第2話 再デビュー 前編

文字数 4,432文字

 電車が武蔵境駅に着いて扉が開くと同時に、慎哉はダッシュした。
 目指すは、駅北口ロータリに面したビルの地下駐輪場だ。
 慎哉はそこを年間契約し、通学用の自転車を置いている。
 徒歩でも十分程度の距離なのだが、個人的な事情から教室にはギリギリで飛び込んで、終わったら素早く姿を消す。そのために自転車は必須アイテムとなる。
 もちろん駅から大学までバス路線が走っていて、運行本数も都会だから豊富で、五、六分も待てば乗り込めるから、バスを使って通学する者も多い。慎哉の場合は同じ大学の学生と、プライベートでは極力会いたくないから、もちろん却下だ。

 駐輪場から自転車を出し、走り始めれば警戒が解ける。そこでようやく自分の身に降りかかった災難(?)について考えてみる。
 ゲームキャラクターの怨霊に憑りつかれたなど、心と身体が健康な若者なら、逆にメンタルが狂いそうだが、慎哉は不健康なのでどうにか耐えている。

 家を出てからずっとやや後方の上空を、信長の怨霊がついて来ているのだが、不思議なことに慣れたのか、それとも昼間だからか、ほとんど気に成らなくなった。
 信長は通学のしたくをする時間ギリギリまで、ずっと慎哉の身体を使ってパソコンを検索してた。身体を返してくれた後は、疲れたのか元々無口なのか、ずっと黙っている。

 大学の駐輪場に自転車を停めて、左腕の時計で時刻を確認すると、授業開始まで後三分時間がある。
 一限目の英語の教室は、駐輪場から徒歩二分ぐらいだ。
 慎哉は駐輪場の出口で三十秒時間を潰し、二分かけて教室まで歩く。
 授業が始まる三十秒前に教室に目だたぬように滑るように入って、会いたくない人たちが座らない前方の席を確保して、周囲を見ないように下を向く。
 英語の講師が入って来ると、今日も無事授業に参加できる。

 ここまで警戒しなくとも、あいつが前の席に来るとは思えないが、念には念を入れないと、九十分の授業が地獄の時間と化す。
 英語の単位は必修な上、この講師は単位が取りやすいことで有名だから、法学部の同級生はほぼ全てこの授業を受講している。
 出席も取るからサボることはまずないので、ここをどう切り抜けるかが今日一日を平穏に過ごすための最重要ポイントとなる。

 静かにドアを開けて、素早く空いてる席を探す。前側の席はみな敬遠するので、後ろよりは空席率が高い。前から二番目、右側から三列目に空席を見つけた。目立たぬように静かに移動して着席する。着席して十五秒ほどで講師が来た。
 今日も誰とも話さずに済んだ。思わず安堵の溜息をつく。

 それは、授業が始まって五分ぐらいで起きた。
 この授業では教科書とは別に、リーディングの課題として、講師が選んだ難解な英文が配られる。
 今日の課題はベルリンの壁が崩壊したとき、ワシントンポストが掲載した特集記事だった。政治的な専門用語がずらりと並んでいる。きっと日本語で書かれていても、正確な内容を把握することは難しい。
 ところが、この普段なら三行ぐらいでギブアップする文章が、まるで中学生の英語の教科書のようにすらすら読めた。

「おかしい、本当に読めてる」
 慎哉は自分が信じられず、思わずつぶやいた。
「何がおかしい。一、二行読めたからと、大学生のくせによろこぶんじゃない」
 これをすらすら読めるはずがないと、高を括った講師が笑いながら注意する。
 そんなんじゃない。ホントにスラスラ読めるんだ!
 まあ、慎哉自身が信じられないのだから、講師の見立ては間違ってない。
 事実、他の者もかなり苦戦している。頭を抱え込んでしまった者もいた。

