第5話 ギタリスト 前編
文字数 4,322文字
信長は不満だった。
慎哉に憑依してから一週間、意のままに操れるよう身体を鍛え、現代の知識はウィキペディア並みに身につけた。後は現実の人間ドラマを通じて、人間の本質をじっくりと見極めたいだけなのだが、肝心の慎哉が行動力不足で、何も得ることのない平穏な日々がダラダラと続いている。
当初信長は、生まれながらにして人を振り回す才能に恵まれた梨都には、慎哉との恋愛を通じて、周囲を巻き込んだ愛憎劇を期待していたのだが、慎哉があまりにヘタレなので二人の仲は次のステージに進むことなく、小市民的な幸せが続いているだけだ。
しかも、信長の強烈な個性を経験した梨都が、慎哉を独占したくて、あまり他の集団と慎哉が関係を持たないように妨害している。
どうすれば今の状況がブレークスルーできるか――信長四六時中、そのためのきっかけを探していた。
「慎哉君はサークルには入らないの?」
梨都から珍しく活動的な匂いがする問いかけがあった。
とにかく人が集まるところに行って欲しい。
信長は祈るような思いで、慎哉の答えを待った。
「高校までは水泳やってたけど、ここの水泳部は体育会しかないでしょう。レベルもオリンピック級だし」
「テニスとかは?」
「ちゃんとやったことないしな」
「そうね。やっぱり入らなくてもいいと思う。サークルってみんな人間関係を求めて入るようなもんだから、慎哉君が他の人に関心が行くと心配だし」
梨都は自分で振っておきながら、結局いつもの通り外の世界を閉じた。
信長は失望した。
「おっ、夏フェスのCMだ」
隆道が立ち上がって、学食に設置された七十インチ×四面構成のデジタルサイネージに向かう。
勝悟がつられるように隆道の後を追ったので、梨都も慌てて後を追う。
サイネージモニターには、中庭に設置された特設ステージ上で一組のバンドが演奏する映像が流れていた。映像の上部には『明峰バンドフェスティバル』とタイトル表示されていた。
「明峰バンドフェスティバルって何?」
慎哉はノリノリで身体を揺らしている隆道を横目に、梨都に映像の説明を求めた。
「十一月の学園祭に並ぶ、明峰大の名物イベントよ。オーディションで合格した九組の学内バンドが、八月の頭に二日間にわたって演奏を披露するの。通称『夏フェス』って呼ばれてる」
クラシック派の梨都はあまり興味ないのか、感情のこもらない声で事務的に説明する。
代わって朱音が熱く語る。
「付近の大学生や中高校生まで集まって、結構人気のあるイベントよ。出演したバンドにはスカウトの声もかかるって話よ。梨都は高一のときに行っただけだけど、私たちは三年間通ったんだよ」
このイベントのファンなのが良く伝わってきた。
本来傾奇者で祭り大好きの信長は少し興味を惹かれた。
「モニターに映ってるのは、ホークアイってバンドで、一年のときから三年間ずっと人気ナンバーワンだよ」
宝生研人が珍しく熱くなっている。彼はこのバンドに相当はまっているようだ。
「ねぇ、もういいでしょう」
梨都がつまらなそうに口を尖らしている。モニターの前から動かない慎哉の腕を掴んで、元いたテーブルに戻っていった。
隆道たちはずっとモニターに釘付けになったままだ。
「もう私にはあの魅力はよく分からない。騒音にしか思えないし」
確かにモニターから出る音は、音質も悪く信長もあまり惹かれる音ではなかった。
野外録音な上、学生たちが用意した機材だから、生音を聞いてイメージできる者でなければ、録画から伝わってこないのも無理はない。
信長は、またいつもの会話を始めた慎哉と梨都から視線を外して、もう一度サイネージを見ながら、何事か思いついたのか珍しく顔を綻ばせた。
三限目は数理統計の講義だ。この科目を取っているのは慎哉だけなので、一人で教室に向かう。
(慎哉、夏フェスに出てみないか?)
教室に着くなり、信長は家まで我慢できずに、夏フェス参加を切り出した。
(何言ってるんだよ。第一僕たちはバンドに入ってない)
(バンドなど作ればいいじゃないか)
(デモテープの締め切りは二週間後だよ。絶対無理だ。第一、信長さんは何か楽器ができるの?)
