第7話 パジャマ大脱走

文字数 5,839文字

 桜は散った。あれから雨が降り、風が吹き、夕立のような速さで花が去った。束の間の、温かく痛烈な思い出だけがいつまでもたゆたっていた。花瓶の切花が水分を吸い上げる、彼女は意識や、顔に生気を取り戻し、病院の白い壁に白いベッド、御茶を啜って、ごめんなさい、って謝る。涼風がカーテンを揺らし、天道虫がじっと此方を覗いている。謝られると何かばつが悪いような気がして、彼女が自分の病状を隠していたのは言葉不自由なせいもあるかも知れない、私があまりにも先勇んでその時機を与えられていなかったのかもしれない、いいよ、早く治して遊びに行こう。約束がある。叶えよう約束がある。

 空調がごうんと音を立てて、巧みに言葉尻を奪っていく。私には聞こえづらい発音を、全て都合の良いように頭に想起させる、四六時中言葉に羽交い絞めにされていたものだから、彼女だって言いたいことはあったろうし、またしばらく、いつのほどからかしばらく物を書くのを収めようと思う。日はまた昇る、然りワインでもバッグに突っ込んで世界中旅しよう、君といれば何も怖くない、彼女が目を細めて笑う、もう待ちきれなくて、回診に来た女医先生に
「退院はいつ頃になりそうですか?」尋ねると
「明日にでも、いつでも」と言うので
彼女に伝えると、おにぎりが草叢の坂道をコロコロ転がるような笑みを浮かべた。
「アー、あした、いつでも」
転がることを止めない彼女の笑顔はいつか地球を一周して、また此処に戻ってくる。そしてまた一周。
「あした、って何だっけ」
答えるのに咳払いをし、昨日から云えば今日、今日から云って夜中の十二時過ぎだよ、自分で言って些か困惑した。明日ってなんだろう?

 ここ三、四日ポケットに折り畳んで持ち歩いていた紙っきれだが、判を押すだけを待つに、彼女の姓の印鑑がこの国には売っていない。少なくとも昨日今日では見つからなかった。ならば拇印でどうだ、問題はないだろう、名の持つ言い知れなぞ泡沫の夢でしか、ないし、私の渇望する未来などそこには納まりきれないのだから。ジュースを買ってきて乾杯しよう。花瓶の水を替えようか、夕立には窓を閉めて、深夜こっそり抜けだそう、裸足でダンスパーティーだ。パジャマのままで一晩中踊ったら疲れてもいつでもどこでも眠れるじゃないか。

 彼女のパジャマは取り急いで揃えたシルクのパジャマ。スベスベで薄ピンク、特に飾り気はないが彼女の持つ衣服の中で最高額、財布の中身は空風吹いて、シャンパンの栓は固くて開かない。病室の隣のベッドで老婦人がコホンと咳をする。それが引っ切り無しにコホンコホンと続くので、縦続する不安に堪えられそうもなくて、先生は明日って言ってたけど、出来れば今からでも、君がスリッパを嫌じゃなかったら、看護師の目を盗んで、点滴は引っこ抜けばいい。靴は?と言うので「家にある」と答えた。

 彼女が目を覚まさなかった三日間で彼女の預かり知らぬことが増え、入院に掛かる費用の概算と、彼女の私物はいつか戻ってくるであろう自宅に運び、気負わせることなく、素直に痴話喧嘩の種になればいい。コーヒーには砂糖、緑茶には和菓子、この不機嫌には花束、不貞腐れて頬膨らましキス。順番さえ間違わなければ殊静かにバージンロードを二人で歩くことも、誰も、他には誰もいない結婚式で、誓いを立てるのに、彼女のニヤつきの行く末の所有権との優越でタバコも幾分甘くなろうに。

