第8話 亜美の持つ闇

文字数 5,108文字


 初セッションは順調に進んだ。
 ともすればリズム隊が、信長のプレイに引きずられそうになるが、亜美の歌声が信長の持つ毒と中和し、彼らもだんだんと慣れてきた。
 セッションの後半は、完全に自分のプレイを取り戻し、五人の音楽と言えるレベルに昇華させることができた。

 最後の曲は、動画の最期にあったミディアムテンポのバラードで、生で亜美の歌声を聴くことで、慎哉は再び身の内から湧き出す感動に魂を震わせた。
 今すぐにでも信長と変わって、プレイしたい衝動に突き動かされたが、自分が入って完成している演奏を、壊してしまう恐怖に負けて言い出せなかった。

 最後の一音が流れて、余韻に包まれながらセッションが終了する。
 すかさず信長は慎哉とスィッチした。
「良かったよ。久しぶりに自分に納得できたよ」
 ゲンがセッションの途中で脱ぎ捨てたTシャツを、拾いながら信長に満面の笑みを見せる。

「しかし不思議な音だったな。きっとどこで誰が聴いても、お前の音だと分かるはずだ。すごい個性だよ。途中で初めてギターを弾く奴とは思わなくなったよ」
 カズもしきりに絶賛する。

 そんな二人を見ながら、吉永は満足そうに何度も頷く。
 亜美だけがプレイ中のテンションを維持したまま、無言で遠い目をしていた。

「せっかくだから、初セッションを記念して飲みに行くか」
 吉永がみんなに提案する。
「すいません。まだ十八なんでアルコールは」
「いいよ、食べ専で」
「分かりました。ありがとうございます」

「亜美ちゃんも一緒に行こう」
 吉永がまだボーっとしている亜美に声をかける。
「えっ、飲み会? うんいいよ」
 既に十時を超えているが、亜美の家はダイヤ街のスパゲッティ専門店で、二件隣が吉永の実家の不動産屋と、いわゆるご近所さんだ。
 とは言っても年が離れているから、正治がバンドに入るまでは、お互いによく知らなかったらしい。

 五人は駅近くの居酒屋に入った。席配置は、お誕生日席に吉永、その右隣に慎哉と亜美、左隣にゲンとカズが座った。
 慎哉と亜美を隣り合わせにしたのは、大学生同士なら話も合うだろうという、おじさんらしい配慮のようだが、亜美とは今日が初対面で、梨都以外の女性とほとんど話した経験がない慎哉には、かなり緊張する並びでもあった。

 社会人との初めての飲み会は、慎哉にはとても新鮮な発見が多かった。
 他の三人が夏らしく生ビールを飲んでるところを、ゲンだけが瓶ビールを頼んでいるので、相当のビール通だと思った。
「ビールお好きなんですね」
 と話しかけると、ゲンは急に悲しい顔をした。

「結婚しているバンドマンは肩実が狭いんだ」
 訴えるような口調だ。
 慎哉はそれと瓶ビールの関係がよく分からなくて、「はあ」と分かったような分からないような返事をした。
 するとゲンは勝手に説明を始めた。

「元は俺のドラムのファンだったくせに、将来の子供のために貯金しなきゃあと、家では缶ビール一本しか飲ませてくれない。しかも第三のビールだ」
 ゲンの口調はだんだん熱を帯びてきた。
 慎哉はもしかして触れてはいけない部分に触れてしまったのかと、急にドキドキしてきた。
「だから俺は本物のビールを飲めるこういう機会は、絶対に瓶ビールを頼んで、舌がビールの味を忘れてないか、確かめるようにしてるんだ」

 やっとつながった。
 慎哉を除く三人は、この話を既に知っているのか平然としている。
「大変だなぁ」
 学生では想像できない苦労を聞いて、思わず慎哉がつぶやくと、隣に座る亜美は聞き逃さなかった。

「ゲンさんの奥さんはいい人だよ。ゲンさんのドラムを心から愛して応援してる。バンドマンなんてやくざな道に、片足突っ込んでる人間と結婚するなんて勇気あると思うよ。今の話だって、ビールなんて飲ませることないのに、貯金する傍らで一生懸命工面して、一本のビールを買ってるんだと思うな」
 亜美のシビアな意見はゲンの耳にも入る。

「亜美ちゃん、厳しいなぁ。まあ確かに俺には勿体ない嫁だと思うよ」
「おいおい、結局ノロケか?」
 カズがゲンの胸を叩く。
 三人とも楽しそうに飲んでいる。
 慎哉は今までバンドマンとは付き合いがなかったが、音楽をやってる人は楽しそうでいいなぁと、三人が羨ましくなった。

