第4話 雪月花のうとましき

文字数 5,860文字

 年の暮れ明け用に買い溜めておいたワインが切れた。買いに行くのに彼女を誘う、ついでに書きかけの婚姻届があると告げた。そういう決断の時期も、また諦めの朝も、今の君には未だ事足りていないんじゃないか、法律の力は時に冷酷に、切に親切に、僕らの未来を現在進行形のまま押し進めて行くんだ。そういうお酒も飲まないかい、煙草は乾燥した喉に痛い。モノローグの後、言語の難しさから女は椋鳥のように首を傾げた。

 正月気分もテレビの喧騒が止むと懐かしくなる。毎年のことになるが、酒の抜けてくると浮かれた声も次第に沈み、ああ、今日も〆切と、編集の辛辣な批評メール、コーヒーの飲み過ぎ、実家に電話を掛けようものならいらない心配ばかりかける。

 パスポートやビザが必要になってくる。そう付け加えると女は、もう必要のないもの、朝にはコーヒーを飲んで、零して汚して、もう捨てた、自分で苦笑しているところを見ると半分は事実なんだろうと悟った。この紙片の重要性を、英文で噛み砕いて心に訴えかけるような表現をしてやる必要がある、日本の四季の移ろいゆく時季を事細かに丁寧にワインのソムリエのように講釈し酩酊させる必要がある。そこに韓国焼酎の甘さがあれば尚の事、この国の水の豊かさを喉に理解させる面倒くささも買って出る。

 雪化粧が歩き難さ、寒さが呼吸の清々しく、ウォッカが遠い国の絵本、南半球への羨ましさ、君のいる場所がこの部屋でないのならいつまでそのヘラヘラ笑いが私を束の間の幸せにするのか、カレンダーはこの部屋に一つしかないし、君の歯ブラシを間違って使ってしまうこともあるよ、ここで彼女が私の話を遮った。
「約束は叶うまでが約束」。

 夜の茶番も沈み、やがてベッドでスタンドライトに頼りながら会話に勤しむ。女が眠るまで自分は眠らない。少しばかり遅くまで起きているのが得意だったし、昼夜関係なく筆を走らせるのがノイローゼの活躍だった。しかし女がなかなか眠らないでいると不安だったし、隣室の音楽が五月蝿いと小憎にペンをガツガツ鳴らして原稿をこさえた。

 この三夜は雪がこれでもかってくらいに降りしきった。轍もすぐさま凍り、また柔らかい雪に埋ずもれる。そういう夜を三日過ごした。彼女の背中は雪山よりもなだらかで、指でシュプールを描くときゅっと張り詰めてまた柔軟さを取り戻す。静けさに耳が過敏になり、真っ暗闇でもお互いの安否の確認を取れる。
 朝、カーテンからの漏光は窓際の灰皿のみを時計代わりとし、キスの数も、散らばった紙クズや湿ったシーツ、腹が減ったらそれを掻き消すように、またその食欲の充てがいとしてお互いを求めた。

 ベッドが窮屈で、髪を掻き毟るように撫でると、こごえたカラスの声、目が覚めると自治会の拍子木の無意義、エアコンは喉を枯らし、搾り出すような囁きで
「I have been in your dreams yet.」
どちらの台詞か判らないまま、
「夕べ夢の中で夢を見たよ」
ワイングラスが遠くて、縮小の地図上で手が届かなくて、
「チリ産だっけ?眠れなかったんだ。」
女は毛布の裾に口を埋めてくすくす笑い、
「さっき、いっぱい、飲んだわ」
連弾のノクターン、夕暮れにはショパン、朝起きればどちらがコーヒーを沸かすか、シーツを取り替えて、吸い殻が灰皿に溜まるとそれでジャンケンをする。寒さに手がかじかみどちらからともなく手の甲と平を擦り合わせる。

