第3話 秋の雁風まだとおく

文字数 6,296文字

 サクラやカキ氷、月、いずれかがあるように、冬にも冬らしさが求められる。その理由を説明する間もなく、彼女が目から涙を零し、キリと上がった口尻にしたたり、私の虚言を窓の外に追いやった。しずじずと翌朝のための霜が下りてきていた。

 部屋には二人きりだった。あまりの唐突さに手に持っていた出前で頼んだピザを箱ごとひっくり返してしまった。彼女が泣いた。テトラポットからの飛沫が冷たい石壁に影を作るように、ツツーっと、言い分は理解できたが、納得するのにも納得させるのにも今現在この場所では土台無理だった。

 すぐに水滴の乾く季節折でもなし、風が吹けば風見鶏が向きを変えてしまうのにスプーン一杯の億劫から安直に私は彼女の頭を撫ぜた。彼女は泣きながら他に何も欲しがらなかった。〆切り前、外出の予定はないので構いやしなかったが、二十分はそうしていた。

 旅館から持って帰った桜の枝ももう死屍累々の一端、二人の間に割り込むには月よりも遠く後二十年は掛かろう、子どもの手垢の懐かしさ、絆創膏で覆うことなく只明日の風なれ、指を折って数える、何ヶ月か前、バラの花束を何輪で誂えたか、(彼女の言う)彼女のバースデー、刺を抜き彼女の居場所を新しく再構築すべく、手招き、楽しい話をしようよ、嘘泣きなんてする女じゃないことぐらい分かっていたし、このままでは私の分の悪いことも飲み込んで胃に臥させ、

「私は誰?ここは何処?」
「アタシのマエのアナタ。コノ世界ノ住人。ダイジョウブだから。ちょっとダケこんなキブンになったの。へへ」

 そして彼女はベロを出した。彼女だから彼女らしく笑った。やっぱり彼女だった。もう、一人で生まれて一人で死んでいく、夕暮れの虚脱も懐かしさも忘れているようだった。涙の源流は、「四季の移ろいが醜くも想えて(Because four seasons have four loves in vain)」、だった。

 彼女の不貞腐れ、寝耳に水の天変地異は、同義で独占欲、それは元々私の専売特許だった。もやのかかった記憶に思い当たる節を探すなら昨夜の国際電話の内容だった。私は気兼ねなく彼女には伝わる範囲で何でも話したが、それがこの案件の失敗の種となるとは思ってもみなかった。

 昨夜の私の友人からの電話、
―――五年前に街角で、最終的には交番の場所を教えた以来のペンパルだが―――
用件、質問は、
「善良な市民はいますか、いるとすれば何処に住んでいますか」、とのこと。
隣の女にも聞いてみたが、I don’t know.、紅茶が苦かったので、地球儀の値段を説明してそのまま電話を切った。女はアマレットを探して、
「結婚相談所のことだったんじゃないの、あるいは。」
気にし過ぎだよ、物足りないが紅茶生のまま構わず含んだ。この国の日本語学校は優秀だ。棚の右の小麦粉の裏、ピンク色の液体、Amaretto「Di Saronno」と伊語表記のある、そうそれ。女は得意気に微笑んで見せた。取り出す時に小麦粉が袋ごと床に落ちて部屋に白風を塗し、咳と笑いが絶えず充満し、お互いの顔に塗りたくった。乾いた粉が目に染みるのに笑った。

 幾分前の湿り気も何処とやら、コップや洗濯機も粉まみれで、アマレットの味も忘れちゃったね、ううん、呑んだ事ないわ。もう寝よう、今晩は寒いから明日の朝に窓を開けよう、カーテンレールを軋らせ、街灯と室内灯を隔てた。

 不可解な夜だった。スースー寝息の隣で〆切が間近だというのにペン先が紙面をうろうろ覚束ず、椅子の座り心地が悪くてベッドに横たわる。時おり彼女の魘される寝言、耳の奥が痛くて、俯せになって、枕の匂いだけは呼吸を落ち着かせてくれた。

