5 初心な男

文字数 5,644文字

 結局、その日は、夕方に漸くお巡りさんの現場検証や事情聴取が終わり、息をつく間もなく、私たちは夜の公演を終わらせました。一ノ谷先生の死は、既に夕刊やラジオで報じられていましたので、お客様の中には、公演中止を危ぶまれた方も多かったそうですが、私たちはやり遂げました。東京日月新聞様を始め、沢山の新聞や雑誌、ラジオが、支柱となる脚本家を失ってもなお、観客に感動を届けた劇団黄色い家の偉業を褒めたたえました。
 つい数時間前まで死体が転がっていた舞台の上で、歯の浮くような台詞を口にし、本来なら殺していたはずの男と口づけを交わすのは、大変おかしな気分でした。
 終幕後、お客様方が座席を立ち、満場の拍手を下さり、劇場内が高揚に包まれたのも、よく考えると気持ちの悪いものでした。お客様含め、皆が一ノ谷先生が亡くなったことを悲劇と捉えている一方で、先生の死を自分たちが感動するための出汁にしている不謹慎さというべきでしょうか。そんなものを私は感じ取り、不快になりました。まあ、殺したのは私なんですけどね。
 刑事さんたちからは、最近の一ノ谷先生の様子や昨晩のアリバイなどを聞かれましたが、誰も連行されることなく、解放されました。
 警察は、鋭利な刃物で意図的に切られた痕跡のある、シャンデリアを吊るしていたロープを根拠に他殺を疑っている、と監督が教えてくれました。だけど、深夜のことですから、アリバイのない人も私以外にも複数いましたし、私たち以外の外部犯の可能性も、その時はまだ否定できないようでした。
 何故だか先生と衣服を交換していた南條だけが、他の人より若干長く取り調べられていました。が、その後に調べのあった私は通り一遍のことしか聞かれなかったので、彼は私との待ち合わせについては話さなかったようでした。


 衣装を着替え、化粧を落とし、劇場の外に出ると、意外にも辺りは閑散としていて、静かな夜の帳に包まれていました。お客様はともかく、新聞社の方々なんかが張り込んでいるのではないかと身構えておりましたので、拍子抜けしました。
 池袋駅まで続く大通りに出る小道を少し歩いたところででした。私は電柱の影から、涼しげで低い男の声に呼び止められました。
「神宮寺恭子さんですよね。今日の公演、非常に感動しました。あんなことがあったばかりだというのに、さすが女優さんですね」
 声の主は、黒のトレンチコートを着、同系色のソフト帽を被った背の高い青年でした。銀縁の眼鏡をかけていて、街灯の光に照らされた顔立ちは、色白でやや神経質そうでしたが、知的で整っていました。冷徹そうな見かけに反し、頬を薄っすら朱に染め、私の目を見ずに話す様子は初心な中学生みたいで、母性本能がくすぐられました。
「公演、見て下さったのですね。ありがとうございます」
 完璧な微笑みを湛え、お決まりのお礼を口にすると、彼の頬は一層朱く上気しました。こんな遅くまで、外で私を出待ちしていたのでしょう。嬉しいものです。
「ずっと待っていてくださったのですか? 寒かったでしょうに。よろしかったら、サインとか握手を差し上げましょうか」
「え、良いのですか?」
「勿論ですわ。応援してくださる方がいるから、私たちも悲しい出来事があっても頑張れるのです」
 そわそわと革の通勤鞄を漁り、サインできそうなものを探している美青年を見ているうちに、私の頭に悪魔が舞い降りました。
 この男を私の大芝居に利用できないものか、と閃いたのです。彼は見た目こそ、当世風の紳士でしたが、言動からは、女慣れしていなさそうな、何とも残念な野暮ったさが漂っていました。少し誘惑すれば、簡単に何でも言うことを聞く、美麗な男奴隷に仕上げられそうな印象と言いますでしょうか。私の熱烈なファンのようですし、上手く操れば、大芝居をより劇的に彩る脇役になれる素質を感じさせる殿方でした。
「ねえ、こんなところで立ち話もなんですから、どこかでお酒でも飲みません? 色々あって、私もいっぱいいっぱいで。誰かにお話しを聞いて頂けたら、少しは気分も晴れそうな気がするの」
 男の二の腕辺りを軽く撫で、上目遣いで誘います。真っ黒で長いまつ毛に縁どられた二重瞼で作る流し目は、さる演劇雑誌の記者様にも『少女の如き無垢さと大夫の色香の同居した逸品』と褒めて頂いたこともあります。私の武器と呼んでよいでしょう。
 意外に硬い筋肉の感触に、私も少しどきりとしましたが、あちらは大変分かりやすく動揺を示しました。ばね仕掛けの人形みたいに後ろに飛びのき、恐縮します。
