第2話

文字数 2,281文字

小さい頃、私は聞き分けのいい子だった。
母からよく頼まれごとをしても、消して断ったり嫌がったりしなかった。
反抗期というものもなかったし、それなりの成績もとっていた。
優秀ではなかったけど、親に迷惑を描けるような子ではなかったことは確かで
妹にもよく 「お姉ちゃんは、本当に聞き分けのいい子だよね」と言われていた。

ただ、私は幸せではなかった。
常に、顔色を伺いながら、その人の望んでいる私を演じていた。
誰かの失望している顔を見たくなかった。
私を否定してほしくなかった。

息苦しさを感じながらも、私はこういう生き方しか知らなかった。

あの人に会うまでは。

3つ目の連載の題材を編集者にメールしたとき、すぐに電話がかかってきた。

「本当にいいんですか?」

そう言って、止めようとするので、私は力強く大丈夫といった。
「これは、私の意思なの。もし上がNoというのならば、
この話は無かったことにしたい」

あまりにも強気な態度なので、渋々、納得したようだった。


多分、この連載が最後になるかもしれない。
そう思ったら、自分の思いの丈を描いてしまってもいいと思った。

昔の私なら考えられなかった。常に誰かの顔色を伺っていたから。

午前中の仕事を終えて、散歩の準備をしていると
インターホンがなった。

「ごめん忙しかった?」

2軒先に住む、山中さんが訪ねてきた。

「ちょうど、散歩に行こうかと思ってました。」

山中さんは、夫婦で農業をするために、都会からここに引っ越してきた。
よく野菜をもらうので、母から送られてきた東京のお菓子などをお裾分けしたりしている。
恰幅のいい、女性で東京では、美容師をしていたそうだ。
旦那さんが脱サラして、農業をしたいと言ったとき迷わずついてきたという。

「リンゴたくさんあってアップルバイ作ったの。
もしよかったら食べて」

甘い、とろける香りがする。朝ごはんを多めに食べたけど
この匂いには勝てそうもない。

「ありがとうございます。こんなにたくさん」
タッパには5切れのパイが入っていた。

「うち2人なのにいつも作りすぎちゃうのよね。」
山中さんは、器用な人でアップルパイの他に、フルーツタルトやジャムなども
よく作ってはお裾分けしてくれる。
同じ東京からの移住者がいることは嬉しいそうだ。
60も過ぎているのに、彼女から発せらるエナジーは、私には眩しく感じる。

「もしよかったら、コーヒー入れますんで」

折角もらったのに返せるものがなかったので、私はコーヒーを
ご馳走した。

「いいの?じゃあお邪魔しようかな」

山中さんは、玄関先にいるチャイを抱き上げながら言った。

人付き合いは、苦手なほうだったが
こういう優しさを与えられたとき、何か返せなければいけないと思ってしまう
性格のせいで、なかなか一人に慣れずにいる。

「ここの生活には慣れた?」
山中さんは、チャイを抱きしめながらそうきいた。
私はコーヒーミルを回しながら、そうですねとだけ答える。

「ここに来た時は、この暮しになれるかななんて思ってたけど
案外平気だったわ。東京では、12時間以上働いていたのに、
不思議ね。人って」

山中さんは、自分が経営していた美容院を手放し
旦那さんについてきたと言っていた。

人生で大きな決断だったと話していたのを思い出した。

「人生の中で大きな決断をしたのは3回ね。美容師になると決めたとき、旦那のプロポーズを受けたとき。それと全てを捨ててここにきたとき。」

「後悔はしなかったんですか。ここにくること。全てを捨ててまで。」

そういうと山中さんは、にっこり笑いながら

「しなかったわ。ずっと死ぬまでそばにいると誓ったから。」
そう言って、かっこつけちゃったわねと大きく笑った。


「東京にいるとき、毎日何の為に働いているかわからず、がむしゃらに働いていた気がするもちろん、従業員たちの人生を背負っているし、会社を潰すわけにはいかなかったから
そのために働いていると思っていたとおもう。でも、50も過ぎ過ぎた時にふと思ったの。
私の人生、このまま終わってしまうのかなって。
忙し過ぎて、夫との大切な時間まで犠牲にしている気がして。
残された時間は、そんなにないのに。そんな時に、旦那が農業をやりたいって言い出して。
彼がそんな事をやりたいだなんて、知らなかった。それぐらい、私は時間を無駄にしてたのね。だから、yesって答えたのよ。」

山中さんはそういうと自分の作ったアップルパイを頬張った。



「後悔してるの?ここにきたこと。」

そう聞かれて、私は首を振った。
後悔はしてなかった。自分で決めて、自分で選んだから。
ただ、随分遠くまできてしまった。振り返ることもせず。

「ここに来て、良かったなと思ってます。」

そう答えると、山中さんはそれ以上聞かず、ならいいのと答えた。

それから山中さんが、育てている野菜の事や、東京に住んでいる娘さんの話をしてくれた。
午後の散歩の時間が過ぎてしまったので、少しだけ昼寝をしようと思った。

人と長時間話すのは久しぶりなせいで、少し疲れてしまった。

まだ日の明るいうちから、ベットに横たわる。

後悔してるの?

その言葉を反芻する。

後悔なんてするはずがなかった。例えあの人が望んでいなくても。



あの人は、ずっとそばにいると誓った。
私のそばにいると。


「玲には生きていて欲しいんだ。」

そう言って、まるで幼い子供をあやすように
私の涙をゆっくり拭った。

「約束してくれるね。僕の分まで生きるって。」


結局私はその約束は守らずにここまできた。
だから、その日まで毎日を一生懸命生きることにした。
後悔はしていない。
そうしないことの方が、きっとずっと後悔する。

ずっとそばにいると誓ったから。

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登場人物紹介

稲葉 玲  

39歳 

東京から離れた田舎で、一軒家を借りてエッセイを書いている

猫のチャイと2人暮らし



米田 コウ

29歳

写真家

今井ゆうこ

39歳

玲の元同僚

米田勇

54歳

玲の死んだ恋人

島田 美久

56歳

コウの叔母

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