 数分前の彼女とのキスも、針の少し曲がったレコードから穏やかなソナタ、脳裏にいつかの台詞「雪はまだ降らないね」、消灯三十分後、私だけ起きてトイレで咽せた。今晩に限らず腑に落ちないことが多々懐かしくて、今晩食べた物の記憶に省みた。こういう場面ではお互いに何かしらの合図を共有していた筈なのだが。

 シャツで口を拭いながら部屋に戻るとテレビが付いていて、彼女はソファで足組んで寝転がって、私の携帯電話をそれしかないようにいじくっていた。気にし過ぎだよ、頭を掻くと、彼女は台所に行き換気扇の下で煙草ふかし、天気予報の信憑性、喉が渇いた、どこかで拾った紅葉の栞、唇を二度舐める、その潜在意識は口づけの渇求、台所で湯を沸かして、その後にアマレットの紅茶割りが出てきた。

 作り方はてきとう、紅茶を冷やさず湯気が波打つ、それはそれで愉しんだ。甘いカクテルに冷たいピザ、明日の朝って言ったのに、窓を開ける、そう、それは合図だった。
 言葉が上手く伝わらない、どうしても伝えたいことがあって、全部は無理だから、意を察するに色んな物を借りて、何とかかんとか埋め合わせる。昔その当時からの習慣だった「窓を開ける」。煙草のよどむ纏わりつくような肌寒さが続いている、数週間前から、停滞前線、いや何故季節はここぞいやらしくゆっくり巡る。

 肌寒さがうら寒さ、仄暗い部屋の中でストールを一重多く巻き、ヤカンは冷めてペコン音鳴らし、窓サッシ小みぞれの入り乱れ、外のアベック小声で傘が無いシチュエーションも背景に叶えた。
 私の下唇と彼女の上唇の接触が事済むと、彼女は何を納得したのか、すとんと「窓を閉めた」。タバコの煙が天井に蔓延し、逃げ場を失い目が痛むのに、素知らぬ顔で、子どもをあやすように頭を撫でて顔を覗きこむと、
「ヒトリではなかった、アナタがいてくれたおカゲで、季節がイソガシイ、巡る。」

 深夜、通りをジョギングする人や犬の散歩の足音が次第に地面にしんなりへばり付いて、秋に置いてけぼりをくらった二人は窓に吐息を白くし、エアコンの調子の悪いのを昨日から続く二日酔いの気だるさのせいにした。明日、フィルターを掃除しよう。この時には眠気も前日から続く手持ち無沙汰となっていた。

 彼女は沈黙の中、机で苦悶する私の後ろをうろうろしながら、時たま原稿を覗き込み、へらへらしてはプカプカ煙で遊んでいた。さっきまで眠かったでしょ。

 欠伸の度に、眠たいなら眠っていいよ、依然としてエアコンの調子も悪く寒くて、私がその時書いていたのは夏が舞台の短編小説のうちの一篇、小題を「暮れ難きは憎らしき」と囀り、思い出すことにいつしか慣れてしまった自分が、ペン先が、無理に来夏への期待を原稿にインクを乱れさせ、ああ、君のことを、出不精の憂鬱や雷が落ちたような金縛り、何て云ったら良いか分からないよ、彼女の指の煙草を盗み、一吸いして彼女の口に返した。彼女は私の口に付いたルージュの欠片を、へへ、と言って親指で伸ばすように擦った。


 「暮れ難きは憎らしき」

 入道雲が頭上で暴れだす前に、眺められる距離の内に、唐突に「海に行こう」、思い付いたが先か、彼女が大家さんからスイカを貰ってきたのが先か、辻褄を合わせようと夕涼みの散歩のついでにデパートの水着売り場に入る、日曜日だった。

 私が気に入ったのはバーゲンで半額のワンピース、色取り取りのドレスに彼女は興味ばかしで自分が着ることを考えていない。テヘテヘ笑って、買い物をしてその後食事をして、電車に乗って、観覧車で一周してもまだ笑っていた。

 寝て起きて、私の友人の初盆、日帰りにすると長旅で、その帰りも満面の笑みで出迎えた。腑に落ちなくて、「何がそんなに可笑しいの?」尋ねると、「アナタといるから」答える。長い夕暮れ時だった。私はペーパードライバー、その免許証の写真を見ても笑っていた。私がいない半日の間、彼女は玄関と部屋の掃除、洗い物や原稿をページ番号順に並べて、「できました」と言った。

