6 警察署にて

文字数 5,134文字

 一週間後、私は警察に逮捕されました。数回に渡る任意での取調べを経、最後に警察署に呼ばれた際には、きっとこのまま家には帰れないと何となく察していました。
 出頭の時、私は丹念に化粧を施し、髪を巻き、ヘッドドレスをつけ、初めて主演を取った時に、お祝いに一ノ谷先生にが買って下すった紺とベージュの切り返しのワンピースを纏い、青のハイヒールを履きました。外套は外国の女優が好みそうな黒のロングコートで、首にはミンクの襟巻を巻きました。仕上げに、南條に昨年のクリスマスに買わせた真っ赤な小ぶりなハンドバッグを携え、これからパーティーにでも行くくらいに盛装し、煤けた二階建ての警察署に向かいました。
 私が警察署に入って行く写真は、新聞にも載りましたよね。皆様も見覚えのあるあの格好です。気分は断頭台に送られる現代のマリー・アントワネットといったところでした。警察署の玄関に集まったカメラの一つ一つに目線を合わせ、私は、破滅へと歩む不埒な女王を演じ切りました。
 刑事さんから聞いた話によると、やはり当初は南條が一番の容疑者候補だったそうです。ですが、厳しく追及していくうちに、彼は真実を語らざるを得なくなり、私からの呼び出しを白状したとか。一ノ谷先生を身代わりにした理由は、未だに私が自分に執着していると勘違いし、先生に間に入って貰い、私を説得する気でいたと説明したそうです。極めつけに、波子に二股をかけていたことがばれてしまうのが怖かったので、黙っていたと弁解したとか。
 つくづく馬鹿で、自分勝手で、腹立たしい男です。誰がお前なんかとよりを戻そうなんて考えるか。目障りだから消えて欲しいと私は思っていたのに、勝手に未練がましい哀れな年増女みたいに思われていたのは、非常に不快でした。
 私は刑事さんに、色々尋ねられる前に、先手を打ち、皆様もよく御存知の虚構の物語を話しました。かねてから、一ノ谷先生に看板女優の地位との引き換えに、彼専属の性奴隷になるのを強要されていたというお話です。芸の為と屈辱的な扱いも、唇を噛み締め、耐え忍んできましたが、いよいよ我慢できなくなり、先生の殺害を決意したと涙ながらに訴えました。
 犯行当日、南條を無人のステージ上に呼び出した件については、私が呼び出そうとしたのは、あくまで一ノ谷先生で、南條はロッカーを間違えたのだろうと言い張りました。
劇場の控室にあるロッカーは、演者もスタッフも使用しており、私は実際には、そこの南條が使っている棚に手紙を入れました。
 でも、取調べでは、私は一ノ谷先生のロッカーに手紙を入れたのに、南條が間違えて、一ノ谷先生の棚を開けてしまい、手前に入っている手紙に気を取られ、ろくに中を確認せず、自分あてだと勘違いしてしまったのでしょうと話しました。
 適当な性格の南条は、毎日違う棚を使い、たまに誤って、他人が既に使っているロッカーに、中をよく見ずに上着をしまってしまったり、逆に他人の革靴を取り出して履いてしまって、騒ぎになったりすることが実際に何度かあったので、あり得る話だと、私は首を捻る刑事さんたちに反駁しました。
 そして、後日、他の劇団員や南條自身に確認したところ、本当に過去にそういった事件があったと判明しましたため、私の嘘の推理は信ぴょう性を手に入れたのです。手紙に気まぐれで宛先を書かなかったこと、南條がとっくに手紙を処分してしまっていたことにも救われました。
 最初からいずれ捕まることは分かっていたので、キャットウォークに続く階段の手すりに拭きそびれた私の指紋が残っていたことや、アリバイがないこと、南條の証言を突きつけられても、私は動揺しませんでした。
 先生を殺してしまったのは、不慮の事故でしたし、焦っていたから、証拠隠滅が甘くなってしまったのね、咄嗟の判断で巧みなトリックを考える犯罪小説の犯人って、思った以上に頭の良い人たちなのだなあ、なんて他愛もなく考えていました。


 刑事さんや検事さんの取調べも終わり、真実を語ることなく、後は予審判事さんの元に送られるのを待つだけだったある日の午後、留置場で暇を持て余していた私は突然、取調室に連行されました。