 ビニールに入った朝夕刊は七束、ポストから崩れ落ちそうになり、いつも見る配達自転車の青年は防寒具を重ね着していた。鬱々とした曇り空が日中の時間感覚を麻痺させ、コーヒーの時間なのかブランデーの時間なのか判らず、その両方を交互に口に溺れさせた。唇がヒリヒリして喉が伽藍堂の中に火を炊いているようだった。

 またしばらくカレンダーが怠けていた。グラスの斑が壁にうなだれ、アーアー鴉の蛙声に似た咽び声傍らにむくりと起きた。女は私の眼鏡を床台から落とした。ひらい、額に茹だる昨夜を疎雨する為に、外に出よう、と思った。けれど口にはしなかった。女がテレビをつけたから。番組の内容から現在時刻を透かし見た。深夜二時、そう当たりを付けてカーテンを開けた。真紫のビル群の奥行きに夕陽の残照が小さく煌めいていた。日がひっちゃかめっちゃか暮れる、そう言うと女は洗面所に向かった。

 テレビは色気のない天気予報、晴れのち曇り、ところどころ雪、東京、乾風、赤と白のイルミネーション、テーブル上食べかけの去年の売れ残りケーキを哀れんでチャンネルを変えた、透き通った窓ガラスに吐煙。女が化粧を施したので、ああ、こんな日は外食に限るな、燻っていた煙草を揉み消した。灰皿が一瞬火照り、その後は冷たかった。ケムリ残りが床に沈んでいった。

 行きのタクシーの中では彼女はうつらうつら、時間感覚の平衡の崩れ、慌てて施した化粧、腹の音の佳境に、私に似合いの女だ、くちびるを髪に埋めて囁くと、くすり、と笑って私の首筋の香水を嗅いだ。聞いているのか聞いていないのか、私が小さな冗談を言う度に吐息でくすぐってきたが、車内の暖房のやって来る眠気に、私もいつしか数えられなくなっていった。運転手は静かで美しい声の持ち主だった。こちらの気だるさに適った、小学校の教師を思い起こさせる口調だった。コクリと船漕ぎ目覚めると人疎らな歓楽街、彼女は足がもつれて私に寄り掛かり、私は寒さと決意のために彼女に寄り添った。

 レストランはなるべく落ち着いた地味な店を選んだ。ソムリエも余計な解釈を入れず、二人で味を論評するに、代金の払い心地さえ良ければ、その後の足取りも軽く、私の目的を達成できたかもしれない。彼女は店中央の大きなクリスマスツリー、時季遅れで仕舞い忘れの樅の木を、眺めながら私の話は衣擦れのよう、上の空の遙か上、スープが冷めてワインも温かくなり、来年も来よう、彼女は黄昏の充分、私が食べ終える頃にやっとナイフとフォークを掴んだ。マナー講座は一通り済ませてあるはずだが、幾分言葉の上手くなく、狭いテーブル上を私を介さずに食欲のまま経過させた。デザートの苺シャーベットは一緒に摂ろうと決め、勝手に決め、いつの間にか行儀の悪さが私にも伝染り、テーブル端に肘を立てた。

 もう子どもじゃないんだから、ツリーは睫毛に任せてワインよりも芳醇な、そう、キス、メインディッシュの後は煙草も許される、いつにする?いつ?と聞くとそれが何時からの「いつ」なのか、口を丸めながら、いつ?。

 不夜城の帰り道に歩道があって、うろうろ車をすり抜けて道路を横断、一寸進めば区役所で、意味が分かるかい?って聞くと、ワカル、ラーメン屋を過ぎて真ん中の広場、ぐるりとパノラマ息を止め、一番シンプルな方法が彼女の返答を唇で遮ることだった。そう、そうしようとした瞬間、彼女が雪に滑って後頭部をしたっと地面に打ち付けた。
「アタマがくらくらする」
「おいで」
ヒールもまともに操れない彼女を二十四時間営業の婚姻課まで連れゆくのは造作も無いこと、自分の印鑑の心配だけは数日前からしていたので、ジャケットの右ポケットに象牙が待機していた。その有無ではなく、YES、初めから彼女の杞憂も自分の希望的観測も、正装がそのまま式場まで運ぶように、レストランでワインを呑み過ぎた、タクシーは割増、肩を貸すのも女の腰に腕を回すのも、なるべく焦らず、ただ一つだけ許された恋愛市場の自由、街には似たようなアベックが、土地柄、順番を待っているようにうだっていた。

