Fragment4
文字数 3,747文字
壁一面に飾られた、猿や──人間の頭蓋骨。
ガラスケースの中では、チンパンジーの全身骨格が、虚 ろな眼窩 で外の世界を眺 めている。
ランプではなく、あえて灯 された、無数の蝋燭 。
揺 らぐ影は、生命 をなくした骨たちの表情を変えてみせる。
──あなたたちも、観客のようね……。
ツェツィーリエは、そんなことを思いながら、展示室に置かれたティーテーブルで、お茶を飲んでいた。
首輪をつけた猿のアダムが──これは生きた赤毛猿だ──、集まった客たちの様子をうかがいながら、クッキーに手を伸ばす。
ツェツィーリエの絵画の師で、人類学者でもあるガブリエル・マックスの邸 だった。象の骨格やエジプトのミイラまで蒐集 する、このコレクションの主 でもある。
「……今度の<公開実験 >には、君は来ないほうがいいかもしれない」
マックスには、そう言われていた。
今宵、邸で開かれる<神智学 協会>主催の講演会には、マックスの信奉する神秘主義の大物がやってくる。
<知られざる大師 >と呼ばれる、その人物には、協会の創立者だった故ブラヴァツキー女史さえ、滅多に会うことはできなかったという。
「刺激の強い実験になるというし──ここだけの話、<知られざる大師>には敵も多いそうだ。命を狙う者もいるとか……」
そんな危 うい立場でありながら、この夜の公開実験には、あえて、神秘主義を疑う科学者や教会関係者、つまり反対派も多く招くのだという。
何が起こるかわからない。だが、好奇心が勝 った。
何十人いるのだろう、邸内はどこも客でいっぱいだ。だが、聞こえるのは少数の人々が語り合う、ひそひそ声だけ。よくある宴席のように、客人同士が声をかけあい、談笑するという雰囲気でもない。
それもそのはずだ。見知らぬ相手に話しかけても、それが神秘主義者なのか、懐疑主義者なのかわからない。誰しも、むやみに話題を振って、論争に巻き込まれたくはない。
ツェツィーリエはたわむれに、猿のアダムにクッキーを手渡した。
そのとき、低い銅鑼 の音が鳴った。
客たちが、主会場である庭に面した居間に目を向けた。
「お集まりのみなさま!」
ホストであるマックスではない。
ツェツィーリエの知らない、若い男が挨拶に立った。
「今宵 、ゲルマニア神智学協会会員であり、高名な芸術家、また人類学、博物学への造詣 も深い、この館 の主 、ガブリエル・マックス氏のご好意により、こうした素晴らしい機会をいただきました。まずはマックス氏に深く感謝を」
男が、道化 のような大袈裟 な身振りでマックスに会釈 をする。静かな拍手が起こった。
「ご承知の方も多いでしょう。神智学の理想は、この宇宙を支配する法則、真理の追求であります。
みなさまの中には、物質的な科学によって、真理への到達を目指しておられる方々も多い。また、ヨーロッパで古くから人々の精神的な支柱であった教会の教えを通じて、それを達成しようとする方々もおられる。
宣言しましょう! 我々は敵ではない。
我々は東洋に伝えられた智慧 に触れ、西洋と東洋の知識を結びつけることで、古代から人類が追い求めてきた宇宙と人間の秘密、<神聖な科学>を再発見することを目指しているのです」
誰とも名乗らぬ男は、どこか下品な笑みを浮かべながら、高尚な演説を続ける。
「今宵お目にかけるのは、我が主人、<知られざる大師>が解き明かした、真実の一端。我々がこの地上という<学びの学校>を旅立つと、やがて再び血肉を得て、この世に戻ってくる、輪廻転生 の証 です」
男は右手を掲 げ、観客の視線を誘導する。
いつの間にか、部屋の一遇 に、死神のようなローブに身を包んだ人物が佇 んでいた。顔は見えず、背は高くも低くもなく、男とも女ともわからない。
──あれが、<知られざる大師>……?