 留置場では化粧もできませんし、アクセサリーの類も全て取り上げられます。おまけに、勘当された身で、面会者もいない私には着替えを差し入れてくれる人もいなかったので、私は、留置場の備品のすえた臭いの浴衣を着ていました。
 そうそう。逮捕されて初めて知りましたが、留置場って、とても臭いのですね。例えるなら、満員の乗り合いバスに立ち込める人いきれや着物の臭いをぎゅっと一〇〇倍に凝縮したみたいな臭いです。記者さんなら、警察署に犯罪者の面会に行くこともあるでしょうから、どんな臭いか分かるかもしれませんね。何年も、何十年も積み重ねられた悪臭は強烈で、例え監獄に入っている者を全員外に出しても、壁や鉄格子にまで染みついてしまって消えないのでしょう。薄暗い地下に、品の欠片もないあばずれたちと一緒に押し込められるよりも、乱暴な刑事さんに怒鳴られ、頬を張られるよりも、私はあの臭いに気が滅入ります。
 灰色のコンクリートに囲まれた狭く薄暗い、陰気な取調室で取調官用の椅子に座り、待ち構えていた男の顔を見、私は逮捕されて初めて、驚きのあまり息を呑みました。
 何ということでしょう。黒い背広を着た男は、いつぞや池袋のバーで誘惑した眼鏡の青年、寒川だったのです。彼は手錠をかけられ、腰縄をつけられた私を見ても顔色一つ変えず、小さく目礼をしただけでした。
 どうして彼がここにいるのでしょう。事件の報を聞き、面会に駆け付けたのなら、取調室ではなく、別にある接見室に通されるはずです。取調室で被疑者と面会するのは、捜査関係者だけです。あの夜、彼は小さな事務用品会社の会社員だと自己紹介をしていましたが、嘘だったとは。まさか、あの時から、彼は既に私の犯行を疑っていたのでしょうか。否、今まで何人かの刑事さんが取調べに立ち会いましたが、一度も彼の姿はありませんでした。
 呆然としているうちに、押送の制服警官は私を椅子に座らせ、手錠と腰縄を外し、部屋の外に出て行きました。古びた木の机を挟み、私たちは対面します。
「お久しぶりです。留置場は寒いでしょうが、お加減はいかがですか」
 みすぼらしい格好の私を何の感情も籠らぬ冷やかな目で観察しながら、寒川は尋ねてきました。
「何ともないわ。あなた、刑事だったの」
「ええ。嘘を吐いて申し訳ありませんでした。あの時は、身分がばれてしまうのはあまりよろしくなかったので」
 薄い唇が口先だけの謝罪を述べました。取調室の電球の下で見ても、彼の唇は相変わらず血色が芳しくありませんでした。体調が悪そうには見えませんので、そういう体質なのかもしれません。口づけをした時の、体温を感じさせぬ乾いた感触が蘇り、私は無意識に自分の唇を人差指でなぞりました。
「今更何の用かしら。簡単に騙された私を笑いにいらしたの」
 私は獄に繋がれても気高さを失わない王妃、と自分自身に言い聞かせ、虚勢を張りました。しかし、寒川は無表情で否定しました。
「いえ。殺人事件について、あなたに本当のことを話して欲しくて参りました」
「本当のことなら、担当の刑事さんや検事さんにお話ししているわ。新聞にも載っているでしょう。あの日、あなたに話したことは、全て本当。先生を殺してしまったことを黙っていただけよ」
「私はあなたの供述は嘘だらけに思えてなりません」
 気の強そうな双眸が射貫くようにこちらを見据えました。ビー玉みたいだった瞳の奥に何がしかの強い感情の炎が灯り、私はやにわに心臓をナイフで抉られるような衝撃に怯みましたが、すぐに女優根性で立て直しました。
「私は真実しか話してしません。一体何を証拠にそんなことを仰るの」
「証拠はありますが、現段階であなたに開示する必要はありません」
「なら言わないわ。帰って頂戴。言っておくけど、殴っても無駄よ。本当のことはもう全て話しているのだから」
 私は足を組み、ふいとそっぽを向きました。ぶたれたり、怒鳴られたりするのも覚悟しましたが、折角考えた完璧な物語を、端役の童貞眼鏡に壊される訳にはいきません。こうするしかなかったのです。