 「あした」出店の金魚のおまけ。

 ああ、そよ風を迎え晴れやかだ。彼女が、写真を撮ろう、フレームに必要な人数は二人、カメラを欲しがった。古びたポラロイドカメラは無論、彼女の物だし、歩いて十分の自宅から靴ごと持って来ることも容易い。しかし断った。背景は真っ白、案山子のように足が動かない、蝶々がのどけさに憧れ、いつか来る開放的な夏や足音静かな秋、落ち葉の我慢の冬や、再びやって来る春の眠り。どれを選ぼうにも彼女は今はまだ私と居るべきだ。一時と云えど離れる訳にはいかない。然るべき選択を得られるのは、姿見えぬ約束の忍び寄るのをやり過ごしてから。ちょっと帰って戻って来るには遠い病院なんだ、説明すると、アー、と答える。

 欠伸をして数えて、彼女が眠るなら私も眠ろう、薄紅の行楽から覚めて、足取りの軽く、彼女の手を取り廊下を、コーラの缶を蹴飛ばして、看護師や患者がそちらに気を取られている間に、彼女は走って病棟の外へ。炭酸が夏に好まれるのは喉の滑走の爽快感、追うのが私で、彼女は走り逃げ去りながら私を振り返り、手招きして、病院入口でタクシーを拾い、車窓からの色綺羅びやかな景色が美しくて、彼女の横顔と、流れていく時間が惜しくて、これからどうする?、脱走、自由なんだ、それを告げ肩を抱いたが、彼女はぷいっとキスを嫌がった。何時ぶりだろう、彼女が笑顔を振り撒くのを忘れたのは。口を尖らし空気を、ぶー、と鳴らしていた。

 タクシーの窓の向こうではまた別の起因の風が吹いている。誰にも予測の付かない世界に浸り、勇ましく胸の、高らかなドラマの幕開けに酔い痴れていた。「外国みたいだね」見渡しても想像の先でも、幾重にも並ぶ軽靴がフレンチ・カンカン、日傘がいきなりミュージカルでも始めそうだ。彼女が胸ポケットの小銭を取り出し数えた、あの缶コーラの栓を一体いつ、誰が開けるのだろう。

 どうして、こんな日が、やってくる。だって先生が「明日にでも、いつでも」と仰られたからには自由だけが先走り、それは何をしても自由、パジャマだって彼女は気に留めないし、私が三日間着たきりの服で多少臭うのも今日に限っては許されよう、今日、彼女は誰彼のために笑うことを辞めた。パスタを茹でるのもコーヒーを沸かすのも辞めた。タクシーの運転手に行き先を「海」と告げ、それが日本海側なのか太平洋側なのか、そこまでは言及も問い返しもなかった。彼女は窓に指垢でハート(心臓)を描いた。「ドキドキ」これは現在のやまひの顕在であり、ひた隠しにされた彼女や物語たちの大法螺の、屈託のないスリルや不安感の象徴である。目の前を擦れ違ったてふてふが羽ためき、この文末の空の行方を、想像もつかないその別の惑星に運んでくれる。

 ここで言う彼女の言葉は恋煩いの類だが、類を呼べば砂時計の残り、私が如何様にこの女性を誘拐しようとも、ナズナがほろほろ音を立てて、道端で日傘に口忙しい婦人たち、日焼けした子ども、鼻孔からすうっと空気を吸い込むと、彼女が私の肩に頭寄せて、どこにでも連れてって、私の方が軟弱で、いいよ、髪の汗の匂いに懐かしみ、掴めば逃げてしまう砂のような幸福だけど、陽が落ちれば全て一体に同化する影なれど、君を迎え入れる家はあるよ、小さく鼻を啜った。目にゴミが入り、都会の汚染空気が喉に絡み、話すことがあまり上手ではなくなった。「アナタのほうが病人みたい」目を見つめると全てが見透かされそうで、自分を知るのが怖ろしくて、流景に視線を泳がせた。通りの人の顔も店の看板も私の前では皆のっぺらしていた。意義を知らない人生を有益に生きるのに、彼女に尋ねたのは、「明日の予定は?」。ここで彼女はクスッと笑って「あしたしだい」と左手で胸を抑えた。右手を私の手首に添えた。

