第5話 暁に覚えて、紅い靴履いてた女のコの失踪

文字数 6,488文字

 その日の朝はもう朝とは呼べないくらい黄色い街並みが琥珀に浮かぶ、シャボン玉が屋根上で弾け飛ぶまで日が明けたことを思い出せないくらい体中がまんべんなく気だるかった。唇がヒリヒリ痛くて、昨夜のコチュジャン、ゴマの葉、豚バラ肉、胃が重くて流し台で水を飲もうとしたところ、グラスの底からメモが一枚ひらりと落ちた。それには気づいたがまず眼鏡を探さないと、寝惚け眼に更に辛く陽光の露骨な主張に、どろどろしたコーヒーに合う音楽から一日を始める。Bud Powell「Cleopatraの夢」。

 小春日和に疑念のトレンチコート、脱げば春だが、夕方には肌寒い。未だ郵便受けに新聞、今日は誰の仕業か、確かめるのにもやはり眼鏡が必要だった。玄関には紅いピンヒール、今朝は一度も声も姿も、簡単な朝食さえ満足には摂れない。足の親指の爪に反射する眼球に赤い染み。

 最近のはなし。毎朝、郵便受けに新聞を取りに行くのは、まだ碌に漢字を読めない彼女の仕事だった。目新しいものが無いことも分かっていたが、明日も其処に新聞紙が突っ込んであるのを想像すると、珍しさに配達員が困惑するだろうな、休暇、サンダルを突っ掛けようとするが、新調したばかりのサンダルが見当たらない。一年に一度くらいのことは祝い事や弔事の線を超えないだろう、テーブルに戻り手元に珈琲カップを戻した。出ていったのは、、、私?、、、誰?約束は今はもうただの「ヤクソク」になってしまった。
 永遠に振り返らない約束、向こう見ずでいたいけだった約束、胃に釈然とさせるのに珈琲を三口含んだ。その後、冷蔵庫の冷たいビアをシャツの襟にも飲ませた。

 昨夜はパーティーだった。二人だけのパーティーだった。酔った彼女がケタケタ笑いながら煙草にまどろんで、私の書きかけの原稿を覚束ない日本語で読み上げた。もう可笑しすぎて、可笑しいから焼酎をあぶくまで飲んだ。さよなら、って日本語で、下手くそな日本語だから今ひとつ意味がよくわからなくて、さよならだよ、っておんなじことを何度も言うもんだから、さよなら、って言葉を呂律の回らない舌で辿るしかなかった。おかえり、って意味を教えようとも考えたけど、ただいま、や、行ってらっしゃい、も教えることになると面倒で、風鈴が間の悪く、隣の部屋の子どもが泣き出したもんだから、ああ、ごめん、彼女は箸を置いて、風が少し肌寒くて、最近にしては珍しく笑いながら唇を噛んでいたものだから、気づくのが遅れて、もう遅くて、ベッドに誘われたのが最後となるも、彼女がクスクス泣いているのも胸が焼け付くように苦しくて、今はまだ状況が分からなくて、「愛してるよ」と告げたら、「ありがとう昨日」と私の肩を抱き寄せた。暗闇で言葉の価値があやふやになり、全部ウソ、そこ迄の彼女の言語の上達を憎み、さくらの見終わる頃に、また、もう一度、待てばいいのかい?、彼女の肋骨に吐息をコロコロ転がしてくすぐった。

 うん。そんな夢見の悪い朝に、特に精神的に差し障りの無い程度の疑問で、彼女がいない、釈然とするに思い当たる節が浮かばなかったので、ここ数日の日記を捲ることにした。日記と言っても主に原稿の締切と夕飯の献立、女のテレビ番組表のチェックだった。お気に入りはバラエティ番組で、昨夜、歌手のモノマネをする番組の途中で、彼女が私の口真似をした。「明日の午後にはかならず家にいますよ」、電話での編集とのやり取り、迂闊にも彼女が日本語をなまじ理解できていることを忘れ、一筆も進まない原稿の端に大きなワイングラス、私が咳をしながらタバコを吸うのに彼女も真似をしていた。