 いつまでもいつまでも変わらない街並みに新たな風物の生まれ出よう夕暮れ、彼女はいつまでも私の傍に居る筈だった。私はさながらドサ回りのトラックに置いてけぼりにされたピエロの様で、早く日が落ちて、夜にでもなれば月のスポットライトで少しは見栄えもするのだろうのに。

―――無口な手品師はシルクハットの得意げの中に、去春の木漏れ日の中に見える幻惑錯視の夏の散歩道を、噴水に小石蹴飛ばして後ろ手組んで向こうからやって来た。鼻唄だった。女の口紅の付いたハンカチーフを胸ポケットからだらしなくさせながら上機嫌で自慢気だった。

 夜を越える峠を詠うなら、なかなか抜け切らない昨夜の酒にひとつぶの涙を頂戴し、いつまで穏やかな夕暮れが続くのか尋ね、「まだ花が咲かないね」、月下美人の言葉なぞらえ、待てども来やしない墨汁の暗幕の内に彼女の屈託のないネタばらしに際悩まされて、白く青く丸かった空、黄金に神々しく、オレンジに灼かれて、紫がか細く長く立って、ようやく歳を取ると思い出話にも聞こえよう、
「さっき波間に唇の少し上で、『好き』、と言いそうだったね(ああ、若しくは、言っている、ように聞こえたね)」、
巻貝を耳に当てながら大海原にこだまする電波をどこか拾って痴話喧嘩もやり過ごす、ソーダ水の泡はこの夏だけのもの―――草稿・抜粋

 彼女は自分の過去について口多くはしない。常に笑顔と笑い声で済ます。だから不可侵の領域であろう、私は今ここで彼女といるだけでもそれが順を追って色褪せていくことや、もう彼女が目の前から消えるなんて焦燥も、地平線の幾乗のことであったと、連作に勤しみ、小声のテレビから彼女の大笑いに至るまで、満足げに鼻をインクで汚した。

 次第に彼女の日本語が上達していくのにも小遣いをくれてやるのにも、朝の歯磨きや寝言の返歌、これまでの哀しみや箸が転げても、マドラーが見つからないとか、今朝の新聞は何処とか、うたた寝の夢のように静かに風はかろやんだ。

 彼女は袖口を濡らして、ばか、と呟いた。誰に向けてか言わずとも、その意味に、ゆうべはキスもしていなかったっけか、当たりどころの無い咥えススキで、寄り添いセーターごと抱き寄せた。
 彼女は腕を振り解こうとした。笑顔の中では奥歯が軋んで見えた。ゆっくり、国語辞典の「冗談」の冗談たる意味を、自分に宛てた悪戯なのか、時機外れの風鈴がエアコンに鈴鳴りして、気を取られ、その間に彼女は私の胸を離れ、ソファの上の衣服を寄せて自分の居場所と、灰皿の置き場所をこしらえた。ばか、とつぶやいた。

「明日はデートにでも行こうか?」
時計を気にして、
「行くなら明日ね」
「お腹は空いてないかい?」
「いいえ、そう、どちらでもいいわ(What is depends on after drink something else.)」

 手で叩けばエアコンの気紛れ、突拍子もなく窓際のカーテンがふらりと、知り合いの幽霊が出るのかも、拍子木を打つ乾いた音と声の裏返った酔っ払いのなおざりな火の用心、壁のメモ書き達がぱらぱら、ひんやりした床に着地点を探した。

 一枚を手に取ると「探偵は知ってはいけない。または自分のみ知ることに没頭してはいけない。ワトソンこそ物知るのに必要な才覚を持ち合わせた無能。通り過ぎた犯人を見つける条件は客観的主観に彼を引き合いに出すことである」もしやこのことか。

 善良な市民権を得るのであれば特別な才資に恵まれるのではなく、テレビを見たり新聞を読む、日常の得手に為ればこそ、この女とも夕焼けの真ん中、夜に焦がれて待ち侘び、煙草税や酒税の背伸びを柱に目算しながら「いつか」を怖れるのが明日ではなく本日必要なことであったと。
彼女に尋ねたのはその意図があって、

