第4話 信長 VS 慎哉

文字数 4,501文字


(勝悟、お主の身体はもう少し鍛えた方が良い。今のままではいざというとき、わしも力を発揮できん)
 衝撃の飲み会を終えて部屋に戻ると、精神的疲労でぐったりしている慎哉に向けて、信長が放った第一声がこれだ。
(ちょっと待って。今は、何をする気にも考える気にもなれない。もう休みたいよ)

 もしかしたら知らなかった方が良かったかもしれない。仲が良さそうに見えた付属校出身の四人の間にも、歴然とした格差が存在し、そこで生じたフラストレーションが自分に牙を向いたのだと知ったとき、慎哉の人に対する嫌悪感は知る前よりも酷くなっていた。

(何を甘えたことを言っておる。わしの家中でも、醜い足の引っ張り合いは日常茶飯事だった。だからすぐにピンと来たのじゃ。秀吉や光秀は、あのような嫌がらせにはびくともしなかったぞ。うっ、光秀……)
 明智光秀の名を口にして、本能寺を思い出したのか信長が話を中断してくれた。

 確かにあのゲームには家中での人気といったマスクデータがあって、ゲーム当初は古参の柴田勝家や丹羽長秀は家中の協力が得やすく、新参の秀吉や光秀は苦戦するようにできている。
 秀吉や光秀がそれに耐えて活躍したのは、ゲーム中での話だ。
 生身の人間としては、現実を目のあたりにするとやはり堪えるし、気力を吸い取られてしまう。

(まあ、良い。人間関係に疲れたなら余計じゃ。そのままではお主の魂のストレスが、脳や身体に悪影響を与える。生霊になって、しばらく休んでおれ)
 言葉が終わった瞬間、慎哉は生霊に成って身体を失った。
 信長は体育用のジャージに着替え、ジョギングシューズを履いて夜の街に出て行った。

 美しい――慎哉は自分の身体が走る姿を見て、美しいフォームに素直に感動した。
 武力百五十は、運動能力に影響するのか、信長の魂が操る慎哉の身体は、マラソン選手のように躍動感に溢れた走りをしていた。まだ筋肉や心肺機能が追いついてないので、スピードこそ足りないが、走る姿だけ見たら世界記録でも出せそうな気がする。

 信長はそのまま四十分間走り続けた後、腕立て伏せなどの筋トレを行い、最後に入念にストレッチを行ってから帰宅した。
 汗で重くなったジャージを脱いで洗濯機に放り込み、そのままシャワーを浴びてから部屋着に着替えた。

 さすがにもう寝るのかと思ったら、そのままパソコンに向かい、昨夜と同じく現代についての知識を学習し始めた。まるでコピー機のように、びっしりと文字が詰まった画面を数秒見ただけで、すぐ次の画面に切り替えていく。
 知力二五五は伊達ではない。きっと読むというよりも、写真を取るように画面全体を記憶していくのだろう。

 この時点で信長の学習スピードに慎哉はついていけなくなり、生霊なのに意識が途切れ始めた。先ほどの美しいフォームを鑑賞したせいか、心に燻っていたモヤモヤが消えている。逆に幸せな気持ちに浸りながら、意識を無くした。

 目覚ましのベルで意識が戻ったとき、慎哉は身体に帰った状態でベッドの中にいた。
 起き上がって振り向くと、信長の怨霊はいたが何も言わない。もしかしたらさすがに魂が疲れて、昨夜の慎哉のように意識を無くしているのかもしれない。

 運動したせいか筋肉痛は残っているが、頭はすっきりして内臓の調子もいい。こころなしか血行もいいような気がする。
 昨夜の運動のおかげだろうが、慎哉にはもう一つ別の考えが浮かんだ。
 人の疲れには、脳も含んだ身体の疲れと魂の疲れがあることを、昨日体験した。
 これは仮説にすぎないが、魂が健全な状態なら身体の負担も少なくなるのかもしれない。
 半ニートに成ってから経験したことのない体調の良さに、大学に行くのにも抵抗が薄れた感じがする。

