第1話 プロローグよりc.p.の「you never know」

文字数 6,597文字

   プロローグよりc.p.の「you never know」



 あの時、君が笑顔じゃなかったら君のことを分からなかったよ。

 二流作家のキレイ事だろうか。それとも泣きたい時は泣いても良いんだよと、ふかしタバコの横顔で空を掴めば良かったのか。今にして想えばどちらも正解ではなかった。

 いつも笑ってて、傍にいて、何かの真似事もした。深夜の誰も居ない教会に忍び込んで、キスには離れ際が惜しかった。指輪を買う金も、倦怠期の訪問も、現在のそれ以上の絵空事に怯え、唯一満足であったのは、その滑稽なシチュエーションに彼女が始終、涙の出るくらい笑っていた事だった。
 その時誓ったのは、「いつか(at some future time)」。いつかは、訪れるであろう幸福の日々を待ち侘び、夜ごと彼女はアロマキャンドルを灯し炎に揺れる影と戯れ、男は紙面に労作の日々を綴っていった。

 クシャクシャに丸めた原稿の散らかったのを彼女は笑いながら拾い集めて、意味も分からないのに広げて読んで、うんうんと頷いて、ゴミ箱にインクで滲んだ城を築いた。満足げにニヤけて腕組みして、「私達の家(only our space)」、玄関は何処なんだ、尋ねると一寸困り、背中からひょこひょこ覗き込んで、書き損じるのを待ち構えていた。頭を抱えている自分とニタニタ笑ってる彼女の対比がそのうち小説の題材になったりもした。

 幾日か経って、彼女が足音を気付かせず発った、その朝が、夢の目覚めの悪かった今朝の事のように、カレンダーも何が何だか分からなくなる。その「いつか(some other time)」を迎えず、丸一年ひとりで珈琲を沸かすこととなった。音沙汰もなく、荷物も置きっぱなしのまま。男は携帯電話を枕元に置きながら、夕暮れたそがれ、次の日への期待や、浪費されていく午後、大切な写真が薄明かりの中、克明に浮き彫りにされる、焦燥に目覚め、うだつの上がらない引き伸ばされた朝に、カフェインに少量の安価なエチルを混ぜたりもした。

 失ってみると過去に冷静さを備え、未来には無頓着になる、気まぐれの恋だったのか、理由ある別れだったのか、そこにはずっと答えが出ないままだった。以前の日常の歌遊びの詩美を疑ったこともあったが、それも語り部の気分にも依るものだった。横顔が美しい、と言ったのは、愛してる、とはまた別の意味だと解釈されたのかもしれない。そして今はそんな女がいたかどうか手元たばこ覚束無くも在る。

 大抵の列車の先頭部には行き先が示してある。腰落ち着かなく流れる車窓には未練がましさだけが張り付き滞り、今となっては無抵抗に、やがて逢わざるを得ない女の面影を必死に思い出そうと味のしないチューインガムを噛み続けた。時間だけが無遠慮に束縛の言い逃れを許さなかった。空港の近くでトンネルに入ると窓ガラスには寝癖髮の男が写る。従順なる恋の奴隷は、手枷足枷にお気に入りのデザインを選ぶことも出来たのに。

 〆切後だった。突然連絡があったのだ。電話番号には見覚えがなかったが、彼女からの電話以外に思い当たる節のない数字から始まっていた。いつの間に勉強したのか、しどろもどろの日本語で「ワタシ、オボエテル?アシタ、14じはん、ハネダクウコウ、ムカエニキテ」。移動中に飲むお茶をバッグに詰め、小一時間電車に揺られ、空港に迎えに行った。
 話すことを出来るだけ整理しようとした。花見の約束のキャンセルや、スイカ割り用のスイカは結きょく大家さんが食べたとか、泥濘の落ち葉に足を滑らせ膝を三針縫っただとか、深夜の除雪車、待てども来ない君を恨んでお気に入りのヌイグルミにアームロックをかけて眠ったとか。そして今日、本当は友人の結婚式出席の予定があっただとか。

 羽田空港、午後二時半、ソウルからやって来る飛行機は予定より十分早く着いていた。
 ターミナルには人混みの鬱葱、探すのも愉しみの一つで、約束の電光掲示板下でうずんでいたが、迷子のアナウンス、その時刻にはもう永遠の意味しかないだろう、ふんで、外の喫煙所の一角を目指した。待つことに慣れすぎて、煙草の数は一万四千を超える。悠に言葉を考える時間でさえも、それを翻訳する手間も、辟易するぐらいに待って過ごしたのだから。

