第2話 約束の季節までアト約半年と一日

文字数 5,925文字

 結論から言うと今年は花見が出来なかった。未だ彼女の足音や自由奔放な機嫌に畏怖を感じ、一年待ったんだから何年越しでも約束は叶う、と言い訳で捏ねて、なるべく一緒にいられれば(It depends on a moment,)との独善から、もう無理して笑わなくていい、引き出しに一年間したためた手紙を閉じ込めた。
 過去に囚われず、これからの二人を考えよう、そうすることで彼女へ、男の口にするのもおこがましい自分勝手な過去を、私の懐深く仕舞い込もうと目論んだ。彼女を傷つけさせまい。しかしそれは見当違いの更に単なる利己主義であった。

 彼女は大仰に一年分の手帳を広げ、私達の季節、様々な過去の予定が描かれ、過ぎ逝ったのはそれこそ別れ、大切な物の順番、死んでも記憶に残る、その手首の傷跡は?、躊躇いもしたけどやり残したことがあったのよ、赤い☓印、この国で、アナタと、アタシで。そんな話も笑いながらライターの炎を燻らし暖を取った、北風に佇む駅舎バス停のベンチ。

 今こうしているのもご機嫌取りで、箱根の温泉宿、行きの電車で女が興味で買った駅弁を二人で分け合った、秋楽旅館「しの田」、紅葉狩りには彼女にも眼鏡を拵えてやった。しかしそれでも彼女は帰り道を分からなかったろう。
 入り組んだ山道にバスの中、欠伸か溜息が白さを増していった。運転手が次の停車地を流暢な方言、イントネーションでアナウンスした。山だか森だか遠くにも明かりは充分に指が足りた。

 美しいと言った、名月がその名の轟きを他の星には許さなかった、ススキが謡い、団子を投げて、けんちん汁の鍋の真鍮の冷淑がその年のその日を如何な祭儀と、男は抜けた缶ビールを下げると一口含んで、持て余しに寝転がり一首詠んだ、

望月の 池に落ちたる すくいとて 去りし君をと 未だ浮かべて

 物怖じせずに感想に入ると沈黙の後、其れがむつかしい語句であるらしく、一本付けたお銚子に満足しながら秋、彼女は一番好きな季節だと、縁側の膝枕に解釈入らずの言の葉を散らせた。月がとおく、とおく眺めるのに程よい丸さだった。

 I’m here in red by red、英和辞書の最後のページが破り捨てられ、Z、此処に居る意味を、哀しく物語る夕べに、しどろもどろの涙を礼賛、女の不機嫌に寛容が芽生えるのに二時間以上かかった。
 赤と赤の違いを血に確かめる、その夜に白む残月寝転がり、原っぱの望遠に虫のざわめく深揚とした草草が、今日のむなしさが明日も続くものと枕もとの読書の時間を一日のおまけとしてぶら下げていた。

 彼女には名前も在るし空気を吸う権利だってある。しかし私にはそれすらも無い。名前には人に見せるには臆病な錆びれた冠が付くし、空気にはニコチンが混ざってないと、明日への覚悟さえないのか、挙動不審の影、通りすがりの見知らぬ人にさえ疎まれる。キスをしよう、我が侭を捏ねると女は困り顔の笑みを浮かべる。キスはしてくれた、どうやら彼女はそれ以外に、やはり気に入らない何かが在るらしい。

 この前、彼女が笑顔から、その笑顔の為から、旅館の女将の気に入り、毎晩焼酎の差し入れと、部屋の縁側に散り朽ちた折れた桜の枝が、枯山水、花瓶に鏤められている。女将が言うには同じような作家が同じように書志をするのに、ここまでの面白い寝サボりをするきゅうかん鳥と百舌鳥は居なかったらしい。
 女はニコニコ笑いながら畳に寝転がり頬杖ついてサクラ屍のその向こう、窓ガラスの奥深く、山々の張りぼてに日常嘘臭さを見通していた。あざとい欠伸をした。彼女の想像力は逞しく、この夜月の季節にこそカサカサ乾いた風音に春らしさ、本のページが涼しげな無遠慮を以ってしてパラパラ捲られるのを「約束の季節(Blanka kisses)」と題した。そして私はそれを小説の小題にした。