 このタクシーの運転手は気が利く。最初の行き先を告げただけで何も言わずそこに連れて行ってくれた。都内の、ビルの工事音の止まない一角、去年出来たばかりの水族館だった。まやかしのような気の遣い方だが、急ぐ心許に足りた判断で、快く賃金を払い、彼女の肩を抱き抱え下車した。カボチャの馬車は帰りを急がせるための小憎い約束事を設けていたが、片道切符や嘘の切り売り、タクシーを降りる彼女の装いは前衛映画のワンシーンみたいに見えたが、不思議と周りも騒がなかった。

 いつだったか、二人で来ようと言っていた水族館。魚たちが狭苦しく過ごすのを指差しながら眺めていた。子どもたちや家族連れが横行し、従業員は三割増しで忙しなく働いていた。人だかりが絶えず、人を見に来たのか魚を見に来たのか、日曜日じゃあなかったら良かったのに、憎まれ口も彼女には半分くらいしか伝わらなかった。この水族館には海水魚だけでなく淡水魚も泳いでいる。輪くぐりのイルカショーや、アシカとペンギンのふれあい広場、階上には展望台もあり、御土産物売り場やシーフード・レストラン、水槽に囲まれた広々としたホール、その中に何故か小さなチャペルまである。

 群衆に分け入ってその中心を見つめると、まさに今、神の御名の下に於いて結ばれようとしている一組のカップルがいる。親族、友人たちは勿論、通りがかりの興味の祝福も受け入れよう式場、私達もそれらの後ろにおいて、まるで夢でも見ているみたい、彼女はニコニコ、私は彼女の手を強く優しく大切に握りしめた。

「貴方はここに居る御方を
病めるときも、健やかなる時も
富めるときも、貧しき時も
妻として愛し、敬い、慈しむ事を
誓いますか?」
「はい。誓います。」

「貴女はここに居る御方を
病めるときも、健やかなる時も
富めるときも、貧しき時も
夫として愛し、敬い、慈しむ事を
誓いますか?」
「ハイ。ちかいますよ。ハイハイ」

それでは誓いのキス、なんて目を瞑って、彼女が上機嫌で、いいね(That`s the wedding jack!!!)、指輪の用意がなくて、最後までちゃんとは出来なかったけど、以前二人きりで真似事をした時よりも俄然それらしくなっていた。おまけに拍手や賛美歌も付いてきた。
彼女は嬉しくてはしゃいで息苦しく、水槽の魚たちが気を抜いて人工波にゆったりと揺られながら傍観していた。

 言葉が重要か?必要以上に疑問符を遣うのも、私と彼女が違う国で生まれ、もしも一生出会うことがなかった世界があるとしても、言葉は言葉以上の必要性をもたらす、この先幾度の結婚や、岐路でねぎらいの文句、愛情表現の想像力は人類の過度の期待を裏切りやしないだろうか?。彼女にしりとりを以前教えたが、あまり関心に響かない遊びだったようで、歌を歌って聴かせたら、日本語の上達が著しく伸びた。ラジオ、テレビ、日常会話、私の書く小説は、この先の未来も見据えて書いている訳ではない。今現在を切り取り、自分にだけ分かり易く、気持ちの整理をしながら、予想の範囲を超えないように、おっかなびっくり臆病に取り憑かれ言葉を羅列している。もし彼女がいなかったら、もし、もし、私が一人に堪えられなくて泣き出そう、この出口のない迷宮に自らを投じ、眼鏡の修理をいつまでも待つだけだったろう。