(歌えばいいではないか)
(僕の声で? 絶対無理だよ)
慎哉の声は音域が狭く、高音の伸びがない。カラオケで歌える曲も僅かしかない。
ボイストレーニングでファルセットを鍛えるにも、二週間では無理だ。
(ならば、楽器を弾けば良いではないか)
(僕は学校で縦笛ぐらいしかやったことないよ)
(お主の過去にギターを弾いた経験があったぞ)
(それは中学時代に学習雑誌を年間予約したときに、特典としてもらったギターだ。巧く引けなくてすぐ辞めたよ)
あまり触れられたくない挫折の経験だ。
(それなら、大丈夫だ。演奏技巧は運動神経に依存する。あとは感性だが、お主とわしは真逆の感性を持っている。きっと観客の心を揺さぶるぞ)
(僕もやるの?)
(当然だ。わしとお主は表裏一体だ。二人でやれば成功間違いなしじゃ)
(そんな人前で演奏するなんて無理だよ)
(やる前からつべこべ言うな。この授業が終わったら楽器屋に行くぞ)
渋る慎哉を強引に押し切った。
まだ慎哉は、これがどのようなトラブルに発展するか気づいていない。
古来から、華やかな音曲の世界の裏では縄張りやしきたりなど、面倒くさい人間関係が渦巻いていたものだ。
同じ人間の世界だ。それは現代においても根強く残っているはずだ。
信長はこれから繰り広げられるであろう人間ドラマを思い描き、一人ほくそ笑んだ。
「これから楽器屋に行くので、これで失礼する」
四限目のドイツ語の授業に一緒に出ようと、集まった梨都たちに慎哉はサボりを告げた。
「えっ、どうしたの? ドイツ語終わったら一緒にご飯食べようって言ったじゃない」
自分との予定をキャンセルしようとする慎哉に、梨都は口を尖らして抗議する。
「エントリー迄時間がないゆえ、急いでおる」
「エントリーって何にエントリーするの?」
「夏フェスに決まっておろう」
梨都に慎哉が逆らえないことを知っている信長は、あらかじめスィッチしていた。
慎哉の言葉使いに合わせてはいるが、時折混じる信長の言葉使いと、隠しきれない覇王の雰囲気に、梨都たちは慎哉があの夜の慎哉に変わったことに気づいた。
「夏フェスって、エントリーの締め切りまで、後二週間しかないよ」
「二週間もだ。人間やる気に成れば時間は問題ではない。強い決意のない者は一年かけても結局成しえずに終わるものだ」
信長の慎哉がそう言い切ると、元々そういう力強い一面に魅力を感じてた梨都は、もう逆らえなかった。
「夏フェスにチャレンジするんだ」
いつもは口数が少なく、隆道のパシリ的な扱いを受けている研人が、目を輝かせて確認した。
「ああ、一から始めることになるが、必ず出演する」
研人は珍しく慎哉と目を合わせて、黙ってじっと考えていた。
「時間がないからもう行くぞ」
「待って、僕も手伝うよ。吉祥寺に知り合いの楽器屋があるから紹介する」
研人が校門に向かって歩き出した慎哉の後を追う。
「待って、私も行く」
梨都も慌てて後を追った。
信長は、武蔵境の楽器屋で適当に調達しようと考えていたが、研人が熱心に進めるので吉祥寺まで足を延ばした。
研人の案内で三人は吉祥寺通りを北に向かって歩き出す。
目的の楽器屋は五日市街道の一つ前の角を曲がったところにあった。
店のサインボードには『ギターショップBeck』と記されていた。
信長は店頭で足を止めて、店の中に入ろうとする研人に声をかけた。
「よく来るのか?」
研人は振り返って答えた。
「高一のときに夏フェスを見て、ホークアイの修二さんの音に憧れてギターを始めたんだ。同級生に教わってここでギターを買ってから、毎週日曜日に成ると来ていた。店長が親切でいろいろ教えてくれたんだ。でも才能がなかったみたいで、今は聞く方が専門だけど」
「そうか、諦めたのか。では行こうか」
信長は研人の挫折にはさして関心を示さず、研人に店内に入るように促した。
店の中には客が一人と、店員らしい男女がいた。男の店員は客と話していて、女の店員はギターをクロスで磨いていた。
入店してきた研人に、男の店員が気づいた。
「いらっしゃい。宝生君、久しぶりじゃないか」
大学に入ってから足が遠のいていたのか、男の店員は研人を歓迎してくれた。
「こんにちは、島田さん。すいません。しばらくご無沙汰してました」