「そ、そんな。雑誌記者にでも写真を撮られたらまずくないのですか。それに、神宮寺さんとお酒を飲むなんて、その……」
 帽子の下から少しだけ覗く耳たぶまでを真っ赤にして、青年は消え入りそうな声で続けました。
「緊張します。恐れ多すぎて」
 かわいい。自分と同年代と思しき紳士に対し、失礼なのは百も承知で、そう思わずにはいられませんでした。私はかわいい子には意地悪をしたくなってしまう、男の子みたいな悪い癖を出してしまいました。
 後ずさりをする男性の腕に飛びつき、ぎゅっと胸に抱きしめ、つま先立ちで、朱色の耳朶に囁きました。
「緊張なんてする必要ないわ。女優神宮寺恭子ではなく、一人の人間として、お喋りのできる人を求めているの。あなたなら、きっと務まる。だって、とても純粋そうだし、いい人そうだもの」
 青年はそっぽを向いたまま、恥ずかしそうに首肯しました。ふふ、思った通り、簡単な男です。
いい人って、便利な言葉ですよね。言われた方は、舞い上がってしまい、裏にどれだけの皮肉や棘、罠、毒、軽蔑が仕込まれていても、全然気づかないのです。特に男の人はそういう方が多いと思います。
世の殿方の中でも、ひと際単純そうな眼鏡の青年は、駅近くのバーに着くまで、心ここにあらず、お酒を飲む前から浮遊するような足取りでした。
 顔だけしか取り柄のない南條に弄ばれた後でしたから、初心そうとはいえ、男前の紳士を意のままに操る快感に私は上機嫌になり、一ノ谷先生との嘘っぱちの因縁話も面白いくらい次々と浮かんできました。
寒川(さむかわ)という名字のこの青年に話した作り話は、皆さんもよく御存知のものとほぼ同じです。 私が逮捕された後、池袋署の副署長さんが私の供述内容を発表し、各紙がこぞって、熱病にでも罹ったみたいな筆致で書き立てたあれです。先生に主役に抜擢して貰う代わりに、性奴隷になるよう強要されたという話です。唯一違うのは、一番重要な、私が先生を殺したという罪の告白がなかったところです。
 一ノ谷先生には感謝しているし、その死を悼む気持ちはある。でも、先生にされたことを許せずにいる自分が堪らなく嫌だと、私は寒川に対し、切々と訴えました。時に目を潤ませ、彼の逞しい腕にしな垂れかかったりしながら、煽情的な物語を紡いでいきました。
 憧れの女優のあまりに悲惨で、かつ淫らな身の上話に打ちひしがれているのか、薄暗いランプの下、青年の白皙は更に青白く血の気が引いていました。
 性奴隷として強制された数々の異常な行為を事細かに、打ち明け終え、乾いた喉をハイボールで潤す私に向け、寒川は漸く重い口を開きました。かわいそうに、愕然として、心が摩耗してしまったのか、無感情で抑揚の少ない語り口でした。
「何と申し上げて良いのか分かりませんが、筆舌に尽くしがたい体験をされていたのですね。不謹慎と叱られるのも承知で言いましょう。何故、一ノ谷先生が亡くなったのかは未だ捜査中ですが、きっと天罰が下ったのでしょう。あなたへの、およそ人道から外れた、浅ましい行いの罰ですよ」
「だからって、命まで奪われるなんてあんまりよ」
 ハンカチで嘘泣きの涙を拭いながら、私は何とか声を絞り出して話している、けなげな女優を演じました。まだ、あまり彼がお酒を飲んでいないのは気になりますが、そろそろこの場はお開きにして、長崎の私のアパートにこの男を連れ込み、汚れてしまった体を彼の清廉潔白で真っ直ぐな魂で清めて貰うという、官能的でありながら、ドラマティックな次の場面に進みたいものです。
 柔らかくふっくらと大きい、自慢の乳房を寒川の腕に押し付け、アルコールで充血した瞳で、眼鏡の奥の凛々しい双眸をじっと見つめようとした直前、彼は唐突に席を立ち、私から距離を取りました。
照れているのでしょうか? けれど、彼は苦虫を噛み潰したみたいな気難しいしかめっ面をし、訥々と一ノ谷先生の死についての話題を続けました。
「神宮寺さんは、一ノ谷先生の私生活もよく御存知だったとお見受けしますが、先生が貴女以外の誰かから恨みを買っていたり、面倒事を抱えているような様子はありませんでしたか。その、例えばやくざとか極左集団みたいな、反社会的な連中と付き合っていたとか」
「さあ、私の知る限り、そういうのはありませんでしたわ」
 あと少し手を伸ばせば、劇団黄色い家、看板女優神宮寺恭子の体を好きなようにして良い権利を手にするというのに、自ら身を引くような言動を取るなんて、とんだ朴念仁です。私は南條のような遊び人は大嫌いですが、寒川のように据え膳を無視する、誠実を通り過ぎ、気が利かなすぎるほどに初心な男にも苛つきます。はしたない言葉で言うなら、童貞臭さにうんざりするのです。