 カーテンを開けて窓の外に目をやると、今日はあいにくの雨だった。
 梅雨の時期だから仕方ないが、今日は自転車は使えない。
 バスに乗るのは苦痛のはずだが、不思議と今日は平気だった。
 昨日と違って授業は二限目からなので、比較的ゆっくりできる。
 音楽をかけて余裕をもって支度し、少し早いが九時に家を出た。


 武蔵境に着いて時計を見ると、まだ九時半にもなってなかった。
 授業開始まで一時間以上時間がある。
 二限目は前澤准教授の心理学だ。
 選択科目なので、クラスの全員が受講するわけではないが、前澤准教授はテレビなどにもときどき出演する有名人なので、女子人気が高い。
 三枝梨都も受講しているはずだ。もし教室で会ったら、どんな風に接すればいいか分からなくて、少し不安になった。

 ホームから階段を下りて改札を出ると、そこには梨都の姿があった。
 不意打ちに心臓が飛び出そうになる。しかもなぜか梨都は改札方向を向いていて、慎哉の姿にすぐに気づいた。

「おはよう。今日は早いね」
 昨日のことがあったからか、いつも堂々とした梨都が、気のせいかはにかんでいるように見える。

「おはよう。朱音さんと待ち合わせ?」
「いやだ、小学生じゃあるまいし、集団登校なんてしないよ」
「いや、改札の方見て、誰か探してるようだったから……」
「慎哉君を探してたんだよ」
「……」
 梨都の答えは意外過ぎて、反応できなかった。

「昨日、あれっきり話ができなくなるような気がして、不安になって来ちゃった」
「来ちゃったって、まだ九時半だよ」
「慎哉君の連絡先分からないし、いつもどのくらいに来るのかも分からないから、八時半に来てここで待ってたんだよ」
「……」
 
 再び言葉が出ない。
 ハ時半から待ってたこともそうだが、武蔵境には改札が二つある。
 反対側に出ることはまずないが、それでも絶対にこっちの改札に来るとは限らない。
 何が梨都をこんな不確定な行動に走らすのか、さっぱり見当がつかない。

「一緒に学校に行こう?」
 慎哉の返事を待たずに梨都はどんどん歩き出す。
 慌ててその後を追いかけた。

 荻窪を出るとき振っていた雨は、もうほとんど止んでいた。梅雨だからまたいつ振り出すか分からないが、空は明るくなって、雲の切れ間から太陽が顔を出しそうだ。
「ねぇ、せっかくだから一緒に歩きたいな。ダメ?」
 利発的な表情で提案して、最後のダメだけ甘えた表情が見える。
 梨都にこんな顔をされて断れる男がいるとは、慎哉には思えなかった。
「いいよ」
 昨日のことを考えたら雨があがったし、自転車があるからと断ることもできたはずだが、慎哉自身が梨都と話したいと思ってしまったのだから仕方ない。

「昨日、最後に言った言葉、覚えてる?」
 何だっけ――信長が言った言葉だ。必死で記憶を辿ってみても思い出せない。ちょうど別れ際は、別のことに囚われていて、すっかり注意力が消えていた。
 背後から二人を見ている信長は、何も言ってくれない。
 慎哉が困っていると、梨都が待ちきれないように自分で答えを言った。

「うちの別荘の話だよ。来てくれるんでしょう」
 薄っすらとだが思い出した。そう言えば最後に信長が、楽しみにしてるって言ったような記憶がある。
 梨都は不安そうな表情でこっちを見ている。
 慎哉はそんな梨都の表情を始めてみる。

「行くよ。楽しみにしている」
「嬉しい。もし今日に成って、やっぱり行かないって言われたら、どうしようかと思って、ドキドキしながら待ってたんだ」
 どうやら、これが訊きたくて慎哉を待っていたらしい。
 すっかり明るくなった梨都の顔を見て、隆道たちと一緒にいるのは気が重いけど、行くと言って良かったと思った。