その人物は、ゆっくりと移動すると、客たちの前に置かれた椅子まで歩みを進めた。そして、ふいに身をかがめると、人形のようなものを抱えて、椅子に座らせた。
客たちの囁 き声で、会場がにわかに騒がしくなった。
──人間……?
人垣に遮 られて、そこに至るまで、ツェツィーリエには見えなかった。
椅子に乗せられた黒髪の少女は、痩せて小さく、人形のように身動きをしない。その大きな瞳は、死んだ魚のように白く濁 っている。ツェツィーリエは、異様な表情を見て、思わず口に手を当てた。
「みなさん!」
道化のような男が、声を張り上げる。
「我々は、転生を繰り返して、霊的成長を遂げ、この永遠の真実に近づくのです。古代の人々は、そのことを知っていた。エジプトの王ファラオ然 り! 不滅の魂は、時を経て再受肉し、次の学びへと向かうのです」
男は、ぴくりとも動かない少女に、うやうやしく跪 いてみせた。
「この少女をご覧ください! 東洋と西洋の血を受け継ぐ、あわれな境遇の少女を。
この娘は、みなさまのご家庭の子女のような教育を受けてはいません。しかし、彼女の精神には、この世では知り得ない<宇宙の叡智>が刷 り込 まれているのです!」
──東洋と西洋の血?
ツェツィーリエは、ふと寒気が襲うのを感じた。
「さあ、問うてみましょう! どなたかご質問は?」
いくつか、声が上がった。科学者たちだろうか、物理学、数学、生物学、医学……専門用語が飛び交う中に、「生物進化」という単語が聞こえた。
男は、よろしい、と立ち上がった。
いつの間にか男は、柄 の先端が三叉 に分かれた金色の鈴──チベットの法具のような──を取り出していた。
それを、チリン、と少女の耳元で鳴らした。
「答えたまえ。<生物進化>の本質とは?」
会場が静まりかえった。
……しんか。
ぽつり、と少女の口が動く。
「……しんか。チャールズ・ダーウィン。『種の起源』」
客の一部から失笑が漏れる。
宇宙の叡智どころか、文章にすらなっていない。
出てきたのは、誰もが知っている単語だけだ。
だが──
「……ダーウィンは、生物のおかれた環境に応じて、生存確率の高い特徴をもった個体の形質が次世代に伝えられやすいという適者生存の仕組みを唱 えた」
嘲 るような笑いが、戸惑いのざわつきに変わる。
「……だが、この説では、親の世代から子の世代に長所となる形質が伝達される原理が説明されていなかった。世代間の形質の伝達を担う遺伝子の存在は、すでにメンデルによって提唱されていたが、顧 みられず、後世の再発見を待つことになる」
客たちの視線が少女に注がれ、室内が静まり返る。
「……親から子に形質を伝える遺伝子が存在する一方で、同一の生物種の中にも、異なる形質を持つ個体が生まれる原理は説明できなかった。これに対し提案されたのが、遺伝の過程で遺伝子自体が変化する、突然変異である。後年 、X線をショウジョウバエに照射することで人為的に突然変異を起こすことができることが発見される。放射線の照射は、DNAに損傷を与え、遺伝子突然変異の要因となる」
いったい、何を──。
そんな呟きが会場から漏れた。
少女は口以外の筋肉を動かすことなく、死んだ目のまま語り続ける。
「……突然変異が進化の原動力であることは、『生物はより生存に適したものへと進化しようとする』という、社会進化論的な発想を否定する。すなわち、分子レベルでの突然変異のほとんどは表現型には影響せず、個体の生存には有利でも不利でもない。環境要因などによって偶然、受け継がれた中立的な突然変異は、集団の中に定着し、利得に無関係な遺伝的多様性の原因となり得る。つまり──生物進化は、進歩と等価 ではない」
どよめきが起こった。
──何を言っているの、この子は。
ツェツィーリエは、呆気 に取られた。
進化は進歩ではない?
