第1話

文字数 3,054文字

海が見える書斎は私のお気に入りの場所で
窓に向かって机を置いたのも、ふと息をついた時に海が見えると
私は、生きているんだと思うことができる。

ここに住んで、もう3ヶ月がたつ。

東京から、この街に引っ越すと言った時、母はいい顔をしなかった。
むしろ、強く引き留めた。

「そんなところに行ってどうするの。一人で」

それもそうだ。40近い娘が、結婚もしないで、一人で知らない街に
引っ越すというのだ。
私はというと、そんな言葉も聞かず、心に決めていた。

「どうしてなの」

母は、全く理解出来ない様子だった。
今まで聞き分けの良かった娘が、初めて母の意にそぐわない事をするのだ。

どうしてなの。その言葉を彼女は繰り返した。
理由は十に決まっていた。
どうしても、独りになりたかった。
独りにならなければいけなかったのだ。

しばらく推し問答は続いたが、物静かな父が、「玲の人生だから」と口を開くと
それ以上母は引き止めることはしなかった。

生暖かい春の風が、窓からゆっくりと入ってくる。
潮の香り。少し高台にある、この家は中年夫婦の大家さんが管理している。

街の外れで、イタリアンレストランを営む島田さん夫婦は、高齢のお母さんの面倒を見るために
高台のこの家から、市内の病院が近い場所に移ることになったそうだ。

「思い出がたくさんあるから、うるに売れなくてね」

少し古びた洋風のこの家は、イタリアの田舎をイメージしたという。
島中さんの奥さんは、昔イタリアに住んでいたのだと言った。

「あの頃が懐かしくて、主人に頼んで内装を決めたの。」

そういうと奥さんは、初対面の私に住んでいたトスカーナ地方の家庭料理を作ってくれた。

「ここの人たちは優しいわ。どんな人でも受け入れてくれるそんな風習があるの。
だから、ここが気に入ったら、是非」

そう言って、少しにがめの赤ワインを勧めてくれた。

私がなぜ、一人でここに住むのか、何故この土地なのか
そういった事を一切聞かない二人にどんな人でも受け入れる風趣があるのも納得できた。

赤ワインを一口飲みながら、海風がかおるこの家に死ぬまで住もうと思った。


私は物書きをしているので、会社にいく事もない。
編集者には、書いたものをメールでおくればいいし、必要ならオンラインMTGもできる。

連載は2個抱えていて、今度3個めが決まる予定でいる。
順調とは言えないが、会社に勤めていた時のように
自分の心を削ってまで、形のないものと戦っていたあの頃に比べれば
息ができるようになった。
息苦しい人間関係、社内政治、忖度、
どれも、私の人生に不要なものだったのに気づくまで随分と時間がかかったけど
今私はここにいる。


午前中に、連載を2つ少しずつだが、描き終えるようにしている。
一日中、仕事をしていることが性に合わないのだ。
早起きはあまり得意じゃないけれど、一日を長く感じる事ができるので
6時には起きるようにしている。
東京では考えられないような生活のおかげで、体の調子がいい。
毎日、終電近くまで働いていたあの頃は毎日に絶望していた。
朝起きて、満員電車に揺られて、上司にごますって
無意味な資料をたくさん作る。出世のために自分が望んでいないことを
笑顔で乗り切って、会社が望むような形にはまっていく。
身も心もボロボロになりながら、どうして働いているのかもわからなくなってしまった日々。

そんな日々を思い出しながら、午後は海辺を散歩する。
私の連載は、日々の出来事と、海辺での暮らしを主にエッセイテイストで書いている。
もともと文章を書くのが好きだった。
小さい頃は、母が買ってくれた本だけでは物足らず、図書館に毎日入り浸っていた。
あまり友達も少なかったせいか、読んだ本の数は今でも思い出せない。
昔を振り返りながら歩くと、不思議と次のアイディアが浮かんでくる。
私にとって、歩くとはインスピレーションを生み出すツールなのかもしれない。