 編集には、彼女はいない、ことにしてある。猫を飼っている。そこに覆い被せる嘘も見抜けるたぐいのものではないし、また嘘吹かず人に勘違いをさせる名芸も、意の得であったからだ。編集女史が家に来るのは一年ぶり。文作に一年間、彼女がいないことを確認させていた。してことあるごとに今回それらの明文が事実と相成ってしまった。
 空巡りの季節風と二人ぼっちの四季、天秤はヤジロベーのようにバランスを取り回転し方角を有耶無耶にしてしまう。このまま言葉なぞ出さずに朽ち果ててしまえば、海辺の流木、私のことが気に入らなければそう言えば良いものを、言語相違のくだりにして逃げ失せてしまうのは如何なものか、つむじをぐるりと掻いた。前髪をつまみ眺めれば窓外に空は長く向こうに続いていった。

 はてさて、かのじょの靴はある。赤い、リボンの付いたヒール。革のくたれた、良く云えば履きやすそうな、歩きやすそうな靴だ。
 私のサンダルがない。昨日買ったばかりの真っさらで、どこが気に入ったのか、散歩のついで、財布だけ出し、荷物が増え、かのじょが童謡のような鼻唄で、日が暮れて、またワインをぶら下げ、煙草が切れたと英語で大騒ぎし、人目をはばからず、気がつけば玄関で、いつものようにキスをして、耳にまで吸い付かれたので思わずサンダルを落とし、ワインが割れた。

 昨日。

 今朝は黄土色の風、黄砂、咳をするにも彼女の意地の悪い冗談だと、窓から遠くアドバルーン、青赤黄緑白、機嫌が良い、パスタが茹で上がる頃に、彼女が戻ってきやしないか、その前にクローゼットの中、ベッドの下、ベランダの陰、唯一の手がかりが玄関の履物で、間違いなくそれが盲点に違いなかった、さて。

 午後まで何しよう、ピンぼけのテレビに耳汚し、空のコーヒーカップに戯れながら待ちぼうけに飽きてきた。編集さんはコーヒーはアイスだったな、ストロー持参で、たまには茶菓子の差し入れがあり、中でも駅前のベーカリーのワッフルは絶品。そのワッフルの手土産を期待しながら、ふと思い付いたのが、彼女がいない理由、気を遣い、だとしても赤いヒールを残すのもどうか、私のサンダルは?。

 タバコになかなか火が着かず、ジッポーのオイル切れか、買い置きのオイルはどこにあったっけ、見つからない、その前に眼鏡、眼鏡、確かベッドサイド、はたまた洗面台、今日は分からないことが多すぎて、見つからない物が普段より多く、テレビの番組で時間も確認する、正午か。

 腹は何とかこなれてる。パスタには多分の栄養素、コーヒーも沸かせたし、その気になれば新聞だって読める。ようく目を凝らせば彼女が私を置いてけぼりにして行った訳も判るだろうに。壁に一メートルまで近づき、時計、ふむ、後一時間もすれば編集が花柄のシャツにビシッと決めたスーツ、手土産、鞄には猫のマスコット。ここ五年、十度の訪問に一度も時間に遅れたことはない。約束は二時、その前に眼鏡を探さないと折角の美人編集に申し訳がないというもの。そして彼女がいない。洋服は片付けてある。化粧品やアクセサリーも仕舞ってあり、食器が多いのさえ気にさせなければ女っ気のない、タバコ臭い部屋だと思われるに然り。

 遠くでぽつり、ネコの鳴き声がした。
空耳?、灰皿の口紅の付いた吸い殻を拾い集めながら、サクラの嘘吹くにはまだ若干寒さの残るし、緑の雄々しく空に壁を作るには薄紅色で視界を二、三日染め抜いてからだ、花見?、そう、昨夜は花見の話題もあった。

 子どもを作る話。彼女が割り箸でキムチをつまみ、私の口に運ぶと、辛いよ、って言うから、食べたらほんとに辛かった。その意を伝えると彼女が口を開けた。アー、聞こえますか、約束の季節が迫っていますよ、アー、ラジオ局からリクエスト、私の箸がつまんだのは実家から送られてきたラッキョウ、彼女が苦手な食べ物で、その瞬間ほくそ笑んでいた彼女が近づいてくる箸に更に笑いを堪えられないでいた、叩けば直るレディオからは高いファルセットの独唱「さくら」。
 子どもが出来たらこの部屋にはいられない、そう、ココにはいられないよネ、狭い、そう、あたらしいおウチ欲しい、彼女は喉に刺さる酸っぱさに咳をしながら愛嬌に富んだハニカミを見せた。コドモノナマエハ、ありきたりな質問だからありきたりな答えで、君が付けていいよ、君そおゆうの得意だろ、煙草に逃げようとした。私がライターを探していると、彼女はうーん、と首を捻ったあと、グスグス笑いながら「あかさたな」と呟いた。思わず吹き出して咥えていたタバコが一メートル飛んだ。夕暮れにブランコ、家路につく窓から子どもたちを眺めながら、真意も分からず、うん、いいんじゃない、彼女は私が愉しくて笑っているのでつられたのか、笑っていた。それで、いつにするんだい?。彼女は、桜が咲いてからじゃないの?、お茶で喉をすすいで、チャミスルで消毒した。