 彼女の興味は時刻を告げない。時差がない、気温や空模様、全ては大陸から始まり、この島国へ辿り着き、もっと広大な海原に、届けばもしも、太陽がなくても、真っ暗闇の月世界でも、夢物語へ連れて行ってあげられる。
 いつか二人で見上げた月は雲に飾られ、ロールシャッハ・テスト、笑顔で分り易く舌打ちした彼女と、風流だね、と言った私がいた。そして向こう、太平洋から明日がやって来る。クジラの呼吸やイルカの群れのエコロケーション、波がひた隠しにする海底の財宝や、たゆたう私と彼女の日常。何の変哲もない、ごくごくありふれた日常。「毎日」が忙しくて飽きなくて、一寸目を離せば、ほら、彼女はパジャマ姿で水槽に張り付いている。

 クジラを探すがクジラはいない。確かに看板にはクジラの絵も描かれている。誇大広告も甚だしい、ここにチケットが二枚ある、ついさっき買ったチケットで、一番偉い人は?、従業員に尋ねると「外出中です」。クジラは何処にいる?、何処かにいるとすれば何してる?。彼女の口から、クジラは夢を見てる、彼女は言う、どんなに広い海で離れ離れになろうともいつか必ず会える、こぼれ出てくる言葉とも知らず涙だとしても、もう少し気の利いた言い回しがあるだろう、咳払いを一つ挟み、あれは?、指さすと、「イルカの赤ちゃん・名前募集」との広告の見出し。彼女はくすくすニヤニヤ、言わずとも分かっている、でも言いたくて言いたそうでたまらない、でも日本語はそれだけじゃあないよ、彼女の腕を引っ張って人疎らを避けながら颯爽と水族館を出た。名前に意味なんてありやしない。生まれ得た時に死にさらばえた墓標のようなもの。

 喫茶店やシュークリームのお店、アスファルトから陽炎が茹だり、彼女はここ三日間の養生で逆に体力を奪われたらしく、息苦しく暑さに目眩、私に寄り掛かり、息を深く次第に静かに、忙しい一日だったから気づけば夕暮れ時で、三日前、それ以前、もっと早くに彼女が事の真相や自分の感情を私にだけでも教えてくれていたならば、綺麗事かも知れないが、まして手術代を払えるほどの稼ぎもないが、魂を悪魔にでも売って、幾らでもこの先の将来、明日の予定、子供の名前、愉しみごとに興じられたのに。

 夕陽が閉じていく。しずかに、憂げて、明日との繋ぎ目に差し掛かり、もの寂しさも、ものがなしさも、すべて昨日と笑ってくれる。胸に彼女の笑い声を感じた。その可笑しさの意味を、やっとのことで理解でき、そしてもう二度と戻れやしない、再び失うことのない喪失感、私だけの物と、彼女自身の物、二人の物、彼女は、たばこがほしい、ごねたが、この三日間タバコを吸うのも忘れていたので買い置きがなかった。彼女の窄めた血色の悪い唇に私の唇を掠らせた。温度。子どもの時分には気付かなかった疎ましき明日・月曜日が、もうその煩わしさや白日の不自由を冠せず、「永遠の日曜日」、呑んだ暮れて、洗濯物を干して、煙草咥え、テレビに退屈する、日曜日の午後。今日に足された余暇が窮屈で、残された時間をどう遣おう、眠ったら勿体ないし、かと言って特にすることも思いつかない。気温は36度7分、猛暑にも似た私の華氏だった。

 彼女の笑顔は永遠に続く、衛星となり、地球や新宿を周回してまた現れ出る。以前、何が可笑しいのか、尋ねた時分の幼さが悔やまれ、それも土に塗れた赤子が天空に手を伸ばし、帰って来ないレンガ造りの歴史を、ぽっと出の小さな恋の物語を、空のもやもやに手放す罪、その罪滅ぼしが出来るなら、このまま彼女だけを強く頑なに抱きしめておこうと思う。それは窮屈も見据えた愛の束縛、彼女が嫌がらないので調子に乗って抱き占め続けた。ずっと、ずっと、『愛してる』、時計に尋ねる、今日と明日の永遠の狭間の中、明日寄りのどこかしらしらで。
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