第6話 夢の到達点/ウスバカゲロウのおどりつかれて

文字数 4,654文字

 陽気の天に仰ぐ、コーラやソーダ水の需要、麦わら帽子、今年最初の夏日が今日、それは桜も蕾開かずにはいられまい、慌てて、一人で一年間、君と一年間、彼女が花粉症で喉を痛め、深呼吸するのに思いも寄らない結末が迫りくるのも邪推せず、ピクニックバッグを準備して、近所の子どもたちがパタパタ通りを走る音、さあ、今日に限って嘘や悪い冗談はよしておくれよ、冷たいワインとビールを数本詰め込んだ。

 約束が叶う。メンソールのような鼻に清々しい緑と、春が風に息づき、道草やご近所さんとの挨拶、日傘の横行し、汗ばんだ身体をあっという間に乾かす春。天が抜けて遥か彼方の開放感、脳天から放たれるように「ハレルヤ」と叫んでしまった。彼女は咳に苦しくて、でも笑って「ハレルヤ」と続いた。荷物は私が持って、彼女は時たまスキップしながら新宿中央公園まで鼻唄を途切らせなかった。いい気分だね、アー、こんな日は、待ちに待ったこんな日は、君の笑顔の意味が分かりそうな気がするよ。もし明日、地球よりも大きな規模で宇宙よりも不明確なもののサイズで消滅が起ころうと、笑って過ごせられる、君と、私と、えんぴつ、スケッチブック、酔い加減に冗長し、「愛してる」って無頓着に大仰に叫びたい。

 カンカン照りのなか日陰に隠れる人々、周りを気にせず大手を振って悠々と歩く。大声出したって、急に走り出したって、警察の職務質問も怖くない。子どもに後ろゆび指されても、クリーニング屋のおじさんが仕上がった冬物を取りに来いって言ったって、今この時、歩道を歩きながらいつまでも夜や、その肌寒さも気にもせず、シャツ一枚びっしょり汗掻いて、ビールが温くなる前に君を桜の木の下へ、その散りゆく沙羅双樹に戸惑うのも色の得意、さっきから話すのが私ばかりで、鼻唄が止むことはなく、いつの間にか私も鼻唄を真似して、セピアの夢の晴れ舞台、ふたりぼっちで酒煽り、酔っ払った彼女は赤い顔で「約束の実現は一瞬で、あなたは永遠に私のもの(now, in your eternal dream. Just the two of us are.)」空き缶が気紛れな風に転がってカラカラ二人を囃し立てていた。

 さくらさくら、目が回って薄紅色の万華鏡、どちらが先に君を見つけるか、ランチバッグに詰め込まれた唐揚げ、割り箸割れば腹の鳴り、隣のシートの笑い声、子どもたちが犬を追いかけ、転んで泣いてまた明日、愉しいね?、彼女は目を瞑って公園の匂いを嗅いでいた。誰にも邪魔できない、彼女だけの滞空旋律、ゆっくりでいいから目を開けて。もう少し、もう少し、遠くで救急車のサイレンや、ハイウェイの排気が喉に痛くても、胸に込み上げる忌まわしき幼さや、これから幾重も廻らす冗談の答えを、いつか日本語で、笑えない杞憂に押し潰されないように、じょうずにじょうずに目を開けて。

 サンドイッチにオレンジピール入りのパンを使ってある。駅前のパン屋でパンの耳の揚げた物を小売していたのでそれも買った。マーガリン、気温に従順にとろけ出し、ワインも買った時や出掛けた時の上品さはなく、名前の付いている葡萄ビン、年齢では負けるが、色の深みでいい勝負、彼女はコルクの匂いを嗅いで大事にポケットに仕舞い、こころなし懐かしんでいるように思えた。公園の向こう側で楽隊が即興演奏、曲間が怖くて、彼女がその度に欠伸をし、私を涙目で見つめて笑うので、春の草花の胸苦しい匂いに、一輪の蒲公英の綿毛、散らばって、私が口元からワインを滴らせると、何処からともなくハンカチがやって来た。日が照るね、と言うと風が吹いたし、淋しいねって言うと、桜がざわめいた、聞いて、聞いて、話があるの、胸がね苦しくて、言えなかった、コト。