「あのね、もし良かったら今年は招待するの慎哉君だけにしたいの。それでも来てくれる?」
 一つハードルを越えたと思ったら、予期しない二つ目のハードルが現れた。
 彼女いない歴十八年の慎哉には、なんて答えればいいのか分からなくて、また言葉に詰まってしまった。
 梨都がどんな事情でそうしようとするのかさっぱり分からないし、かと言って一人だけ行くと隆道に恨まれそうだ。それに梨都の両親にどう思われるかも不安だ。

「私の父と話したいと言ってたでしょう。一人の方がじっくりと話せる気がするんだ。それに私も二人でいる時間が欲しいし」
 思い出した。理由は分からないが、確かに信長は梨都の父と話したいと言っていた。
 しかし、梨都の最後の言葉は何を意味するんだ。

 慎哉は期待と不安に交互に駆られて、かなり心が揺さぶれた。あの痴態を見て自分を好きになるとは思えないような気がするし、もしそれでも好きなら自分ではなく信長であることは間違いない。

 おまけに身体にも変化が現れてきた。
 こんな雰囲気で女の子と二人で歩くのは、生まれて初めてだ。
 梨都の息遣いや時折風に乗って運ばれる香水の匂いに、下半身が硬くなってきている。
 もし気づかれたらどうしようと思うと、そっちが気に成って思考が停止する。

 こんなときに昨日みたいに、信長がスィッチしてくれれば助かるのに、声すらしない。
 おそらく昨日から慎哉の身体への滞在時間が、八時間を超えてるのだろう。

「いいよね」
 また不安そうな表情で確かめてくる。
 もはや抵抗などできるわけがない。
 慎哉は恥ずかしそうに小さくうなづいた。

「良かった!」
 再び梨都の顔が明るく輝く。
 その顔を見て慎哉は再び歩きにくくなった。
 気を紛らわそうと周囲に視線を走らすと、ようやく差し掛けた日の光が、雨に濡れた街路樹のケヤキの葉に当たって、キラキラと美しく輝いている。

 武蔵境は都会的な建物が立ち並ぶ中に、緑が豊富に配置された緑視率の高い美しい街だ。慎哉は初めて大学に続くケヤキ並木を歩いたとき、いつかを彼女と二人で自然に歩く姿を想像してときめいたものだ。
 隣を歩く梨都は彼女ではないが、入学したての頃の夢が実現したような気がして、胸がいっぱいになった。

「気持ちいいねこの道。ほら周りがキラキラ光ってる」
 慎哉の言葉に促されて、梨都も梅雨の合間の自然の贈り物を目にした。
「ホントだ。きれい」
 自然の安らぎが不安定だった梨都の心にしみ込んで、柔らかな表情に変わった。
 慎哉も、今何か話さなくてはとか、これからどんな風に接しようとか、焦る気持ちが消えてなくなった。
 言葉が必要なくなった二人は、しばらく無言で歩いた。

 大学の門を潜ったところで、梨都が不思議そうな顔をする。
「今日の慎哉君は昨日と違う人みたい。昨日は引き込まれるそうな悪魔的な感じだったけど、今日は穏やかで優しい感じ。昨日は心が不安定になって息苦しくなったけど、今日は初めてあったときのように素直に自分が出せるよ。どっちも素敵だけど、私といるときは今の慎哉君でいて」

 それって信長の慎哉よりも本当の慎哉の方がいいってこと?
 何もかもかなわないと思った信長に、勘違いかもしれないけど勝った気がして、嬉しさで慎哉の心は踊り出しそうになった。

「ありがとう。できるだけ今の自分でいるようにするよ」
 相変わらず気の利いた言葉は出てこないが、心をこめてやっと口にした言葉は、梨都の満足する言葉だったようだ。
 梨都はこの先一生心に残るような飛び切りの笑顔を返してくれた。
 この一瞬だけ慎哉は、背後の信長の怨霊を忘れていた。

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