生物はよりよい存在になるよう、進化している。適者生存。強いものが勝ち、次世代の人類となる──。
それが「科学に裏付けされた正義」。
ゆえに、植民地の現地人を使役 しても構わないのだとか、貧困者や病を得た者、ユダヤ教徒は、未来の人類のために駆逐すべきだと主張する人さえいる。
この神智学の会合でも、現在の人類の中で、もっとも悟りに近い霊的進化を遂げたのが、チベット仏教やヴェーダを説き、伝えてきた<アーリア人種 >であると信奉者たちに教えているのではなかったのか。
「いかにも! 生物進化ではなく、霊的な進化こそが人類を進歩させるのです! これぞ宇宙の叡智!」
道化のような男が、何食 わぬ顔で付け加える。
だが、会場には、まだ動揺が広がっていた。
「少し、いいかね」
客の中で、立ち上がって発言する者があった。白髪、肉付きのいい大きな顔に、ちょこんとしたメガネをかけている。
「我々の誰もが真実を知らない内容を語られても、彼女の知識とやらを量 ることはできまい。私からも質問をしたいのだが」
「いいでしょう! 何を質問されますか?」
「ふむ……では、問おう。食料品の冷凍倉庫では、いかにして空気を冷やすか?」
「なるほど、あなたは、あのリンデ教授ですな!」
リンデ──リンデ製氷機会社。その名前は、ツェツィーリエも聞いたことがあった。たしか、醸造所や食料品製造工場に大型の冷凍設備を作り、大成功した科学者だったはずだ。
教授の挑戦を受けた男は、ためらうこともなく、チリンと鈴を鳴らした──。
ガラスケースの中では、チンパンジーの全身骨格が、
ランプではなく、あえて
──あなたたちも、観客のようね……。
ツェツィーリエは、そんなことを思いながら、展示室に置かれたティーテーブルで、お茶を飲んでいた。
首輪をつけた猿のアダムが──これは生きた赤毛猿だ──、集まった客たちの様子をうかがいながら、クッキーに手を伸ばす。
ツェツィーリエの絵画の師で、人類学者でもあるガブリエル・マックスの
「……今度の<
マックスには、そう言われていた。
今宵、邸で開かれる<
<知られざる
「刺激の強い実験になるというし──ここだけの話、<知られざる大師>には敵も多いそうだ。命を狙う者もいるとか……」
そんな
何が起こるかわからない。だが、好奇心が
何十人いるのだろう、邸内はどこも客でいっぱいだ。だが、聞こえるのは少数の人々が語り合う、ひそひそ声だけ。よくある宴席のように、客人同士が声をかけあい、談笑するという雰囲気でもない。
それもそのはずだ。見知らぬ相手に話しかけても、それが神秘主義者なのか、懐疑主義者なのかわからない。誰しも、むやみに話題を振って、論争に巻き込まれたくはない。
ツェツィーリエはたわむれに、猿のアダムにクッキーを手渡した。
そのとき、低い
客たちが、主会場である庭に面した居間に目を向けた。
「お集まりのみなさま!」
ホストであるマックスではない。
ツェツィーリエの知らない、若い男が挨拶に立った。
「
男が、
「ご承知の方も多いでしょう。神智学の理想は、この宇宙を支配する法則、真理の追求であります。
みなさまの中には、物質的な科学によって、真理への到達を目指しておられる方々も多い。また、ヨーロッパで古くから人々の精神的な支柱であった教会の教えを通じて、それを達成しようとする方々もおられる。
宣言しましょう! 我々は敵ではない。
我々は東洋に伝えられた
誰とも名乗らぬ男は、どこか下品な笑みを浮かべながら、高尚な演説を続ける。
「今宵お目にかけるのは、我が主人、<知られざる大師>が解き明かした、真実の一端。我々がこの地上という<学びの学校>を旅立つと、やがて再び血肉を得て、この世に戻ってくる、
男は右手を
いつの間にか、部屋の
──あれが、<知られざる大師>……?
その人物は、ゆっくりと移動すると、客たちの前に置かれた椅子まで歩みを進めた。そして、ふいに身をかがめると、人形のようなものを抱えて、椅子に座らせた。
客たちの
──人間……?