「いいよ、忙しかったんだろう。ギターは持ってきてないみたいだけど、弦でも買いに来たのかな?」
「違います。紹介します。僕の友人の佐伯慎哉君です。彼が夏フェスのオーデションに参加するので、ギターを買いに来たんです」
「明峰大の夏フェスに。それは凄い。今はどんなギターを使ってるの?」
研人が島田と呼んだ店員は、夏フェスと聞いて興味を感じたようだ。
話していた客に断って、近づいてきた。
「ギターは持ってない。だから買いに来た」
「持ってないって、弾いたことはあるんだろう?」
「一度もない」
「ないって……」
島田が絶句した。
「ガッハッハ」
先に来ていた客が、大声で笑い始めた。
「お兄ちゃん、面白いなぁ。夏フェス出るなんて言わないで、素直にギター始めたいと言えばいいじゃん」
「いや、私は夏フェスに出ることが目的で、ギターはその手段にしか過ぎない」
信長の言い方に、客が切れた。
「おいおい、ギターなめるなよ。初めての奴が人様の前で、弾けるようなものじゃないんだよ」
島田が慌てて間に入る。
「まあ、吉永さんも落ち着いて、プロのギター演奏見て、自分も弾けるような気に成ることはよくあるって。君も、一度実際のギターを弾いてみればいい。亜美ちゃん、スクワイヤ―のストラスキャスターモデル持って来て」
亜美と呼ばれた女の店員は、ネック側のボディの形状が角型になっていて、ピックガードの大きなギターを持って来た。
「これはフェンダーって有名なギターメーカーの傘下ブランドで、スクワイヤーってメーカーが出してるギターだけど、フェンダーに似たサウンドとフィーリングなのに、初心者でも弾きやすい設計に成っているからおすすめだよ」
「少し弾いて見せてもらっていいですか?」
「えっ、自分で弾くんじゃなくて?」
「弾いて見せてください。できるだけ難しいテクニックを駆使して」
「分かった。じゃあ試し弾き用の部屋に行こう」
Beckは小さな店だが、ちゃんと弾いてみたい客のために、防音完備のスタジオがあるようだ。
「店長、ちょっと待って、俺が弾いてやるよ」
吉永がギターを奪うように手に取り、先頭に立ってスタジオに向かった。
慎哉に憑依してから一週間、意のままに操れるよう身体を鍛え、現代の知識はウィキペディア並みに身につけた。後は現実の人間ドラマを通じて、人間の本質をじっくりと見極めたいだけなのだが、肝心の慎哉が行動力不足で、何も得ることのない平穏な日々がダラダラと続いている。
当初信長は、生まれながらにして人を振り回す才能に恵まれた梨都には、慎哉との恋愛を通じて、周囲を巻き込んだ愛憎劇を期待していたのだが、慎哉があまりにヘタレなので二人の仲は次のステージに進むことなく、小市民的な幸せが続いているだけだ。
しかも、信長の強烈な個性を経験した梨都が、慎哉を独占したくて、あまり他の集団と慎哉が関係を持たないように妨害している。
どうすれば今の状況がブレークスルーできるか――信長四六時中、そのためのきっかけを探していた。
「慎哉君はサークルには入らないの?」
梨都から珍しく活動的な匂いがする問いかけがあった。
とにかく人が集まるところに行って欲しい。
信長は祈るような思いで、慎哉の答えを待った。
「高校までは水泳やってたけど、ここの水泳部は体育会しかないでしょう。レベルもオリンピック級だし」
「テニスとかは?」
「ちゃんとやったことないしな」
「そうね。やっぱり入らなくてもいいと思う。サークルってみんな人間関係を求めて入るようなもんだから、慎哉君が他の人に関心が行くと心配だし」
梨都は自分で振っておきながら、結局いつもの通り外の世界を閉じた。
信長は失望した。
「おっ、夏フェスのCMだ」
隆道が立ち上がって、学食に設置された七十インチ×四面構成のデジタルサイネージに向かう。
勝悟がつられるように隆道の後を追ったので、梨都も慌てて後を追う。
サイネージモニターには、中庭に設置された特設ステージ上で一組のバンドが演奏する映像が流れていた。映像の上部には『明峰バンドフェスティバル』とタイトル表示されていた。
「明峰バンドフェスティバルって何?」
慎哉はノリノリで身体を揺らしている隆道を横目に、梨都に映像の説明を求めた。