 その桜がもうすぐ芽吹く。予感のする朝に彼女は再び姿を消した。昨日買ったスケッチブックにはひまわりの落書き。胸にイタズラされた春のやまひは縦横無尽に野山を駆け出し、彼女が見当たらない部屋、くすぶる脳裏の面影にコーヒーの苦味に舌打ちする、眼鏡は何処だ。

 壁掛け時計に一メートルまで近づき、ほう、後五分、編集さんはワッフルを、彼女はいない、取り置くべきか満腹の嘘に如何様に陶酔させるか、もうすぐ決断が迫られ、引出しの指輪、編集の指押しチャイムが聴き流れた頃、昼食は済ませたと言おう。今朝以降何も食べてない。

 「おはようございます」
この編集は昼だろうが夜だろうがいつも「おはようございます」。作家風情に昼夜なぞ関係ないと、勤勉な肖像を夢見ているのか。いずれにしても久しぶりの声に此方もいつも通り腹の音で応えた。彼女の靴を慌てて下駄箱に仕舞おうとしたその時、ドアが開いた。紺のスーツを纏った編集女史が困り顔で
「先生。迷子の話のネタに成るかと、半分疑いながらお連れしましたが、、」
私は合点がいかず、冗句にも色々種類があるのか、してその心は、
もう少しドアが開いて、見覚えのあるサンダル、まっさらでサイズの合わない履物、目線を上げるとネコを抱きかかえた彼女がニッコリ笑って、ネコが欠伸をして一声漏らした。無論、知っている顔だし、此処に来るも当然といった、「おかえり」と言うのに憚るのは、その言葉の意味とこちらの杞憂を釈然としてくれるのか、理路がつかず暗中しているとネコがまた鳴いた。

 編集は「久しぶりに来たので先生のご自宅が覚束なく、外の電柱で猫と遊んでいたこちらのお嬢さんにお尋ねしたところ、今からそこに向かう、ところだそうで」、半笑いの下世話さは余計だった。ははん、原稿取りの業務にかこつけて週刊誌ネタの収集興事、やり手のように見えて、実は私は世間に騒がれるほど仕事に執心してない。しかしプライベートを知られるに十分な心構えであり確固とした法律調停も済んでない。編集は未だ不可思議な顔を浮かべてこちらの挙動を窺っている。それよりも彼女がジコショウカイを上手く出来たかどうか、失踪、と思いきや散歩、どこの子猫?、私の脳内は迷路に繋がれたヘリウム風船の如くもがきながら、いずれは遠く上空から問題を紐解くに、かのじょの一言が待たれた。そしてサンダルを虚ろと眺めた。

 彼女は「サンダル、ぶかぶかの、あなたの、履く?、イイネ、ぶかぶか」
わたしは左手で頭をポリポリ掻いた。困った時のボディ・ランゲージや状況を察しろという合図ではなく無意識の内にそうしていた。どこの猫か尋ねると「あかさたな」と答える。編集さんの方が機転が利いて、ワッフルを多めに持って来ている、と告げ、私の右手の赤い靴を一瞥して、先生は多趣味ですね、玄関を上がって室内を観察する。コーヒーメーカーの蒸気が音を立ててスピーカーの代わりに部屋を飾り、かのじょはテヘヘと笑いながらサンダルを揃えて、メモは?、顔を覗きこんできた。そのメモも、彼女の顔がぼんやりして見えるのも、まだ寝惚けている、ほら寝癖、と説明した。