「まだお腹は空いてないかい?」
「まだね、そう、どちらでもいいわ(you have never known it, yet.)」
―――Opened the window again.
「でも、明日には空くかもしれない(When does that restaurant open ?)」


 昨日は昼飯後、近所の寂れた商店街の駄菓子屋で買い物をした。昔はこういう店がどこの町に一つは在ったんだよ。そして、でも、チェーン店ではないことを付け加えた。雑多な店内の商品に目を輝かせ興味津々の彼女は声を漏らしながら指差して説明を求めた。次から次へと答えが出てくる自分が不思議で、ひも付き飴を舐めながらの発音も彼女は聞き取った。彼女が手に取ったのはお誂え向きの玩具、ふわふわ風に流され、脆く、映し、透かし、消えて、懐かしい。

 窓から外にシャボン玉を何度も吹きかけたが吹き戻りの荒くれの風に促され、サッシや衣服が泡だらけになった。女はにこりと笑い、寒い(Cool kidding is for us to talk with)、キスをせがむと恥ずかしそうに、そして飽きて、アマレットの瓶を舐めて更に唇を甘くした。次のキスまでの間、煙草の箱をカラカラ鳴らしポケットの小銭をチャラチャラさせた。買ってこようか、いや行くまい。女は咳を二つ。血の匂い、鉄の硬い匂いが部屋に充満した。そして言葉の不自由もうやむやに流れ消えた。

 彼女の破天荒は秋の空模様に似ているな、この前手渡した小遣いで女は煙草をカートン買いしてベッドの下に散らばせておいた。夥しい数、私の吸う銘柄も、だ。死ぬなら早く、生きるのなら死んだ後の線香にも、親切の強要が腑に落ちるまで煙草三本と半、思い付いたように、
「この話はここだけの話、小説にはなりゃあしないよ」
彼女はクスクス笑って、一間置いてゲラゲラ腹を抱えて笑った。隣の部屋から壁に重い音が響いた。今何時?、午前四時のあぶく酒、くしゅん、と女が間を拵えたので、最近覚えた日本語は?、「あっち、こっち、ふゆ」、それ以上も緯度は収縮を見せなかった。しとやかな先の見えない霧雨ミゾレだけが静かに喉を洗ってくれた。そして冬を収縮させた。

 何か日本語を教えよう徐ろに手に取り開いた字引きに、ラインマーカーの蛍光が塗布してあり、「ふつつか」、覚えはないが、私はその言葉の意味を知っていたので泥酔していようとそんなイタズラをする訳がなく、隣で眠気にとらわれた彼女に、

「引きたがりの風邪かい?(Cold, is this your pen?)」
「うん、ううん。あなたのせい(well, well, a joke for yours.)」

 小説の題材と云えば色恋、青春、根性、虚無、サイレントマジック(心理・推理・暴力)と決まっている。しかし其のどれにも当てはまらない、乾いた風が指先を去らい、もう少し、もう、一寸だけ、指一本の距離の紛わんとした。女はしれっとまたタバコに火を着けそっぽを向いた。

 それが当たり前のように、黙として凛として、僕が君に冗談を言う理由、あみだくじだと2分の1の確率で余計な道程を辿る、「右向いて」と言うと女は左を向く。こっちから見て右だよ、笑って咳き込んで、また同じ失敗を繰り返そうとした。
「美しい横顔だね」

 この季節には決まって女は泣きながら笑う。四季の巡るのに一番気の滅入る我慢強さや、脆弱な克己心をひた隠す、思わず縋りたくなるような嘘吹いた季節だからであろう、ハンカチは重く、彼女の憂鬱の手助けになればと、窓を閉め、明日は水族館に行こう、二人ソファで煙草と煙草の匂いを融け合わせるように明かりを消して手探りでお互いの不足を探し合った。

 そして何の杞憂もいらない朝を出来るだけ気長に待った。長く退屈な秋と、静謐なる冬の丁ど真ん中の特に何も気にならない一と夜であった。新聞配達のバイクの排気がララバイとなり、お互いにキスの甘さに満足して眠りついた。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み