「十一月の学園祭に並ぶ、明峰大の名物イベントよ。オーディションで合格した九組の学内バンドが、八月の頭に二日間にわたって演奏を披露するの。通称『夏フェス』って呼ばれてる」
クラシック派の梨都はあまり興味ないのか、感情のこもらない声で事務的に説明する。
代わって朱音が熱く語る。
「付近の大学生や中高校生まで集まって、結構人気のあるイベントよ。出演したバンドにはスカウトの声もかかるって話よ。梨都は高一のときに行っただけだけど、私たちは三年間通ったんだよ」
このイベントのファンなのが良く伝わってきた。
本来傾奇者で祭り大好きの信長は少し興味を惹かれた。
「モニターに映ってるのは、ホークアイってバンドで、一年のときから三年間ずっと人気ナンバーワンだよ」
宝生研人が珍しく熱くなっている。彼はこのバンドに相当はまっているようだ。
「ねぇ、もういいでしょう」
梨都がつまらなそうに口を尖らしている。モニターの前から動かない慎哉の腕を掴んで、元いたテーブルに戻っていった。
隆道たちはずっとモニターに釘付けになったままだ。
「もう私にはあの魅力はよく分からない。騒音にしか思えないし」
確かにモニターから出る音は、音質も悪く信長もあまり惹かれる音ではなかった。
野外録音な上、学生たちが用意した機材だから、生音を聞いてイメージできる者でなければ、録画から伝わってこないのも無理はない。
信長は、またいつもの会話を始めた慎哉と梨都から視線を外して、もう一度サイネージを見ながら、何事か思いついたのか珍しく顔を綻ばせた。
三限目は数理統計の講義だ。この科目を取っているのは慎哉だけなので、一人で教室に向かう。
(慎哉、夏フェスに出てみないか?)
教室に着くなり、信長は家まで我慢できずに、夏フェス参加を切り出した。
(何言ってるんだよ。第一僕たちはバンドに入ってない)
(バンドなど作ればいいじゃないか)
(デモテープの締め切りは二週間後だよ。絶対無理だ。第一、信長さんは何か楽器ができるの?)
(歌えばいいではないか)
(僕の声で? 絶対無理だよ)
慎哉の声は音域が狭く、高音の伸びがない。カラオケで歌える曲も僅かしかない。
ボイストレーニングでファルセットを鍛えるにも、二週間では無理だ。
(ならば、楽器を弾けば良いではないか)
(僕は学校で縦笛ぐらいしかやったことないよ)
(お主の過去にギターを弾いた経験があったぞ)
(それは中学時代に学習雑誌を年間予約したときに、特典としてもらったギターだ。巧く引けなくてすぐ辞めたよ)
あまり触れられたくない挫折の経験だ。
(それなら、大丈夫だ。演奏技巧は運動神経に依存する。あとは感性だが、お主とわしは真逆の感性を持っている。きっと観客の心を揺さぶるぞ)
(僕もやるの?)
(当然だ。わしとお主は表裏一体だ。二人でやれば成功間違いなしじゃ)
(そんな人前で演奏するなんて無理だよ)
(やる前からつべこべ言うな。この授業が終わったら楽器屋に行くぞ)
渋る慎哉を強引に押し切った。
まだ慎哉は、これがどのようなトラブルに発展するか気づいていない。
古来から、華やかな音曲の世界の裏では縄張りやしきたりなど、面倒くさい人間関係が渦巻いていたものだ。
同じ人間の世界だ。それは現代においても根強く残っているはずだ。
信長はこれから繰り広げられるであろう人間ドラマを思い描き、一人ほくそ笑んだ。
「これから楽器屋に行くので、これで失礼する」
四限目のドイツ語の授業に一緒に出ようと、集まった梨都たちに慎哉はサボりを告げた。
「えっ、どうしたの? ドイツ語終わったら一緒にご飯食べようって言ったじゃない」
自分との予定をキャンセルしようとする慎哉に、梨都は口を尖らして抗議する。
「エントリー迄時間がないゆえ、急いでおる」
「エントリーって何にエントリーするの?」
「夏フェスに決まっておろう」
梨都に慎哉が逆らえないことを知っている信長は、あらかじめスィッチしていた。
慎哉の言葉使いに合わせてはいるが、時折混じる信長の言葉使いと、隠しきれない覇王の雰囲気に、梨都たちは慎哉があの夜の慎哉に変わったことに気づいた。
「夏フェスって、エントリーの締め切りまで、後二週間しかないよ」