 彼女が何か話していて、私がそれを聞いている。そよ風が程よく前髪を揺らし、このまま公然とキスをしてしまったら、まるで恋愛映画のワンシーンみたいだね、照れ臭さからタバコの本数が増えた。日本語が上手くなった。私が勘違いをして酷く胸が痛み、それを春の闇のせいにして、何度も聞き返す。そう、嘘や詐欺、現実には見ぬいても許される範囲内の事で、そこに嘱しないばかりに私は日本語学校の有能さを恨んだ。「あいしてる」、上手く言えるようになった、「さよなら」、確か別れの時の挨拶だよ。暖かな季節、お酒が美味しく、話にも花が咲いて、リスのように頬を膨らませて食事する君を、「愛してる」。彼女は耳が痒いらしくて、ピアスを撫でて、コップに花びらが着水し、ハハって、てれてれして、私が何も言えないのを、言えなくなるのを充分判っていて、キミは悪い女だね、一息にワインを空けた。

 彼女は一年間、家を空け、戻って来た。いつの間にか日本語も話せるようになり、話せるようになった日本語で私に好意を告げてくれた。嬉しくて、心臓が飛び出て、彼女の心臓になりたくて、生きる歓びや、今日の穏やかな夕暮れ、思いのほか彼女ははしゃいでいて、苦しくて、分かるけど、致し方ないけど、よりによって今日、神の存在よりも彼女の言葉の方を信じるしかなくて、彼女は赤いワインを少しずつ口に含み、私の方を向いて、向き直して、「あいしてる」と教えてくれた。これが愛ってやつなんだね、少しだけ口が開いていて、息や常套句も洩れて、災難をくぐり抜けるように生きてきた自分が、今になってみっともなく思えてきた。彼女は闘っていた。人生を、すべての苦難や憤りも、悲しみ豊かな満ち足りた笑顔に変えて。

 彼女が「いい天気だね」、私は酒に酔い、風船がほわんと浮かんで、疎らな芝生がチクリチクリと手のひらを刺し、気を失いそうになるのを歯止めていた。西新宿の上空を飛行船が飛んでいる。指さして、何処かへ行けたら、一緒に、ずっと、私は息が苦しくて、咽び泣くように陽気を愉しんでいたし、彼女はもういいのに、分かったのに、私のことを大切に思っていると繰り返しお礼を言った。ワイン瓶の中の液体がたゆるのに、気味の悪さと不透明が混合して、周りに付いた水滴は誰か知らずの涙だった。

 他にも色々約束があって、変わった形の月が待っていよう、浜辺から見える入道雲、お祭りの賑わいや、雪うさぎを作ってあげる、こういった類の興味は何故かいつも約束になった。ひとつひとつ叶えていって、全ては叶え切れなくて、そうこうしている内に君と私なんて結婚するんじゃないだろか、淡い希望の種を植え、いつか花咲く偶像に閉じ込められる。彼女がコップに浮かんだ花びら一片摘んで、私の鼻の頭にそっと乗せた。ピエロ、そのジョークも日照らいの雲陰に、明日からは延と輪のように広がっていく物語が、筆も取れない糸の切れそうな私の心の命綱になっていく。そしてやがて目も開けられない眩しい朝が訪れる。

 最近書いた短編小説はファンタジーで、恋の媚薬と間違えて毒薬を愛する人に飲ませる、シェイクスピアよろしく、ジュリエッタだった。
 魔女は言う。「お前の心臓とその男の心臓、より美しい物を私によこしなさい。左右判らぬ恋に焦がれて焼けつく心臓なら食べて呪術の糧にする。そして大いなる慈愛で妖精たちの泉にお前の永遠の棲家を拵える。しかしお前が自らの心臓と男の心臓、傲慢にも二つとも手に入れようとするものなら本当は比べ物にならないぐらい高い代物だけど、糸くずのような人生を歩むつまらない媚薬をお前の心臓と交換してあげる。その薬で男の心を永劫に手に入れなさい。」