 会話は主にゲンとカズを中心に進んだ。
 吉永は笑顔を浮かべたままで、二人のやりとりを見つめていた。
 二人の会話が途切れがちになったとき、あまり話さなかった吉永が、しみじみとした口調で語り始めた。

「俺たちセミプロバンドは、結局メジャーデビューって夢を追いかけながら、現実との狭間で悩みながら生きている。ゲンは嫁さんの理解の中で続けているが、俺とカズは現実の負担が大きくなるのが怖くて結婚もできない。いつかは割り切らなきゃいけないと分かってるんだけどな」

 吉永の表情を見て、ゲンの顔が引き締まる。
「タクが夏フェス迄って限定付きにも関わらず、慎哉を連れて来たわけが、今日プレイしてみて分かったよ。今度こそ、決着をつけるんだな」
 決着という言葉を聞いて、カズも表情を変えて吉永の方を向いた。
 それまで和気あいあいとしていた場に、重苦しい空気が漂った。

 その空気を引き裂くように、吉永がゲンの問いに答える。
「ああ、正治のときのようなしくじりはもうしない。慎哉と渾身のライブを演ったら今度こそ活動停止だ。俺は親父の後を継ぐために、本気で宅建の勉強をする。ゲンもカミさんと一緒に実家に帰って工務店継げよ。カズだって本当は子供が好きで、保育士の資格取ったんだろう。次は六十超えて引退してからジジイバンドでもやろうや」

 なんだかすごい場面に立ち合ってしまった。
 戸惑う慎哉が後ろを振り返ると、信長が満足そうな顔で見下ろしていた。
(こういうのがねらいだったのか?)
(うむ、まだ燻りにすぎないが、この火は夏フェスに向けてどんどん大きく成る)
(そんな火を煽ってどうする気だ?)
(大炎の中で人は本当の姿を晒す。それを見て、人の本質を見極めるのだ)
(悲しいじゃないか。どうしてわざわざ見たいのか、よく分からない)
(人は必ずこの問題に直面する。必ずだ。お主がどんなに避けようとしても、避けきれるものではない)

 信長が何を言っても、慎哉には納得がいかない。この人たちの人生を変える存在と成るのは、自分には重すぎると思ってしまう。

「ねぇ、三人はまだ飲んでいくでしょう。私は明日早いし、慎哉君は飲めないから、二人でそろそろ帰るね。うち近くだから送って」
 亜美がまだまだ飲み足りなそうな三人に帰ると告げた。
 最後は慎哉に向けた言葉だった。
「ああ、気をつけてな。明日また練習だから連絡するな」


 三人を置いて慎哉と亜美は居酒屋の外に出た。
 昼間はあんなに人が多かった吉祥寺の通りも、夜十二時近くなるとすっかり人波も消えて、夜遊びしている若者がちらほらといるだけだった。
 亜美の家まで南口から北口に出て、商店街の中を抜けて行くとして、歩いて十分ぐらいか。往復でニ十分。中野行きの終電には、余裕で間に合いそうだ。

「たいへんだったね。最後はおじさんたちの決意表明に付き合わされちゃって。でもあの人たちもいつかは決めなきゃいけないことだから。遅すぎるぐらいだよ」
 意外なことに亜美は吉永たちに厳しかった。

「でも夢を諦めるのはたいへんなことなんだと思う」
 慎哉が同情半分で三人の肩を持つと、亜美は半笑いを浮かべた。
「お兄ちゃんはね、凄いギタリストだったの。天才だったかもしれない。でもお兄ちゃんの個性にバンドのメンバーが飲まれちゃうんで、学生の頃から誰と組んでも成功しなかった」
「そんなに凄かったんだ」

 慎哉が心から感心すると、意外そうに亜美は慎哉を見た。
「慎哉君だってそうじゃない。初めてギター弾いたって嘘でしょう。あなたのギターテクニックはお兄ちゃんの全盛期と比べても遜色なかった」
「嘘じゃないよ」
 証明する手段がなくて、慎哉が困っていると、亜美が笑った。

「まあいいわ。そんなことはどうでもいい」
 二人の間に沈黙が流れた。
 駅を抜けて北口に出たところで、再び亜美が話し始めた。

「お兄ちゃんは大学を卒業した後も、ギターがどうしても捨てられなくて、島田さんの店でバイトしながらメンバーを探した。そこで吉永さんたちと知り合ったの。すぐに意気投合してバンドを組んだわ。私も今度こそうまくいくんじゃないかと思って期待した」
 亜美は話しながら、空を見た。
 星なんか見えない。
 代わりに涙が亜美の頬を伝わった。