 ライターを貸シテください、と女性の声が背中から聞こえたので、ああ、同じような人がいるのだな、振り向くと、めいっぱいの笑顔で笑う女の子がいた。I was fired by you.、お互い様だろ、陰鬱とした喫煙所に一輪の向日葵が咲いて、太陽をください、朝や、その寝起きの悪さも甘んじて欲しています、誰かが捨てていった出がらしのライターを拾って二人で煙をケラケラ遊んでいた。

 一年振りに会うと彼女の流暢な英語には磨きが掛かって、一つの気持ちを伝えるのに幾通りもの表現を有した。そのうちの一つは、Are you alone? だった。Yes.、と答えると、次の笑顔が一つ増え、奥の見えない含みに顎の奥がむず痒かった。

 綺麗なストレートロングだった黒髪が、茶に赤を入れたさっぱりしたベリーショートになっていた。化粧も変わり、大人の、洗練されたしなやかさ、仕草や言葉遣いにも成長が窺え、変わらないこまっしゃくれたコロコロした笑顔だけが記憶の中と合致した。何歳になった?聞いても失礼じゃなければ。女、眉を掻き笑顔で、二十二、失礼よ(I excuse you)。

 車窓、眼鏡がそのツルをしんなりと曲げて、近いものは近く、遠いものは遠く見せていた。当初の目論見とは違って言葉上手くエスコートできなかった。駅に停車する度に話が途切れ、視線の行く宛てを迷い、沈黙がお金に変わればいくら稼げるのか、そんな裕福に興味はないから、なるべく早い内に思い出の抽斗を探らなくてはいけなかった。心の中のアルバムの一枚一枚が、滲んでコニカカラーの彩色をすべからく自負していた。どれを手に取っても感傷に浸る前に次の一枚を、無理に話し出すと決まって急に収縮してくだらない着地に終わるが、女は終始ご機嫌で、にこにこ、流景と口元がじゃれていた。

 新宿駅からは歩いた。西口を出て人波に逆らいビル風の肌寒さを避けん、都庁舎や京王プラザが太陽を隠すのに苛立つ。キャリーバッグを引き摺って今か陽の当たる場所に向かった。中央公園の真ん中で頃合の、一年前、春、花の咲くのを待った。しかしまだその時は桜の蕾はそっぽを向き、未だ何の約束も果たせることはなかった。特に何をするでもなく雲がゆっくり流れるのを眺めていると、彼女が、お腹が空いた(hungry or angry)、ポケットのキャンディーをあげたが、せっかちですぐに噛んでしまった。二つ目の約束は今日はうちに泊まり晩餐、三つ目の約束は明朝一緒にホテルでモーニングを食べることだった。女は承諾し、もう少ししたらこの国の花々の中で(ゆっくり春を)愉しめるのね、奥歯がじゃりじゃり言って、言葉尻だけ聞こえ辛かった。
 暖かさからだろうか、彼女が小欠伸をしたのを見過ごすわけにはいかなく、家に帰ろう、と促した。面白い話、馬鹿な話をいっぱいするよ、斜光が垂直に分け入って来る方南通りを、時機を間違えることなく燈光に染められた絨毯を朗らかに下って行った。この時、振り返ると丁度一年前この日、あの公園へ彼女を探しに走った自分の背中を疎ましく、それからの顛末を知らそう、焦らそう、藪蛇だ、やめた。

 新宿はオレンジ色に食べられ、尽くされ、徐々に見渡す限りの景色は沈下、母に連れられた熊のアップリケの男の子が転んで泣いて、落陽前に彼女がポラロイドカメラで最初に撮った写真だった。昼夜の変わり目に交差点の信号の点滅が忙しなく、走って渡って、気付いた時には手を繋いでいた。

 結婚の約束はしたけどね、懐かしの町並みにご満悦の彼女は笑顔で振り返るので、男も真顔では居られなかった。一年前の背中の引っ掻き傷が仄かに痛み、何故かの別れが、遠近法は記憶の距離にも比例して効果し、時には残酷に都合の悪い記憶に靄をかける。本当に分からない。何故、自分の何が悪かったのか、彼女が再び電話してきた意味も、此方の待ち惚けの日々の想いが届いたのか、それともただの旅行だったのか、行ったり来たり、何が何だかさっぱり分からない。