散歩がてら、通りの魚屋さんでいつも夕飯の魚を買うようにしている。
魚屋のご主人は、毎日のおすすめを包んでくれるので、とても助かる。
たまには肉も食べたほうがいいんじゃないの?と言ってくれるのが面白い。
折角海辺の街に引っ越したのだ。新鮮な魚を食べずにはいられないのといつも答える。

今日は、鱚がおすすめといい、1匹包んでくれた。
驚くほど安い値段なので、食費はあまりかからない。

野菜も、近所の人が定期的に持ってきてくれるので
ほぼ0円だ。
一人暮らしには多いかもしれないけど、、と前置きしながらも
山盛りの大根や白菜やトマトなどを玄関にどっさり置いていくれる。

島田さんの奥さんが言ってくれた、誰でも受け入れてくれる風習は、
今も残っていて、居心地よくここに入れる。

それと同時に悲しくもある。

私は一人になるためにここにきた。
誰とも関らず、誰とも仲良くせず。
たった一人になるためにここにきたのだ。
みんなの優しさが苦しい。
いつか、私はその優しさを手放さなければならなくなるから。

家に帰ると、猫のチャイが玄関にちょこんと座っていた。

「お待たせ」

私はチャイを抱きしめる。
チャイは茶色のムク毛の猫で、引っ越した時にペットショップで一目惚れした。
女の子なのに、暴れん坊で、寒いのが苦手でお腹が空くと
足元にきて、私をじっと見つめる癖がある。
ツンとすましているかと思えば、急に甘えたり、気まぐれな性格で
私とは正反対だ。

夜は、チャイとゆっくりすごす。
一日を振り返りながら、今日も無事生きれたことをお祝いするために
赤ワインを1杯だけ飲むようにしている。

うちにテレビがない。あるのは父親からもらった古いラジオだけで
起きている間はつけっぱなしにしている。
たまに流れる最近の曲にはついていけないけれど、子供の頃に流行った曲が
流れると、嬉しくなって口ずさんだりして、
何度も読んでいるお気に入りのミステリー小説の続きを読むのが日課だ。
アメリカの小説家が描いたこのミステリー小説は、長編で
飽き性の私には、気合を入れないと読めないと思っていた。
それでも、彼の言葉選びが好きで、とても勉強になるので
思い出すとそればかり読んでいる。
主人公は、ある大富豪の家の一人娘で、何不自由なく育てられたのにも
関らず、人生を退屈に思っていた。
そんなか、親友が謎の死を遂げる。
その死には、兄が関わっているかもしれないという話だ。

「僕はどうしても一人になりたかった。僕が悲しくなる前に。」

主人公の兄が、妹にかけるフレーズまで、差し掛かると私は
ぽたぽたと涙が出てしまう。

静かな、どこまでも静かな夜は、恐ろしい
怪物のような恐ろしい寂しさが押し寄せてくる。

そしていつもあの人を思い出す。

「僕はここのフレーズが好きなんだ」

よくそんな事を言っていた。ボロボロになった本のページをめくりながら
一番好きな本として紹介してくれた。

「この兄の気持ちがわかるんだ。僕には。」

そう言って、もうどうにもならないくらい、細くなった体をゆっくりと
お越し、ベットの横に座る私を抱きしめた。

「いいね。僕は、死ぬ時は一人でいくからね。僕が悲しくなる前に」

そう言って、ほとんど力が入らない腕に強く力を入れた。

私は、小説を閉じて、ベットにゆっくり潜り込む。

一人にしないで、確か私はあの時そう言った。
もう二度と一人にしないでと。

彼は、悲しそうに笑いながら自分勝手でごめんと呟いていた。

それ以上、もう言葉をいうつもりはないように、何度も。

遠い昔、私が東京と一緒に捨ててきた過去。

今夜は少し肌寒い。
明日の朝は、3つ目の連載の題材を決めなければいけない。
そう考えながら、眠りについた。
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登場人物紹介

稲葉 玲  

39歳 

東京から離れた田舎で、一軒家を借りてエッセイを書いている

猫のチャイと2人暮らし



米田 コウ

29歳

写真家

今井ゆうこ

39歳

玲の元同僚

米田勇

54歳

玲の死んだ恋人

島田 美久

56歳

コウの叔母

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