「いくら練習しても上手くいかなくて、お兄ちゃんの失望が伝わってくるの。私はだんだん腹が立ってきて、気がつくと夢中で歌っていた。するとバンドの音がうまく纏まったの。初めてお兄ちゃんの音がリズム隊の刻むビートの中を、生き生きと流れたわ」
 亜美は泣きながら語り続けた。
 すれ違うカップルが二人を好奇心に満ちた目で視る。
 慎哉は自分が別れ話でも切り出して、泣かせてるように見えるのじゃないかと気に成った。

「良かったじゃないですか。お兄さんの願いが叶ったんですね」
 慎哉は良かったを強調しながら、なんとか亜美を励まそうとする。
「ライブハウスを沸かせているうちに、メジャースカウトの声がかかったわ。でもお兄ちゃんと私だけだった。私はもちろん二人だけでも前に進むべきだと、お兄ちゃんを説得した。でもお兄ちゃんは、他のメンバーを捨てきれなかった。悩んで夜道をスクーターで走っていて、中央分離帯に突っ込んで死んじゃった。半分は私が殺したようなものね」
「そんな」
 慎哉はあまりの業の深さに驚いた。
 これがさっき、信長が予言した人間の本質を見るということなのかと思った。

「私はお兄ちゃんが好きだった。兄としてじゃなく男として」
 更に衝撃が慎哉を襲った。
「でも兄弟だからしかたないと思った。お兄ちゃんが死んでから、忘れようと思って、大学の同級生と寝た。初めてだったけど何の感動もなかった。それから何人かと寝たけど、誰もお兄ちゃんの代わりにならないと分かった」
 物凄く悲しい話なのに、隣を歩くこの美しい女性が男と寝るシーンを想像して、下半身が反応する。自分が動物すぎて嫌になった。

「それで考えたの。お兄ちゃんのギターをあの店において、お兄ちゃんのように弾ける人に渡して、私はその人と人生を歩こうと。もちろんお兄ちゃんと同じ道を歩いてもらう。それであの店でバイトをしながら、あのギターを手にする人を待ってたの」
「島田さんは、その考えに反対しなかったのですか?」

 亜美はフフと笑った。
「私がお願いしたら、島田さんは二つ返事でOKしたわ。だってあの人もお兄ちゃんが死んでから、私と寝た一人だもの。でも一回だけ。バイトを始めた当初は誘ってきたけど、吉永さんたちの名前を出したらすぐにやめたわ。怖かったのね」

 何という業の深さだ――慎哉は亜美の持つ闇の深さに、先ほどまで盛り上がった欲望が不思議なほどスーっと覚めるのを感じた。

「って、待って、今僕の手にギターがあるってことは」
「そう、慎哉君には夏フェスが終わっても、ギターをやめないで欲しいの。あなたは絶対にプロとして成功する。私たちに声をかけてくれたプロダクションの人に、私から兄の再来として紹介してもいい」
「そんな無茶な」

「その代わりに私をあなたにあげる。今のあなたはそうでもないけど、ギターを弾いてるときはすごくセクシーだった。私、あなたを見ていて躰が熱くなったもの」
 亜美の顔が近づいてきた。
 細い腰と、身体に似合わない豊満なバストが、慎哉の身体に当たった。
(だめ、やめて)
 慎哉が心の中で叫ぶと、信長とスィッチした。

 信長はいきなり亜美の顎を持って、キスをした。
 慎哉では絶対できない濃厚なキスだった。
 亜美は慎哉のことを純真な男と侮っていたので、驚いて身体を引いた。

「どうした? そなたをくれるのではないのか?」
 さっきまで戸惑いしか見られなかった慎哉の目が、妖しく光る。
 その光に魅了されて、再び亜美が慎哉に身体を預けた。

「そなたの望みを叶えてもいいぞ」
「えっ」
 信長のペースに嵌って、自分の野心を忘れていた亜美が、信長の言葉に驚いて声をあげた。
「ただし、そなたがライブの中で、満足できるだけの歌を歌えたならばだ」
 信長の交換条件に生霊になった慎哉は慌てたが、訂正をもとめるよりも亜美の答えの方が早かった。
「絶対、あなたを満足させてみせる」
 亜美は信長の首に回した手に力を込めた。

 慎哉は上空から二人の様子を見ながら、タクシーで帰らなければならなくなったことに、悲しみを感じていた。
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