第3話

文字数 2,452文字

この年になって初めて大きい決断をした。
好きだった物書きの仕事を少しずつ形にしていったこと。
海が見える家に引っ越すこと。
茶色の毛の猫を飼うこと。
あの人のそばにいること。

その決断があってるかどうかはきっと私が死ぬ時にわかるだろう。
それまでは、毎日正しく生きていたい。
その日が来るまでは。


今日の海は荒れていた。前日の雨のせいで、少し濁って見える。
午後からの編集者との打ち合わせは、少し気が滅入るものだった。

「あまりにも、無謀すぎる。これで読者が喜ぶかどうかわからない」

自分の好きなことを書くために、物書きになったのに
ここまできて、誰かの顔色を伺って行かなければならないのかと
正直うんざりした。

「それだったらお断りします。」

そういうと、それじゃ困ると推し問答が続き、結局話は持ち越しになった。
例え持ち越したところで私の意思は変わらないのに、と思いながら
パソコンを閉じる。

こんな日は、午後の散歩をしても何も思い浮かばないので
早めに夕飯の準備をする。
あまり料理は得意ではないが、考え事をしたくないときは
思いっきり凝った料理を作るのが、一番だ。

とにかく、何かを刻んでると余計なことを考えなくてすむ。

いいアイディアだね。
あの人はよくそんなことを言った。

「何かに夢中になれることはいいことだよ。
僕は、小さい頃から悩むと貝殻を夢中で拾うんだ。
貝殻は色々な形があるからね。それが面白い。一つとして同じ形がないんだ。
人も同じだろう。一人一人違う。みんな違ってみんないい。」

病室で、生徒からもらったんだという、貝のかけらを眺めながら、
いつでも私を幸せにしてしまう横顔で笑った。


初めて会った時も、そうだった。

日頃の疲労が祟って、過労と診断された日、病院の待合室で出会った
分厚い本を読んでいるあの人の横顔を今も忘れることができない。

私は、クラクラする頭の中で、彼の横にゆっくり座った。
鞄から、読みかけの小説を取り出し、気を紛らわしていた私にゆっくりと話しかけた

「その本、面白いですよね。」

私は、びっくりしたが、あの人の笑顔を見た瞬間、とても安心したのを覚えている。



何度か、病院で顔をあわすうちに、あの人は自分のことを話すようになった。

海洋学者で大学で教鞭をとっていること。この病院は常連なこと。ミステリー小説が好きなこと。

「どうして海洋学者になったの?」

ビンテージショップで一目惚れしたという愛用の椅子に腰をかけたあの人は、その質問に
嬉しそうに答えた。


故郷が海辺の街で、いつも当たり前のようにあったからかな。
海って不思議だろう。どこまでも広く、そして果てしない。
とっても謎に満ちていて、それを一つずつ解いていく。それが面白いのかもしれないな」

彼の書斎には、海の写真で溢れていた。

少し古い、一軒家でたくさんの本と書類が積まれていた机には、
なんだか難しそうな文章が書かれていて、一日中机に向かって
いる時もあった。

私はその横顔を見るのが大好きだった。
見てるだけで幸せだった。

だからもう長くはないと聞かされた時、信じていなかったのかもしれない。
この幸せが、ずっと続くと思っていた。



ネギを切り終えたところで電話がなった。

「もしもし夜分遅くにごめんなさい。」

島中さんの奥さんからの電話だった。

「いえ、こんばんは。どうかされましたか。」

思いもよらない人からの電話だったので、少し驚いた。


「もうご飯食べてしまったかしら?今日雨だったからお客さんも来なくて早く店を閉めたの。
美味しいワインが手に入ったから、もし良かったら、食べにこない?」

一瞬戸惑ったが、今日はなんだか一人でいたくない
私は二つ返事をし、島田さんのレストランに向かった。
島田さんの奥さんは、着くやいなや、沢山の料理を作って待っていてくれた。

「今日主人が、街の会合なの。一人でこのワイン開けるのももったいないし、
だけど飲みたくて」

と言って、イタリア産の赤ワインを差し出してくれた。

「イタリアに住んでいる親戚からワインが届いたの。
酸味があるけど、深みがあって美味しいのよ。」

一口のむと、確かにほんのり酸味はあるけど、口当たりのいい赤ワインだ。

「急にごめんね、誘っちゃって。」

私は慌てて首を振った。確かに珍しかった。
たまにランチに行くぐらいで、あまり深く話したことはなかった。

「いえ、嬉しいです」

「今日、散歩してなかったでしょう。いつも店から見えるのよ。
だから、心配になっちゃって。」

そう言って、奥さんはチーズを切り分けた。

「今日は、色々あって。。」

そういうと、それ以上何も聞かないという感じで
笑顔で、そうとつぶやいた。

「いいのよ。まだ若いんだもの。色々あるわ。悩むことも苦しむことも。
そうやってみんな何かを乗り越えて生きていくんだもの」

人生は長いからと付け加えると、注いだ赤ワインを一口飲んだ。

「こんな雨の日はね、いつも赤ワインを飲むようにしてるの。
昔、と言ってもほんと小さい頃にイタリアに住んでた頃ね。
母が、よく雨が降る日は赤ワインを飲んでた。
イタリアのことわざで、 水は体に悪くて、ワインは人を歌わせるっていう言葉が
あるの。母は、よくワインを飲みながら歌っていたわ。
人生も同じよ。生きてれば嫌なことなんて山ほどあるから
そんな時は、少しだけ赤ワインを飲んで、歌って
それでまた明日を迎えるの。」

これも食べて、と切ったチーズとオリーブを差し出してくれた。

明るく、朗らかな人だと思った。
そして、とても優しい。

私の心を見透かしたかのように語りかける言葉は、まるであの人のようだ。

何かを乗り越えることができる人は、羨ましい。
私はあの人を失ってから、まるで何もかも乗り越えることを諦めてしまった。

それは簡単なことで、ただ、何もなかったようにすればいいだけ。
耳を塞いで、目を閉じて何事もなかったように。

あとは、あの人のそばにいるだけ。

ただそれだけを願って。

「雨止んだみたいね。」

くすんだ空を見上げて、隙間から見える星を見上げた。

「明日は晴れるといいわね。」

奥さんはそう言って、赤ワインをゆっくり飲んだ。
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登場人物紹介

稲葉 玲  

39歳 

東京から離れた田舎で、一軒家を借りてエッセイを書いている

猫のチャイと2人暮らし



米田 コウ

29歳

写真家

今井ゆうこ

39歳

玲の元同僚

米田勇

54歳

玲の死んだ恋人

島田 美久

56歳

コウの叔母

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