 物覚えが悪すぎるのも、平生、人ゴミで人と肩が擦れたり、狭い脱衣所で壁に肘がぶつかるのを気に留めないのも、子どもの時分から落ち着きのなさをよく母に叱られたものだ。「壁にも気持ちはあるのよ」酷いことを言ったのか、つれないことをしたのか。そして今も女が以前いつも歩きタバコに注意していたのも、プロローグの中盤にはまだ釈然として灰皿を探そうともしていないことにもしばらく気がつかなかった。

 女はぎゅっと男の手を握り締めた。だからその時だけは抱き締める以上に意味のある、強い愛情表現を持って手を握り返した。決して離しはしまい、コンビニで煙草を買うレジでも、昔よく食べていたスナック菓子を封切るのにも、左手に彼女の右手を絡ませたままこなした。自宅のドアの前で鍵を探すのに見つからず、彼女が合鍵でドアを開けた。それは持っていて良いよ、よく探してみるとバッグのポケットの底で、誰かの意図的にとしか思えない、キーホルダーが外れて各種の鍵が散らばって、その中から探すのも億劫だったが、今に限っては鍵は一つで十分だと納得した。

 アパートに着き、荷物の整理をし始めようにもキャリーケースを広げられないほど荷物多い部屋だった。無論急な来客にも応えられない、コーヒーメーカーは露をだらしなくさせ、カップやコースターも友好的な挨拶には程遠くテーブルに寝っ転がって横腹を掻くよう、有用なガラクタばかりの部屋だった。シャッターを切る音が聞こえると、カーテンの好みやハイカラな家具、彼女は靴を揃えて脱ぎ、変わらないね(smoking area!)、取り敢えず荷物を片隅に置き、枯れ掛かった白百合の花瓶をやかんに残った水でそっと潤した。

 珈琲の中でもモカが好きで、その豆以外に今日は意味が無かった。豆を挽き沸かす仕事を繰り返し、繰り返した。湯気にモヤモヤし、風に揺られて、追うと、一瞬彼女と居る事、居なかった昨日を忘れそうになった。そのぐらい変わらない窓際、以前の灰皿のシケモクの溢れ様だった。しかし今は其処にちゃんと彼女が座していた。女は此方へ向けてシャッターを切った。

 本題に入る。今日はこの一年のお互いの話をしようじゃないか、新しい彼氏でも出来たのかい?、それとも自分のやりたい仕事が決まって忙しい?、我侭で稚拙で独り善がりの詰問を遠慮と無遠慮の間で、彼女の軽快な返答や、其処に隠れた嘘を甘んじて、その場その時の遊びを半分以上釈然としないまま、言葉の不自由も手伝い、二人とも互いにテーブルを挟んで、うんうん、と、うわ言のように頷いてやり過ごした。

 彼女のニヤつきはこのまま一生続くのだろうな、地球が一周してその時自分が居るのかどうかも分からない、そのことでも、ずっと向こうで、女はフフっと笑っているのが脳裏に浮かんだ。陽が大地に全身飲み込まれた頃、伽藍堂の冷蔵庫の中の二本、ビールの銘柄に、これで良いのか、悩んだ挙句、上の戸棚の祖父の形見のコニャックを下ろした。グラスにも悩んだが、彼女は相変わらず窓外を眺めていた。時折さっき買ったライターの着き具合を確かめていた。

 手元の覚束ない酒、突然姿を消した一年前の朝の恨み言などを肴に呑んだ。女はグラスを空けるだけだった。まだ呑むかい、It depends on you.、酒も回り、更けて、嬉しい眩暈、ライトを落として以前と同じところにキスをしてベッドで絡まった。首に鼻を埋めながら、愛してるよ、私もよ、なのに何故?、んん難しいところね、彼女の口元が緩んだ、午前二時、しっとり湿り気のある毛布、一人と一人が二人になるのに、言葉に頼らずとも匂いと安心に眠り落ちた。