「左様ですか。では、看板男優の南條幹雄さんと一ノ谷先生の関係についてはいかがですか。仲が良かったのでしょうか。実は、劇場前にいた新聞記者に聞いたのですが、先生は亡くなった時、南條さんの服を着ていたらしいですね。二人は服の貸し借りをする程、親しかったのでしょうか。俺は友人が少ないので、男同士、どれくらい親しくなれば、洋服を交換するまで親密になるのか、よく分かりません」
 てっきり、慌ててご機嫌取りに出るかと思いきや、寒川はなおも一ノ谷先生の事件に拘り続けました。しかも、今度は耳にするのも忌々しい、遊び人の名まで出すのです。中々の男前で、身なりもしっかりしているのに、彼の周囲が野暮ったい空気で満たされている理由がはっきり分かりました。ご婦人方に好かれそうな恵まれた容姿も、この性格では台無しです。
「ねえ、もう気が滅入るし、こんな話やめません? 先生と南條さんが特別仲が良かったかどうかなんて、私は知りませんし、知っていても話す気分になれないわ。だって、先生が亡くなって、漸く一日経つくらいなのよ。気持ちの整理がつきません。先生には、酷い目にも遭わされたけど、あの方の存在は私の女優としての魂の一部でした。それが急に消えてしまった今、心にぽっかり穴があいてしまったような喪失感で倒れそうなの。ねえ、寒川さん。この穴、あなたが埋めてくださらない? 私のアパート、ここから近いの。タクシーを使ってもいいわ」
 私から、ここまで強引に殿方を誘惑するのは初めてでした。だって、少しばかり愛想良く微笑んでいるだけで、男は自然と寄ってくるものでしたもの。だけど、この童貞ときたら、女優神宮寺恭子のファンのくせに、いざ本人と二人きりでカウンターに並ぶと、何も自分からできやしないのです。正直不愉快でしたが、だからこそ、絶対にこの男に、好きだと言わせたい、と負けず嫌いな私は闘志を燃やしてしまったのです。
 けれども、彼はいよいよ眉間の皺を深くし、冷徹にさえ聞こえる口ぶりで言い放ちました。
「今はお辛いでしょうが、お気を確かに。心の穴とやらは、案外仕事が埋めてくれるものです。どうぞ、今まで以上に、演技を研鑽してください。より精錬されたあなたの演技を、ファンとして楽しみにしていますから。お帰りになるなら、お送りします。でも、家の前までです。それ以上は、辞退いたします」
「いいじゃない。今日くらい」
「良くありません。すみません、マスター。こちらのご婦人にお水を一杯。それから、タクシーを一台呼んでください」
 寒川は何のためらいもなく、私の誘いを無下にし、事務的に帰り支度を始めました。その態度は、用は済んだ、これ以上は関わりあいになりたくないと暗に言っているようで、私の自尊心は酷く傷つきました。でも、泣き叫んで駄々をこねたら、女が廃ります。悔しいですが、彼が女心を介さぬ馬鹿者だったと思い込み、留飲を下げるしかありませんでした。
「話を聞いて貰えてすっきりしたわ、ありがとう。お礼よ」
 家まで送って行くという寒川を振り切り、タクシーに乗り込む間際、背伸びをし、不意打ちで、彼の薄く血色の良くない唇に口づけをしました。
 そして、何事もなかったかの如く、車に乗り、発車させました。バックミラーで、呆然と通りに立ち尽くす青年の姿を視認し、私はゆったりとほくそ笑みました。最初のシナリオ通りにはなりませんでしたが、今のキッスで間違いなく寒川の記憶に私という存在の爪痕を残せたはずです。
 手の届かぬ高根の花の女優と二人きりで酒を飲みかわし、衝撃的な告白をされ、別れ際に、口づけをされたなんて、平凡なサラリーマンにとっては、一生忘れられない出来事となるでしょう。しかも、その女優は近いうちに、脚本家殺しの犯人として、稀代の妖婦として逮捕されます。彼は、今宵を現実として受け止められず、私の影を追い求め、残りの人生をふいにしてしまうかもしれない。
 とりとめもなく考えていると、段々、最初に思いついた展開よりも、こちらの方が良い気がしてきました。体は許さず、キッスだけで男を狂わせるなんて、却ってロマンティックです。
 私はお酒のせいもあり、上機嫌になり、知らず知らずのうちに鼻歌を歌っていました。藤山一郎先生の『東京ラプソディ』です。池袋は出てきませんが、モダンで艶っぽいのに、どこか切なげなメロディは私のお気に入りです。
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