 仲居さんが訪ねて来て、折れた枝を見て怪訝そうな顔をしたが、道端で拾ったものだ、と言うと、運が良かったねえ、この時期は無遠慮に乾いた風が浮くからねえ、腑に落ちないながらもお茶を補充して戸を中途半端に閉めて去って行った。風物の会話は時機遅れであったのだろう、創業何十年目かの紅葉は桜にも劣らない、正確な言語表現の難しい季節の境目だった。彼女の笑顔は言葉以上に人気取りや風華往来に忙しい艶やかさを持って、踏み込んだ詮索をさせなかった。焼酎に酔えばことさらにだ。

 スタンドライトの仄かな光が燈色に障子を染め、ともすると静寂に溺れて昨日の意味が曖昧になる。日を越えて月が千年の和歌万葉を耳にウンザリさせた。夜長の長さが今日の一日よりも長く感じるようになる。柱時計の振り子がぼーんぼーんと先日までの空白の一年を脳の後部にじっとりと思い起こさせた。
 想わず本を閉じかけ女の方を向くと彼女は小首を傾げて、面白いの?と尋ねてきたが、丁度ストーリーが佳境、そこで本から目を逸らす事もなく、そのまま一ページ捲り、ううん、暇だから。

―――ここに幕が半分閉じ、鈴虫の鳴き声、月の明かりが一瞬強い光を放ち静まる―――

 女は何が可笑しいのか笑みを浮かべた後、唐突にふて腐れてキャンディーを頬張る、彼女も退屈なのだな、栞を探し、見つからず、旅館のパンフレットを挟み、スタンドライトを消して、田舎の温泉宿の晩舎に明かりを増やした。
 心の綾取りをするのに言葉とは別の方法を探す。だが喩えどんな祝芸を迎えようとトランプの王様はいつも威張りくさって、彼女もそれがまた退屈になる。遊戯には対象年齢を選ばれる。そして十も離れ国も違う二人には共通の茶濁しがなかなか見当たらず、ここに双六でもあったらなあ、予期せぬ冷たいカーテンの揺れ、煙草の火の消えるのを待ち、窓を閉めた。隣の部屋では何をしているんだろう、窓際の桜の枝がチリチリ花瓶の縁を擦った。
「別に今日だけじゃないから」
テレビのチャンネルを変えて普段は見ない番組を見た。女は茶番ドラマにケラケラ笑って一献の焼酎、意味がわかるの?、何か愉しいってことだけワカルわ、よくも笑えるね、アナタの小説と同じ言葉が出てくる、喉が痒くて咳払いをした、そして彼女はそれでまた笑った。

 二人どてら羽織って、宵闇の静けさに紛れこそこそ部屋を出る。戸にガチャリと鍵をかけ、ふらり温泉ろてん風呂、他客は指折り、白淘湯気に喉を洗われ、月が見えるかい?向こうを向いて、独り言はどうやら謀らずも会話になっていたらしい。
 月が綺麗だったね、彼女も独り言が得意だ。浴衣が身体に纏わり付き動きにくい。次第に汗が空調に涼まれ、湯ぼったりが会話をところどころ欠伸させた。廊下のサンダルのパタパタ、腕組んで歩く、午前二時のホタルのヒカリ、ゲームセンターではあぶくが静まり、小銭がなくなるまで、よれた浴衣の襟元から女も女らしさを上気した頬に匂わせていた。へたくそ。
鼻を掠めた記憶、
「何のコロン?」
「草か、花か、」
「銘柄は?」
「わすれなぐさ(Forget Me Not)って書いてあるけど、ニホンの有名な人?」
「だいぶ前に、もう忘れたけど、確か色鉛筆の種類の一つだよ」