 夢の中、平べったくなだらかに広がる虚脱感から一縷の糸屑の様な猜疑心が芽生え、目が覚め、彼女の寝息を横目にこっそり起きて、忍び足で彼女の靴を押入れの奥深くに隠す。同じことを繰り返す意味も勇気も分からなかったから。すやすや寝顔から翌朝の彼女の笑顔をうたかたに見ながら、一年ぶりに束の間の安心感の中で一枚の綿毛布を奪い合って、蒸し暑さや、たまのそっけない涼しさに堪えた。やがて来るであろうその朝と、握って離さないその絡め合った指が疑問符を交えて振り解かれるのに怯えた。しかし今は眠るしかなかったし、酒の瓶も転がって、もう少しだけ、と毛布の温もりを欲した。願いが通じたのか彼女が寝返りを打ち此方を向くと、くちびると唇の間隙が胸をきゅうっと締め付けた。逆にタバコに逃げたくなったが灰皿の位置が遠かった。開けっ放しの窓に心地好い胸騒ぎがやまなかった。別の意味の、恋煩いの痛みだろうと無理に言い掛かりを付けて、いつの間にか昏々と再び眠りについた。

 ゆるやかな光とともにカーテンが風に吹かれ頬を弾き、目が覚めると昨夜の女の姿も荷物も見えなかった。慌てて掛けた眼鏡に映った物は、紅付きグラス、その下の花柄の便箋、部屋のかど青白い陰、沈黙とドアノブ、デジャヴ焦燥の空転する空間、テーブルの上にペンが転がり、ポラロイド写真、まるで嘘みたいに小ざっぱりした部屋だった。写真にはいつのものだろう満開の木槿、「いつか(at ago time)」を思い出し、一人ぼっちの書置きには、

―――ごめん、一年前交通事故で両親が他界しました。そのすぐ後、たった一人の肉親となった兄が病気を患い、先日静かに息を引き取りました。貴方にはもう会うつもりはなかったのですが、どうしても言い訳をしたかったのです。ごめんなさい。―――

 糸がぷっつり切れた。ケータイ電話をがむしゃらに操作し、幾度も掛けようが繋がらない。投げ捨て部屋を出、最寄の駅の方に向かうが見当たらず、知らない人ばかりが邪魔でゴミみたいに、男の中では歩行者も建造物も目に入る物すべてが憎むべき障害物、その今朝がまた再びやって来たことの虚しさに堪えられず、孤島の断崖絶壁の絶望から宇宙回帰の喪失感の中で、珍しく温度のある涙が一年間保った高潔を汚してしまった。膝をがっくり落とした。過去も過去らしくなってきた。
 希望も恥ずかしげも無く大声で彼女の名を何度も叫ぶ。昇るのか昇らないのか、薄くハッキリしない朝日だけがのっぴきならない愛のこもった恨みつらみ言を貌念と聞いていた。「いつか(イツカ)」、悲しみだけが置いてけぼりで、哀しもうにも哀しめなかった。その自心の無頓着さにも我慢がならなかった。しかし叫ぶことを止める事も出来ず、車やバスが横行し、此処はもう私の住む星ではなくなっていた。通りには顔の無い人ばかりで、どんな声や想いも届かないよう、思わず涙の奥から、くくく、と笑い声が出てきた。そしてその可笑しさや時間は私だけの物となった。

 青空に雲を探す、ボーイングが轟音の中に消え逝くのを眺めた。ビル群の間隙を縫って遠く雲の入り江に、次第に細く細く大切な記憶が年を重ねる毎に存在の淡く儚く、まるで何事も無かったかの様に呼吸を静かにしていった。唐突に目の前が赤くなった。一年前、彼女がどんなに堰を切って泣きたいことだったろうか。どんなに愉快に生きることが苦しかっただろうか。酒を飲む理由が分からない、夕暮れにはカーテンを閉じて、朝起きれば陽光のステレオタイプに吐き気さえ催したろう。同じ枕に何も知らない男が鼾を掻くのに憎悪漲り、死にたい気持ちや癇癪の行方を何処に目指せばよかったのか。
 しどろもどろの英文が耳に螺旋し、脳内が引っ掻き回されるのに堪えられず耳を塞ごうとした。その時、耳の後方、傍の歩道橋の上から名前を呼ばれた。遠く澄んで、懐かしく聞き覚えの在る声だった。直後、瞬端の無音の中、振り向き見上げると裸足の女が此方に向かって伸び伸びと腕を広げ、清々しい笑顔と身体いっぱいで叫んだ、I’m alone ,too !、いつもと同じ笑顔がやる瀬なく、過去から来る怒濤の後悔が、運命の海に飲み込まれる朝が、思い出す罪からやっと男を解放してくれた。
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