 特に何の変哲もないお伽話なのだが劇中舞台劇で、終盤で主人公・男が毒薬だと知りつつも盃を乾かす、女が亡骸にしがみつき、後を追おうとするも、致死量の毒が残っていなくて、呼吸が危うくなりながら傍らの短刀を自らの胸に突き刺す。ところがその短刀は舞台用の模造品で刃が引っ込んでは血糊が鳳仙花のように飛び散り花柄のビロードを汚すだけで、無論死ねる訳がなく、何度も何度も繰り返すが次第に滑稽さを極め、がっくりと膝を落として一人ぼっちの幕引き。閉じた幕の向こうから胸を引き裂くような嗚咽。その声を、はて、どんなふうに己に透過するべきか、作者がイメージの定まらないまま、観客の一人となった私が一声洩らす「まだマシさ」。

 彼女への愛は独善的なものだった。それ以上でもそれ以下でもまやかしは彼女を傷つけ窮屈な思いもさせるし、自分への嘘や企みも裏切られはしないはずだった。しかし平等に彼女の隠し事や含んだ笑顔が好きだったし、言葉が下手で、闇雲にお互いの位置を確認するのに身体をまさぐったり、キスにて言語を補ったり、部屋が狭いのは世界が狭いからだ、私には彼女の散歩を許すぐらいの許容さえなかった。あの仔猫は彼女の救い主で、広い世界を分け与えようとする塀の終着点からの使者だった。

 午前中に家を出たが、時おり囀る百舌鳥に目を泳がせながら、今度は此方へ、次はアチラへ、酒や肴、春風の突然、手をつないでいるよ、指を結んでいるよ、頑なに現実を拒否し、気が紛れるなら、呼吸が落ち着くなら、今、目の前にいる君にこのだらしない男の不甲斐無い申し出を、堰切って伝えることも厭わない、夕暮れを待ち、気温の程良い、とびっきりロマンティックな場面で、私は言う、結婚しよう、待って待って待ちくたびれて、今日こそは言おう。キミは、彼女は咳と笑いが止まらなくて忙しくて、聞いてるかい?、アー、僕は貴女と結婚したいんです、一人は淋しいし、辛い物も食べるから、上手に眠って、起きて君がいなかったら、彼女がいなかったら、目の前が真っ白になって夕暮れ道を探しながら、いつの間にかそれぞれ別々の理由で眠たくなるんだ。それは全くもって、後生、後生、ご免だ。

 待ち合わせでもしていたら、カップルが御機嫌ななめで不貞腐れて帰るのに、今日に限っては彼女が、うん、と言うまでこの場を離れない覚悟が足から土に根ざしていた。桜なんて来年も咲くし、幹や根っこの方なんて形はごつごつし、養分を吸い取るだけ吸い取り、上の方にだけ目を行かせ、他の季節は蔑ろにするなんて、私はいつどんな時でも君を愛してるよ、ずっとだよ、彼女は上品に日本語でお礼を言った。

 斜陽のオレンジ色に街ごと包まれ、落ちていく夕陽の間際、林の端に手をかざし一年前を透かし見た。何も手に取れなかったそれにくらぶれば、今に至って戯言を抜かすのはお門違いだった。洛陽に合わせ周りの人々が徐ろにゴミやシートを片付け始める。その風潮に逆らわぬようスケジュールなんてなかったが、彼女をどこかのパーティーにでもエスコートしよう、手を取った。しかし彼女は立ち上がれなかった。つかれた、と言うので、もう一度耳元で、つかれた、と聞いた。日が沈む前に、まだ鳥たちが啼いて、この公園時計のチャイムの鳴り終わる前に、彼女の分の幸福も、私の手に余る、もう気まぐれで彼女が部屋を出ていくことはなくなった。さも当然のように日常が過ぎ行き、振り返るばかりが人生ではないと、教えてくれながら、キミは何処へ行こうとしてるんだい?、彼女の手を握りながら、このマヌケな嘘を真っ赤な舞台から引きずり下ろすのに、躊躇の閑もなく、私はただ、ただ叫ぶだけだった。

 二年前の今日、私は悲喜の算盤を打ち違え、ここまでの哀れな自分を想像することなんてありやしなかった。彼女に今一度「愛してる」告げると、力なく、静かなる返答は永遠に私だけのものとなった。耳を澄ましても同じ静寂が何度も何度もリフレインして聞こえてきた。
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