 部屋に戻り机に着くと、窓から山裾で立ち上る湯気が冷気と溶け合ってキラキラと星を酌み交わしているのが見えた。テレビを消すと山宿はしーんと静まり返り、彼女が焼酎をトクトク汲む音だけが胸底から喉の入り口まで文筆の得心を満たさせた。耳から脳中枢、文資なんて箸が転げれば一緒に転げるのさ、そして筆を取った。
 バッグの中には絵葉書や手紙が重帳を為している。彼女宛の詩歌、住所の記載はなく、その数も夥しく覚束ない、輪ゴムで留めた元旦の年賀状のように重たかった。二束在った。そしてそれは今、ネタ帳の贅を喜ばしてくれる。

 一枚には
―――駅のホームの待ち合わせ、君が遅れ、悪いとは想いながらも駅員の見えないホームの端の端でハイライトに火を着ける。今、君は何処にいる?―――

去年の暮れには、
―――クリスマスおめでとう。言葉に不自由のない国にいるのか?それとも同じ街か?君の頭上を通り過ぎた雪雲が明日には私に白坂を登らせる事となろう。その為の靴やコート、今日が過ぎれば明日、由縁のない浮かれ気分が何食わぬ顔で残酷に孤独を祝してくれよう。月は見えない、雲間に閉ざされて、匂いすら残さない。揃いのシャンパングラスの存在価値を問われたら君の名前を言いそうになる。クリスマスおめでとう。白いシャーベットは君に何を想わせるだろう―――

再会があるなんて思いもしなかった春先、
―――もうすぐ一年、君の空いた空間を抱き締めるように通りからの清々しい風にタバコの煙を遊んでいる。夢に出てくる君は笑ってて、私は調子に乗って英語の冗談を弄んでいる。これが永遠なら、こんなに胸忙しいのは何故だろう。これが当たり前なら、居ても立ってもいられないのは何故だろう。曲がり角の度に待ってるよ。ただ待つだけです。今も何処かで君は旅行をして、お土産ばかり期待している私に何の杞憂も負わせず、どうせまた笑顔で現れるんだろ―――

 自分勝手だ、自分が恥ずかしい。彼女の苦しみを振り解いてやるのに芽生えたばかりのエゴイズムは行く宛を見失い、また明日にでも何処かへ気ままに散歩に出掛ける君を私は手に余し、眼前でぐい飲みを啜る女をどうしてか捨て置けない身不自由な自分が、山裾の儚き力無きをいずれの己の姿と陶酔し、また筆文の得作とサディスティックを一言の及ばざるに縋ろうとした。
「パーティーは済んだのか?(Are you truly are you? at tonight?)」

 彼女は空けたぐい飲みを何処に置くか散らかった卓袱台の上をうろうろさせ、
「ソウルにいた間は貴方が眩しかった。朝起きて朝日に手を翳すとそれは貴方へのオハヨウだった。更けて月がまるく、うまく行かない友人たちと天気の話をする時もその向こうに貴方が呑んだ暮れているのを見つけ、自分の身の程を摘まされぬ夜はなかったの」
「逢えた」
「ソウ。ソシテ、アエタ、ノ。」
木枯らしが恋に似たような、そして始まりも終わりも無い静劇が幕をなだらかに、ゆっくりと巡り合わせの夜想曲、不思議な感情を胸にダ・カーポさせた。そのとき同時に漏れた笑いは二人とも自然に愉快しんだ。そして私は彼女の白い歯が幾度も見え隠れする幸福を反芻し、美しい一条の詩を描いた。夜が暗い間だけは彼女は私の物だろう、朝になれば目に鮮やかなこの季節の喜び達が、私さえ彼女さえ奪い合って引き離しに精を出す。そうなればいつまた彼女が視界から消えるやも。秋の空に見る雲や雁の気まま、怖がりは今にこそ私の天分となっていた。
 干乾びた葉葉とざわめく女の時知れず笑みだけが私をこの場から逃げ出すことを許さぬ枷となっていた。地図には地名あれど行先と交通費は明静されていない。

