第1話

文字数 1,680文字

5月10日、病室に入ると窓際のベッドにおじいちゃんは寝かされていた。電動の背もたれにゆっくり起こされると、青い顔をこちらに向けた。そして弱々しく、歪んだ微笑を口元に浮かべた。たぶん看護婦さんによるのだろう、ヒゲだらけだった顔がきれいに剃り上げられている。なんとなく、それが寂しかったのを覚えている。
サイドテーブルの花瓶には、ノコギリソウの花が飾られていた。細い切れ込みの入った葉と、小さな赤い花弁がモザイク画みたいに、ぼやけた輪郭を形づくっている。
「やあ」
僕は低く挙げた手を振り挨拶をした。おじいちゃんは小さく頷くと、掠れた声で、僕と二人にしてくれとお母さんに言った。「わたるに話があるんじゃ」

看護婦さんとお母さんが病室から出ていくと、おじいちゃんはベッドの隅に立てかけてある封筒を指差した。
「あれをお前にやる。大したもんじゃないが」
僕は問いかえす。
「何が入っているの」
おじいちゃんは少し困ったように考えてから答えた。
「見れば、わかる。見れば」
これがおじいちゃんとの最後の会話だ。
それからすぐに、おじいちゃんは息を引き取った。
僕は特に悲しいとは思わなかったけれど、自然と涙は流れた。
ふと天井を見上げると、蛍光灯の周りを小さなハエが飛び回っていた。ハエは音を立てて何度も蛍光灯に衝突していた。
実は蛍光灯はものすごい速さで点滅していて、ハエにはそれが認識できるらしい。ちなみに点滅の早さは西日本だと1秒間に120回、東日本だと100回だそうだ。

さて、僕は病室から帰ると、夕暮れの薄暗い自室で、おじいちゃんにもらった封筒を開けた。中には100円ショップで売ってるような、薄っぺらな赤い鬼のお面が一枚入っていた。裏返したり細部を確認したりしたけれど、特に変わったところはない。死んだ人の形見にしては、あまりに粗末な代物だと思った。おじいちゃんの意図はよく分かららないけれど、とりあえず、そのお面を顔につけてみた。
「ひぃ」
反射的にお面を外した。
お面の目の2つの穴から覗くと、視界一面が小さな目玉に埋めつくされていたのだ。
恐る恐るもう一度着けて、落ち着いて辺りを見回すと、僕の部屋はおびただしい数の目玉が象っているのが分かった。机も椅子もベッドも写真立ても、全部目玉の集まりがそれらの輪郭を埋め尽くしていた。そして目玉は全て僕を見ていた。
僕が動くと部屋中の目玉が僕のいる向きに回転する。ティッシュペーパーを丸めてゴミ箱に投げてみると、目玉はそれを一瞬追ってまた僕を見た。どうやら動くものに反応し、文字通り目で追うらしい。
外に出てみると、地面も木も水も建物も人も犬も猫も、全てたくさんの目玉で出来ていた。ただの空間にも、ところどころ目玉が浮いている。
これは何だろうか。おじいちゃんは「見ればわかる」と言っていたが、僕にはさっぱり分からなかった。

後日いろいろ試して分かったことだが、この目玉には触ることはできない。お面をしていても、物体の表面を手でなぞることができるだけで、目玉に触ることはできない。また、空間に漂っている目玉には触れようとすると、手が目玉を通り過ぎてしまう。
他に分かったことは、この目玉には感情のようなものがあるらしいということだ。例えばハサミで紙を切ると、なんとなくハサミの目玉は嬉しそうだ。少し上方を向き左右にリズミカルに動く。逆に切られる紙の方の目玉は少し悲しそうにする。下方を向きおろおろと、行ったり来たりする。
また、鬼のお面は顔につけなくてもゴム紐を首にかけているだけで目玉が見えることが分かった。それからはゴム紐を透明の釣り糸に変えて首にかけ、背中にお面を隠すことにした。


そういえばこれは、おじいちゃんが元気だった頃、おじいちゃんに聞いた話なのだけど、僕の先祖は鬼だったらしい。その鬼だった先祖は昔は舌(ゼツ)という苗字だったそうだ。だが、時代が下って、舌という苗字は卑しい身分として扱われるようになり、いつしか祖先は「瀬津」と名乗るようになったのだとか。だから僕の家族の苗字は瀬津という。それがこの鬼のお面と関係しているかどうかは分からないが。

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