人垣に
椅子に乗せられた黒髪の少女は、痩せて小さく、人形のように身動きをしない。その大きな瞳は、死んだ魚のように白く
「みなさん!」
道化のような男が、声を張り上げる。
「我々は、転生を繰り返して、霊的成長を遂げ、この永遠の真実に近づくのです。古代の人々は、そのことを知っていた。エジプトの王ファラオ
男は、ぴくりとも動かない少女に、うやうやしく
「この少女をご覧ください! 東洋と西洋の血を受け継ぐ、あわれな境遇の少女を。
この娘は、みなさまのご家庭の子女のような教育を受けてはいません。しかし、彼女の精神には、この世では知り得ない<宇宙の叡智>が
──東洋と西洋の血?
ツェツィーリエは、ふと寒気が襲うのを感じた。
「さあ、問うてみましょう! どなたかご質問は?」
いくつか、声が上がった。科学者たちだろうか、物理学、数学、生物学、医学……専門用語が飛び交う中に、「生物進化」という単語が聞こえた。
男は、よろしい、と立ち上がった。
いつの間にか男は、
それを、チリン、と少女の耳元で鳴らした。
「答えたまえ。<生物進化>の本質とは?」
会場が静まりかえった。
……しんか。
ぽつり、と少女の口が動く。
「……しんか。チャールズ・ダーウィン。『種の起源』」
客の一部から失笑が漏れる。
宇宙の叡智どころか、文章にすらなっていない。
出てきたのは、誰もが知っている単語だけだ。
だが──
「……ダーウィンは、生物のおかれた環境に応じて、生存確率の高い特徴をもった個体の形質が次世代に伝えられやすいという適者生存の仕組みを
「……だが、この説では、親の世代から子の世代に長所となる形質が伝達される原理が説明されていなかった。世代間の形質の伝達を担う遺伝子の存在は、すでにメンデルによって提唱されていたが、
客たちの視線が少女に注がれ、室内が静まり返る。
「……親から子に形質を伝える遺伝子が存在する一方で、同一の生物種の中にも、異なる形質を持つ個体が生まれる原理は説明できなかった。これに対し提案されたのが、遺伝の過程で遺伝子自体が変化する、突然変異である。
いったい、何を──。
そんな呟きが会場から漏れた。
少女は口以外の筋肉を動かすことなく、死んだ目のまま語り続ける。
「……突然変異が進化の原動力であることは、『生物はより生存に適したものへと進化しようとする』という、社会進化論的な発想を否定する。すなわち、分子レベルでの突然変異のほとんどは表現型には影響せず、個体の生存には有利でも不利でもない。環境要因などによって偶然、受け継がれた中立的な突然変異は、集団の中に定着し、利得に無関係な遺伝的多様性の原因となり得る。つまり──生物進化は、進歩と
どよめきが起こった。
──何を言っているの、この子は。
ツェツィーリエは、
進化は進歩ではない?
生物はよりよい存在になるよう、進化している。適者生存。強いものが勝ち、次世代の人類となる──。
それが「科学に裏付けされた正義」。
ゆえに、植民地の現地人を
この神智学の会合でも、現在の人類の中で、もっとも悟りに近い霊的進化を遂げたのが、チベット仏教やヴェーダを説き、伝えてきた<
「いかにも! 生物進化ではなく、霊的な進化こそが人類を進歩させるのです! これぞ宇宙の叡智!」
道化のような男が、
だが、会場には、まだ動揺が広がっていた。
「少し、いいかね」
客の中で、立ち上がって発言する者があった。白髪、肉付きのいい大きな顔に、ちょこんとしたメガネをかけている。
「我々の誰もが真実を知らない内容を語られても、彼女の知識とやらを
「いいでしょう! 何を質問されますか?」
「ふむ……では、問おう。食料品の冷凍倉庫では、いかにして空気を冷やすか?」
「なるほど、あなたは、あのリンデ教授ですな!」
リンデ──リンデ製氷機会社。その名前は、ツェツィーリエも聞いたことがあった。たしか、醸造所や食料品製造工場に大型の冷凍設備を作り、大成功した科学者だったはずだ。
教授の挑戦を受けた男は、ためらうこともなく、チリンと鈴を鳴らした──。