 冬だった。雪よりも煌びやかな結晶がここに、女の謂う、約束、の行方を探し続ける内に知恵が回り、自分と自分の気持ちだけ愛するように冬の冷たさに仕向けられていた。寒い、だから女が嫌がるのは致し方のないことだった。
「辛いラーメン」
「ケーキはまた帰ってからだね」
向こう静かな雲まだら、仄明るい東京の夜色、是色故なれ、さっきコンビニで買ったキウイ味の缶チューハイでの乾杯をすすんで後回しにし、後部座席、女がうなだれながら男の膝に頭を任せるのを此処ここぞかと待ち構えた。

 街にはバーゲンセールの看板が名残り、落ちているチラシが足あとの横で滲んでいた。タクシーをあと3ブロック走らせて、取り敢えず走らせて、気分の良い時に家に着こう。気が滅入るのも自分のせいだ。納得の内の己の領分をいつかは彼女に知らせたい。歯痒く、キスとダンスと、順番が前後しようとも、必ず彼女は私の元へ。そう信じてタクシーのメーターを気にするのを辞めた。

 頭痛が治まらない。そう言って女はタクシーのシートで私の膝に耳を押し付けた。脈拍を聞くにも、私には自分一つの感情と決断しか用意していなかった。朝になれば手遅れ。今夜中に本心から女を迎えるべきであったが、ぽつりぽつり、雨音の始まると開幕の狼煙、小指結んで親指を押し付けた昨日の行方があまり歓迎のされない未来だと躊躇せざる訳にはいかなかった。車窓からの風景は涙雨、いつしか雪化粧に変わっていた、深夜、零時を越えると向かい風が強くなる。だから
「窓を閉めてください」
と言った。窓は閉まっていた。冷たく悴んだ手に、でも言わずにはいられなかった。彼女は、雪が見たい、と言ったが、未だ私の膝を口紅で汚していた。もうそこ以外にいられない、ズボンをぎゅっと掴み、もう一度、雪が見たい、と言った。雪のシャンシャン音が聞こえて、束の間のはずの温もりがこれ以上ないくらい、穏やかに野原に風が広がって行き、雲の眩しさや枯れ草の侘び寂び、子供の頃からずっと胸の内に仕舞っていた思いが喉から自然に離れた。

 一緒にいよう、もう一時だけど、日や月の傾きからもう頃合いだと思うから、泥のご飯だって食べられる、雨の中の傘や竹やぶにトタンがぶつかって、君の言う憂欝は小憎たらしい四季ってものが目まぐるしく舞う風みたいに、更には小憎ったらしくおやつの時間ばかり気にして、今此処にいる僕はそんな、そんな「君を少なからず想っている」んだ。

 言葉も想いも半分も伝わっていないだろうが、膝の一点の冷たさがもうどうにもならない、日付変更線、粉雪は雨よりも風に近く、タクシーから降りると自宅の窓にはカーテンから十年後の笑い声が、二、三人やって来て、手を繋ぐにも冷たい手で雪だるまを温めるようなものだった。そして此度のプロポーズの返事は今から作戦名を考え、機に委ねるしかなくなった。

 女は玄関から下駄箱、部屋の鍵を置いてスキップ、食べかけのケーキ、「ただいま」と言った。だから「おかえり」と言った。『ただいま』と言う唇の感触が気に入ったらしく、また「ただいま」と言った。そして彼女を後ろから抱きしめ、「おかえり」、と言った。