 窓を少し開けて、三人でしばし談笑した。編集女史は相変わらず気さくで、一年前の打ち合わせの時、私が二時間に珈琲九杯とタバコ一箱消費したことを大袈裟に話した。して話の内容もとんと覚束なく、窓の外、上空のボーイングの音にばかり気を取られ、編集さんが「秋の空、上の空、先生、私じゃダメですか?」、くくくと笑い咳き込んで、灰皿がいっぱいで、短くなった煙草の置き場所に困った私は「それがなにやらどうにもわからないんですよ。君の彼氏は韓国人?」特に意図があった訳ではないが、呆気にとられた編集は「コホン、契約書通りの仕事をしましょう」参考図書をテーブルに並べた。その内の一冊が『東京リストランテ』、その時は出不精にそぐわず君の行きそうな店を片っ端から二人で探したよ、「おかえり」。その思い出話も一通り済ませた頃、猫が鼻をスースー言わし、彼女はぺろっと舌を出した。編集女史は、必要十分な必要経費であった、そう思いたいですね、カップに唇寄せた。

 編集女史は玄関、去り際に、朗活なイメージを払拭するような、祖母が孫に言いつけ、言い聞かせるよう、茶に濁りの深みを与える一言を重く添えた。「いけませんよ。残念とか今更では括れないけれど、先生は貴女のこと、お待ちになられて一年間、物語は何も書きはしなかった。イッスーや映画批評、名無しの投稿で、お酒飲まれ背中草臥れた話しかしなかった。名前だけの事実上の空想人物よ。分かる?、だから、その、出かける時はちゃんと行き先を教えてあげてね」。彼女は、アー、と言った。「ニャンコもね」、「ニャー」この猫は甘え方を心得ている。他所の飼い猫だ。

 ドアがパタンと閉まると、私は何か少し苛立ってきて、タバコが何処とか、テレビのリモコンとか、冷蔵庫の醤油とソースの違いだとか、それらの前に眼鏡が何処にあるんだ、ソファに乱暴に腰掛けた。尻の下で何かが音を立てた。竹を縦に割ったようなパキッとした耳にはすこぶる心地の良い音だ。そして彼女は堪え切れず笑った。ネコがどうでもいいように顔を撫でた。「あかさたな」。

 気が付けば夕暮れ時で、通りの車のライトが疎らに道筋を辿っていた。彼女が赤ん坊にするように猫を可愛がるので、当て付けで、そう言えばそう、あのメモ、グラスの下にあった、あれは何なんだい?。彼女はキッチンからメモを持って来て大仰に、ハキハキとした日本語で文字をなぞった。
「メモ。伝言。人に伝える事物を書き残し、また、忘れないように記しておく覚え書き。」

 ふむ。もう寝よう。ムカムカして、馬鹿馬鹿しくて、全部コーヒーの飲み過ぎのせいだ。猫には狭い部屋、彼女を叱るわけにも十分にいかず、どうせまた来るんだろ、ツナの缶詰を食べ終えらせた後で、玄関から送り出した。彼女は、マタね、あかさたな、手を振ると、玄関のサンダルを持ち出しキャッキャキャッキャ笑っていた、「合ってる?」。

 笑える理由が分からないので彼女に尋ねてみると、靴の裏に「Made in Korea」、ブランド名が「Mr. Sherlock Holmes」と記されていた。聞いたことのない量産品のサンダル。彼女は、かつお節のにおいがするサンダルは珍しいの、紐解けないワトソンは頭を掻いて、いつかこの犯人が自由に街を出歩くようになることを怖れ、意気地のない男と思われても構わないから、玄関から彼女が興味を持ちそうな物を全て下駄箱に放った。ケタケタ、女は笑ったが、冗談は笑えるから許される罪だよ、告げると、ワタシはいつもわらってる、壊れた眼鏡を掛け、部屋中を興味津々で観察して、ソファにバタッと倒れた、ふ~ん。
 唐突に気の抜けて、得も言われぬ愛おしさが体中の血管を巡って、彼女の肢体に覆い被さるように優しく縋り付いた、首の周りの空間を埋め、呼吸の感じる距離で、キスしよう、んん、ふんわりした唇に猫の毛が付いて、私は鼻がむず痒くなった。彼女は「お腹すいた」、立ち上がり冷蔵庫の冷気を部屋に漏らした。適当にテレビのチャンネルを変えると砂嵐の画面、そう言えば今日はこんな天気だったな、眼精疲労のめまいの中、今日一日のことを思い出し、張りぼてのアリバイでも何でもいいから上手いこと騙しておくれ、冷凍庫のバニラアイスを要求した。
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