「老婆心ながら申し上げるなら、こうなってしまった以上、本当のことを話した方が良いですよ。嘘は吐いた者の魂を蝕み、首を締め上げ、足を絡めとります。何より、嘘だと露呈してしまった時、惨めです。本当のことを話して貰えないと分かった上で、一つだけ確認させてください。神宮寺さん、あなたが本当に殺したかったのは、一ノ谷先生ではなく、南條幹雄さんなのではないですか」
「違うわ! 私が憎んでいたのは一ノ谷先生よ! 南條なんてどうでもいい!」
 予想だにしなかった、見事に図星を刺す問いを、私はヒステリックに、前のめりになって否定しました。感情的になってはいけないと気を張っていたのに、何という失態。これでは、認めてしまったようなものです。
 私を冷やかに見つめる寒川の眼鏡のレンズに映った電球は、ゆらゆら揺らめいていて、まるで、百物語で最後の一本になってしまった蝋燭みたい。背筋を冷たいものが上っていきました。
「馬鹿なことを言うのはやめて頂戴。不愉快よ」
「馬鹿なことを言っているのは、どちらか」
 眉間に深い皺を寄せ、寒川は大きく嘆息しました。ついでに、右手の中指で、ずれた眼鏡の位置を直す仕草は、やっぱり神経質そうで、純朴なサラリーマンではないと判明しても、彼は潔癖で女慣れしていない雰囲気を醸し出していました。
「あなたなんかに私の何が分かるって言うのかしら。証拠があるなんて、嘘なのでしょう? これ以上話すことはないわ。帰って」
 私は緩く結った髪を片手で乱暴に掻き、吐き捨てました。もどかしくて、苛々して仕方ありませんでした。何故、私が一ノ谷先生を南條と間違えて殺したと考えたのか、寒川に聞きたかったのですが、もし、動かぬ証拠を突きつけられてしまったら、今まで紡いできた、偽りの物語が水泡に帰してしまいます。そんなの絶対嫌でした。
 退去命令を受け、眼鏡の青年は、床に置いていた鞄とトレンチコートを膝の上に抱え、帰り支度を始めました。意外にあっさり帰ってくれるようです。
 ですが、歯に物が詰まったままのような気持ちの悪さはあれど、安堵したのもつかの間、彼は正面切って、私の自尊心を決定的に傷つける捨て台詞を吐きました。
「そうだ。私もあなたにまだ嘘を吐いていることがありましたので、告白しておきます。私は別に演劇好きではありませんが、黄色い家の中では、強いて言えば、こりんちゃんのファンです。一生懸命な姿に元気を貰えます。いい歳をして、年端も行かない娘を好きだなんて、恥ずかしくてあまり大声では言えませんけれど」
 自分では茶目っ気を見せたつもりなのか、寒川は頬を引くつかせ、笑いました。痙攣を起こしているみたいなへたくそな微笑でした。
 私は負けた。忌々しい二番手女優の波子どころか、十五歳の少女にすらです。恐れるまでもない、取るに足らない存在だと認識していたから、優しい姉さんとして接していた子に、一番を奪われた。
 寒川の本心に気づかず、私に心酔した脇役の青年役を彼にやらせようとしていたなんて、滑稽も良いところです。どこか冷たい、一歩引いた態度は、照れていたのではなく、単に私に興味がなかっただけだったのではないかと一瞬考えましたが、直ぐに打ち消します。私に誘惑されて、気持ちの動かぬ男なんているはずない。
 大体、一生懸命だから何だと言うのです。女優としての実力は比べるまでもなく、こりんより、私の方が上だというのに。
 寒川も南條も皆馬鹿です。本物を見抜き、愛でる審美眼もなく、表面的な若さや愛らしさに気を取られ、安っぽい女にうつつを抜かす。それに引き換え、一ノ谷先生はいつも正当な評価をしてくだすっていた、そう思った瞬間、私は自分がやらかしてしまった罪の重大さを本当の意味で悟り、絶望しました。
 寒川が呼び戻した制服警官に手錠をかけるので、腕を前に出すようにと言われましたが、私は恥辱のあまり、体が強張り、思うように動けませんでした。その光景を、眼鏡の奥の切れ長の眼はじっと観察していました。
 そして、真実という絶対的な力は、嘘つきの女優を糾弾する勢いを緩めませんでした。私は翌朝の各紙朝刊の一面記事を飾った事件に度肝を抜かれました。
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