 何年前のことだろう、君が割り箸で、私がスプーンでご飯を食べたのは。厳密に数えると四百三十五日らしい。その答え方が可笑しくて、笑いながら彼女を抱きしめ、占有物、あまり強く抱きしめると折れそうで、まごついた口から出たのは下手くそな「へへっ」だった。そして真似をした。繰り返しキスをして、飽きたらタバコに逃げ、十五分の言い訳を舌に確かめてテーブルの上に私の鍵を置いた。強ばった身体から自由が逃げていき、行き場所を失くして元に戻ってくる。

 その繰り返しはこの小一年を秋の木漏れ日、赤とんぼがゆうくり羽ばたいて、夏の氷菓子、一人では多い、残して、春の子守唄、幾許か前の眠気が今やって来た。そうだね、君には冗談もまだ分からないね、そして傷付く私の気持ちも、薄れかち沈んでゆく浅はかな希望も、十分には事足りてなく、此処で私が笑うのも彼女の花火のような笑顔の導火線の役目を果たせれば、ソユーズ、アポロ、月は近く、恒然とした太陽、理由を尋ねると、うちはここ、言霊の「ただいま」は今一度のキッスを甘く味付けし、無理して笑うのも疲れたから彼女に恨み言を伝えた。
「ラヴ・ソングばかり歌っていたよ」
「いつの?」
「紀元前、もっとずっと昔、アダムとイブ、人が林檎に恋する歌さ。そして君は知らない」
「ふーん、んんん」
靴が上手く脱げなくて、不安と気持ちが逸り勝手にはめた指輪が冷たく絞まって外れなくて、もし彼女にその気がないのにコチラばかり早合点、恥と云えば去年彼女が勝手に家を出ていったのに釈然とせず帰りを待っていた手前味噌の愛情の様なもので、見様には紳士的なネクタイは飾りだったと思われることだろう。遠くから終電のレール音が聞こえる。行く先の分る人生なら作家にはならなかった。

 どうしても教えたい日本語があって、「家に帰る」、当たり前だが婚姻の得手は女が口紅を塗るのを手伝いながら、今日はどの服を着ていく?、無言で、指を差した方向に私が昔プレゼントした浴衣が壁にぶら下がっているーーー
 こういった妄想も、飲み込んで選び抜いた言語を用いて発語しないと、彼女が部屋の片隅で煙草飲むのに、日本の新聞紙を与える朝より飲み合わせの悪いものだ。

 一抹の不安がよぎった。アダムとイブ?、彼女の人知れず向学心に際限がないのであれば、いつか(eternity after tomorrows)、聞こえぬ足音に怯え、今宵の早とちりが彼女のタバコに火を着ける数に天文学的数字を持って期待するのに、答えず、乾風の音を聞き分け、寒さはそっちのけで開いた窓に腰掛けた。日本が好き?、雪を待つ間、月の満ち欠け、冬に咲く花もあれば、無論、いずれ春に咲く花もある。ソウルにも四季はある。数えると確かに四つ。そう言って女は窓から足を外に出してぶらぶら夜風を掻き乱した。

 季節風には他の謂れもある。変化、ではなく、ひと繋ぎ、輪廻、ともすれば君には僕がいて、僕には地球を一周して君が居るんだよ。ここに居るんだよ。羽毛の温もりは束の間の安息、女のリップスティックが転がり、春のざわめきや夏の喧騒、秋には目にも新しく、ほらごらん、一年前にはイナカッタ君が、煙草の代わりを探して私を、冬、悴む手が四つあることに満足し、温かさを蔑ろにするに、掠るだけのキスの回数を増やした。
 黒いカラスがカア、と啼いたが、それもいずれ来る春の闇に虚窓のぬくもりを纏い、窓を締めるのに女を抱き抱え、princess、キスするまでは目覚めないで、拙い英文で彼女の言語を奪った。

 彼女は困ったようにケムリを口移し、顔中まんべんなく緩ませて笑っていた。その空虚な可笑しさと、あてどない温もりを唇伝いに私にも教えてくれようとした。
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