「二週間もだ。人間やる気に成れば時間は問題ではない。強い決意のない者は一年かけても結局成しえずに終わるものだ」
信長の慎哉がそう言い切ると、元々そういう力強い一面に魅力を感じてた梨都は、もう逆らえなかった。
「夏フェスにチャレンジするんだ」
いつもは口数が少なく、隆道のパシリ的な扱いを受けている研人が、目を輝かせて確認した。
「ああ、一から始めることになるが、必ず出演する」
研人は珍しく慎哉と目を合わせて、黙ってじっと考えていた。
「時間がないからもう行くぞ」
「待って、僕も手伝うよ。吉祥寺に知り合いの楽器屋があるから紹介する」
研人が校門に向かって歩き出した慎哉の後を追う。
「待って、私も行く」
梨都も慌てて後を追った。
信長は、武蔵境の楽器屋で適当に調達しようと考えていたが、研人が熱心に進めるので吉祥寺まで足を延ばした。
研人の案内で三人は吉祥寺通りを北に向かって歩き出す。
目的の楽器屋は五日市街道の一つ前の角を曲がったところにあった。
店のサインボードには『ギターショップBeck』と記されていた。
信長は店頭で足を止めて、店の中に入ろうとする研人に声をかけた。
「よく来るのか?」
研人は振り返って答えた。
「高一のときに夏フェスを見て、ホークアイの修二さんの音に憧れてギターを始めたんだ。同級生に教わってここでギターを買ってから、毎週日曜日に成ると来ていた。店長が親切でいろいろ教えてくれたんだ。でも才能がなかったみたいで、今は聞く方が専門だけど」
「そうか、諦めたのか。では行こうか」
信長は研人の挫折にはさして関心を示さず、研人に店内に入るように促した。
店の中には客が一人と、店員らしい男女がいた。男の店員は客と話していて、女の店員はギターをクロスで磨いていた。
入店してきた研人に、男の店員が気づいた。
「いらっしゃい。宝生君、久しぶりじゃないか」
大学に入ってから足が遠のいていたのか、男の店員は研人を歓迎してくれた。
「こんにちは、島田さん。すいません。しばらくご無沙汰してました」
「いいよ、忙しかったんだろう。ギターは持ってきてないみたいだけど、弦でも買いに来たのかな?」
「違います。紹介します。僕の友人の佐伯慎哉君です。彼が夏フェスのオーデションに参加するので、ギターを買いに来たんです」
「明峰大の夏フェスに。それは凄い。今はどんなギターを使ってるの?」
研人が島田と呼んだ店員は、夏フェスと聞いて興味を感じたようだ。
話していた客に断って、近づいてきた。
「ギターは持ってない。だから買いに来た」
「持ってないって、弾いたことはあるんだろう?」
「一度もない」
「ないって……」
島田が絶句した。
「ガッハッハ」
先に来ていた客が、大声で笑い始めた。
「お兄ちゃん、面白いなぁ。夏フェス出るなんて言わないで、素直にギター始めたいと言えばいいじゃん」
「いや、私は夏フェスに出ることが目的で、ギターはその手段にしか過ぎない」
信長の言い方に、客が切れた。
「おいおい、ギターなめるなよ。初めての奴が人様の前で、弾けるようなものじゃないんだよ」
島田が慌てて間に入る。
「まあ、吉永さんも落ち着いて、プロのギター演奏見て、自分も弾けるような気に成ることはよくあるって。君も、一度実際のギターを弾いてみればいい。亜美ちゃん、スクワイヤ―のストラスキャスターモデル持って来て」
亜美と呼ばれた女の店員は、ネック側のボディの形状が角型になっていて、ピックガードの大きなギターを持って来た。
「これはフェンダーって有名なギターメーカーの傘下ブランドで、スクワイヤーってメーカーが出してるギターだけど、フェンダーに似たサウンドとフィーリングなのに、初心者でも弾きやすい設計に成っているからおすすめだよ」
「少し弾いて見せてもらっていいですか?」
「えっ、自分で弾くんじゃなくて?」
「弾いて見せてください。できるだけ難しいテクニックを駆使して」
「分かった。じゃあ試し弾き用の部屋に行こう」
Beckは小さな店だが、ちゃんと弾いてみたい客のために、防音完備のスタジオがあるようだ。
「店長、ちょっと待って、俺が弾いてやるよ」
吉永がギターを奪うように手に取り、先頭に立ってスタジオに向かった。