―――風の音がひゅるひゅるりと耳に懐かしくて、決して沈黙の邪魔にはならない―――

 静けさにも飽きたろう、彼女がぽんぽんと枕を叩く。遠く夜汽車の汽笛に東京に置いてきた小鳥たち、美しかった日照らいの機微、忘れ、早々と月下美人の萎む、衣くずれの姿があられもなく胸に立ち昇った。筆を置きテレビのリモコンを弄りながら煎餅を噛み切っていると女が手招きする。
 頃合の時計の短針、膝を畳に擦らせながら顔と顔を近づける、鼻と鼻をくっつけた、んとんと、ずっこけて、凍えるささくれの、天と地、昼と夜を分けた神様の言う通りにはいかない。吸い寄せられるように鎖骨と鎖骨がぶつかった。腕を回すと鼻息が耳元に転がり、当然、流されるままにその言葉を告げたら、プイッとそっぽを向かれた。
 テレビのリモコンに手が届かず、昨日出した郵便も、空白を埋めてくれた真摯な再度の告白さえも自国に持って帰るつもりなのだろう、女は此方の動揺を見透かし、くすくす、ケラケラ、
「残念だ。」
ああ残念で、襖の隙間から廊下を歩くスリッパの乾いた音がかすれて行くのを彼女の瞳に写る自分、何とも不恰好な季節外れの案山子、忍ぶも忍べず、腰の中枢から沸き起こるむるむる煮立つ色念を抑え切れず、「後生だから」と力任せにキャンディーを散らかした。赤、青、黄、白、茶色、紫、最近の飴玉はカラフルで、そして色も味も決して目や舌を退屈させるような物ではない。一瞬気が散ったが彼女の首筋に舌先を這わせると、女は私にも分かる簡単な母国語で、
「(ばかね、そういう意味じゃあなかったのに、)」
と髪を撫ぜてくれた。焼酎の瓶が倒れ転がり、くらげ、立ち上るのは何もモワモワだけではなかった。彼女の耳元に吐息を転がしながら
「ごめん」

 彼女の不機嫌の理由は後日明らかになる。再会してもうすぐ四ヶ月になり、そしてだいたいあと半年で約束の祝い酒。甘いものを与えよう、薄くしなやかな部分をくすぐろう。一トセ寝グりて髪掻クハ、宵やか色のアテラわん。みちトセ満ちる月為レド、歌わがこころ黙シずむ。女は想い付いた様にキャンディーをひらって噛み砕いた。笑顔には理由が在って、不機嫌にも理由が在るんだよ、私の口にハーブキャンディを放り込んだ。それを、飲み込む、ではなく、噛め、という意味だと解釈した。気管支を抜ける酒気で二度酔うようなものだった。

 夜明けまでは遠かった。静寂一枚の毛布を奪い合いながら
「つまらない男だわ」
「つまらない女だよ」
季節はずれの風鈴がカンカンと鳴き、夜の暗幕は互いの密裏を深く暖かく覆い隠した。そして目を開ける必要のない距離で、こんなに近かったっけ、合わさった手と手が夜に紛れて、おぼろ月影キャンディたちが小さなオリオン星座を形取っていた。朝になれば言葉なきガラクタ、その日いつかの朝が脳裏から薄れていく毎日が横たわり、それは以前当たり前であったはずの小さな幸福に、野暮にも行楽のスケジュールを尋ねるようなものだった。

 朝、

 昨夜の火照りを沈めんと開け放しの窓が露をしんと肌に触れさせ、昏々と目覚めが耳から視覚にたゆたった。夜に魂を盗まれた被写体のやうに静止硬直した青い卓袱台に挨拶を告げる、原稿の屑の散らかった畳、昨日は悪かった、彼女、浴衣のしゃんとしない、まだ明け切らない昨夜の茹だりが、別れ際に細道を訪ねていった。物音に過敏な早朝けっこうな一番鳥、女が起きやしないか、変なことを言いやしないか、寝言でフフフと笑って、祇園精舎の鐘の声、次第に色の薄れるピーンと張り詰めた障子の辛すぎて、ぽっかり空いた時間を埋めようと、また胸苦しい今日の不安を掻き消そうと、徐に指で穴を開け破いて仕舞った。

―――幕が静かに仄暗い観客席を分け入って閉じる。旅館の朝の慌ただしさが耳―――
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