(何を驚いている。その記事なら今朝わしが読んだばかりだ。読めて当たり前だ)
 さっきまで静かだった信長が突然話しかけてきた。
(そんな馬鹿な。僕が直接読んだわけじゃないのに)
(言ったではないか。我らの経験はお互いに共有される)
(信長さんって、英語が読めたんですか?)
(今朝覚えた)

 慎哉は呆れてしまった。こちらが九年以上かけて学んだ成果を、僅か二時間程度のネット検索で追い越してしまう。さすが知力二五五。人類最高峰の英知の勝利だ。
 おかげで、いつもは苦しむ英文和訳をスラスラと説く余裕ができた。同じペースで顔を上げてる者は、帰国子女の三、四人しかいない。

「おっ」
 皆の出来具合を回って見ていた講師が、慎哉の隣で立ち止まる。普通なら持ち帰って次の週に提出する課題を、制限時間の半分の十分で完成させていたからだ。
「君はずいぶん英文を読み込んでるんだな」
 講師は驚いて慎哉の顔を覗き込んだ。
「君、名前は?」
「佐伯慎哉です」
「帰国子女か?」
「いえ、海外で暮らしたことは一度もありません」
「すごいな。ネイティブでも苦労する難しい英文なのに」
「……」
「ふーん。さては外国人のガールフレンドがいるな」
「と、とんでもない」
 慌てて否定してから、講師が冗談を言ったのだと気づいた。
 周囲から失笑が漏れる。
 これだから人間は嫌いだ。
「しかし、たいしたものだ。これからもがんばれよ」
 講師は上機嫌で離れて行った。


 授業が終わると同時に、席を立ち出口に向かった。
 なるべく、目立たないように。
「待てよ、凄いじゃないか。つき合い悪いと思ったら、密かに英語の勉強か。一度も海外で暮らしたことのない慎哉君は」
 嘲るように声をかけて来たのは、同じ法学部一年の前田隆道(たかみち)だ。
 僕は相手をせずに、教室を去ろうとした。
 しかし、隆道は逃がさないように僕の右腕を掴む。

「だから待てと言ってるだろう。どうせ次の授業は午後からだろう。俺たちにつきあえよ」
 隆道は執拗だった。
 今日は二限目が空き時間で、お昼を挟んで三限目と四限目に授業がある。
 普段ならすぐに大学の外に出て駅に向かい、明峰大生は誰も来ない喫茶店でコーヒーを飲みながら読書して、そのまま昼食をとって戻って来るのだが。
 なんて言って断ろうか思案していると、横から別の声がした。
「久しぶりだね、慎哉君。私たちにも英語上達の秘訣を教えてよ」
 声の主はショートカットヘアが良く似合う三枝梨都(さえぐさりつ)だった。その隣には梨都の親友の篠田朱音(あかね)が、二人の後ろには隆道の友達の宝生研人(ほうしょうけんと)がいた。
 梨都にまで誘われてしまっては仕方が無い。慎哉は観念した。

 五人で学食に向かう。
 明峰大の学食は学生食堂とは思えないぐらい綺麗で美味かった。残念ながら慎哉は、隆道と会うのが嫌で、四月に二度使ったのみで、ほとんどここで食べたことはない。

 食堂に向かって歩いていると、信長が話しかけていた。
(なんだ、お主にも友達がいるではないか)
(友達じゃない。天敵だ)
(天敵? あの禿鼠に似た小男はお主の敵なのか?)
 禿鼠――言われてみれば隆道は、少し額が広く前歯が大きい。

(ふっ、秀吉を思い出すわ)
 再び他の者には聞こえない信長の声がした。
(お主がどのように責められるのか、この信長がじっくり見分してやろう)
 慎哉は、味方かどうかは分からないが、少なくとも隆道の仲間ではない第三者の存在に少し気が楽になった。

 まだ昼食には早いので、それぞれ思い思いのドリンクを手に、大きな一枚ガラスがはめ込まれた窓際の席に着く。
(ほう、見事だ)
 信長が窓の外を見入っている。
 慎哉もつられて見ると、学食に面した花壇にはアジサイの花が一斉に咲き誇っていた。梅雨の季節だが今日は晴れて、陽の光が紫の花を一層鮮やかに演出している。
 慎哉の心も少しだけ晴れ晴れする。

