと、同意するような声があがった。
「うちの庭でか」
 この家の主人は、困ったような顔をしている。
 うちまで呪われるのは、ごめんだぜ──。
 そのとき、アンが、つ、と動いた。
 おい、あんた……? と戸惑(とまど)う主人を無視して、母犬カメの頭を幾度(いくど)()でると、緑色の仔犬を両手で(すく)い上げる。
 そのまま、縁側に置いたバスケットに手際よく仔犬を入れると、
「もらいます」
 と宣言して、(きびす)を返して出ていった。
 一同、呆気(あっけ)に取られる──仲之助も、しばし(ほう)けていたが、あわてて少女のあとを追いかけた。
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登場人物紹介

ドイツ名、アンネ・フーバー。フランス名、アンヌ・ユベール。

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