「何を見ているの?」
 窓を背にした梨都が小首を傾げて訊いてくる。
「窓の外のアジサイが……」
 緊張して言葉が途絶えたが、梨都は反射的に振り向いた。
「綺麗!」
 梨都が叫ぶと隣の朱音も振り向き、二人でしばらくアジサイを見ていた。

「ホントに久しぶりだな。元気でやってたか?」
 隆道は自分が元凶のくせに図々しい奴だ。
 慎哉はまじめに答える気がしなかったが、梨都も興味深そうにこっちを見るので、しぶしぶ答え始めた。
「もちろん元気にやってたよ」
「そう、なら良かった」
 隆道が何か言うより早く、捉えようによっては意味深な言葉を梨都は発した。

「ホントだよ。新歓であんなことがあったから心配してたんだぜ」
「タカミチ!」
 慎哉の傷口を抉る一言を発した隆道を、朱音が怖い顔で注意する。
 隆道はにやけた表情で、「悪い」と心にもない謝罪をする。
 やっぱり来なければ良かったと、慎哉は軽く後悔した。

(お主が不快になっているのは、初めて酒を飲んで失禁したからか)
 慎哉の経験を共有する信長が、容赦なく忘れたい記憶を言い立てる。
(そうだよ)
 不思議なことに信長にはっきり指摘されても、あまり不快にはならなかった。
(気にするな。わしも悪ガキだったから、子供の頃酒を飲み過ぎて糞迄漏らしたことがある。しかし人は誰でもすることだ。お主の前にいる女子(おなご)たちも、お前に負けないものをひり出しておる。心配するな)

 そういう問題ではなかった。
 あの頃慎哉は甘い夢を見ていた。
 入学後のオリエンテーションで偶然隣の席になったのが梨都だった。
 憧れの東京で出会った、ショートカットでモデルのような女の子、細面の顔に目力のある大きな瞳、慎哉は出会って数秒で恋をした。

 授業選択で悩んでいた梨都に、同じ高校の先輩から入手した、単位の取りやすい授業の情報を教えてあげていっぺんに距離が縮んだ。
 彼女になってくれるんじゃないかと、甘い夢を見たときもあった。
 その夢が木っ端みじんに壊れ、大学が嫌いになったのは、それから二日後の新歓コンパで起きたあの事件のせいだ。

 梨都は一般入試ではなく、明峰大付属中学から持ち上がりで入学した。当然法学部にも六年間共に過ごした友人がいる。それが目の前の隆道達だ。
 特に隆道は何かにつけ、慎哉と梨都の間に割り込んできた。
 そうなると彼女いない歴十八年の慎哉は、どうしても及び腰になってしまう。
 そんな慎哉に、梨都はかまわず無邪気に話しかけてくれた。
 その態度に希望を抱いて告白しようと臨んだのが、新歓コンパだった。

 梨都が気に成る慎哉に、執拗に酒を飲ませ続ける隆道。
 初めての酒は気がついたときは一挙に回る。
 海の底にいるような不快感と、思うように動かない身体。
 尿意を感じて席を立とうとするが、「トイレに行く」と何度口にしても、酔っぱらってうまく言えない。その度に隆道はどこに行くんだと何度も訊き返して立たせてくれない。
 そのうちに隆道の右手が、はずみで思い切り下腹に入り、ついに耐え切れずにその場で漏らしてしまった。
 ズボンから染み出た尿が畳の上を流れてゆく。
「キタネー、こいつ漏らしやがった」
 隆道の声がひと際大きく座敷に響いた。
 その場にいた全員が慎哉に注目する。
 コンパの主催者の上級生が店の人に雑巾を借りて掃除を始める。
 その日慎哉は、びしょびしょのズボンのまま、一人で電車に乗って帰宅した。
 慎哉のニート暮らしはその日から始まった。

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