4 開幕

文字数 3,091文字

 最終的に逮捕される覚悟はできましたが、余りにすぐに捕まってしまっては、物語を完成させられません。私はキャットウォーク周辺やロープを切るのに使った、大道具係のナイフに残した指紋を拭き取り、人目を忍び、裏口から帰りました。
 十分ほど早足で歩いて辿り着いた、池袋駅近くの雑踏は、今しがた自分が犯した犯罪は全て夢であったかのように、普段どおりでした。
 仕事を終えたビジネスマンたちが、ぞろぞろと蟻の行列のように駅舎に吸い込まれていきます。駅前のデパートは既に閉店をしていましたが、繁華街の飲み屋からは、温かい電灯の光が漏れ、今にも楽しげな笑い声が聞こえてきそうでした。
 多分、平静ではない精神状態故だったのでしょうが、目の前に広がる街並みが、セルロイドでできた、まがい物のジュエリーのように作り物臭く見え、自分がまだ、舞台上にいるような妙ちくりんな感覚に囚われました。
 人を殺してきたばかりの私も、雑踏の中では大勢の偽物めいた群衆の一人でしかありませんでした。急に、生きるか死ぬか、ハムレットの如く髪を振り乱し、深刻に悩んでいたのが馬鹿らしくなってしまい、無性にこみあげてくる笑いを堪えるのに難儀しました。
 さあ、明日から女優神宮寺恭子の一世一代をかけた大芝居の幕開けです。きっと素晴らしい舞台にしましょうね。
 景気づけにデパートで新発売の資生堂の香水を買って帰れないのは残念でしたが、陰気な色の背広を纏った殿方に混じり、駅舎に向かう足取りは自然と軽くなっていました。


 翌朝、劇場に着くと、既に入り口には物々しい風体の制服警官が見張りに立っており、中に入ろうとした私に早速、誰何してきました。
 劇団黄色い家所属の女優神宮寺恭子だと名乗ると、裏口から中へ入れて貰えました。しかし、自分の楽屋には通して貰えず、一番広い稽古場に連れて行かれました。
「恭子ちゃん、大変だよ! 一ノ谷先生が死んでしまったんだ!」
 中に入るなり、小道具係の鼠に似た男が、血相を変えて飛んできました。そんなこと私が殺したのですから勿論知っていますが、私は持っていたハンドバッグを取り落とし、瞳を見開き、頼りなげな足取りで、十数名の劇団関係者が待機させられている部屋の奥へと進みます。
「どういうこと? 先生が亡くなったって。警察の方々がいらっしゃるのと関係あるの?」
 か細く掠れた声を絞り出し、何が何だか状況が飲み込めていないという演技をすると、一番奥のソファに腰掛けていた監督が忌々しげに吐き捨てました。
「朝、小間使いが出勤したら、舞台の上で一ノ谷はシャンデリアに潰されて死んでいたそうだ。事件か事故か警察が捜査中だ。俺たちも直に事情聴取をされるよ。全く、今日の夜の公演までには間に合うのだろうな」
 草莽期から、劇団を共にけん引してきた同志が死んでしまったというのに、監督は公演の心配をしています。断っておくと、彼は根っからの演劇人であるが故、人の死よりも公演の心配をするという、ある意味感心すべき心の持ち主ではありません。単に、チケットの払い戻しや苦情対応、今後の劇団運営の面を憂い、不機嫌なのです。自分勝手で血の涙もない男でしょう? 人殺しの私が言うのも変ですが。
「そんな、監督あんまりです。一ノ谷先生が亡くなったばかりなのに」
 すかさず、良い子ちゃんな台詞を口にするのは、そう、波子です。ご丁寧にも、彼女の丸く大きな瞳は充血し、白く小さな手はレースのハンカチを握りしめています。芸が細かい。細部の作り込みまで手を抜かないのは、さすが女優です。
「波子ちゃんは優しいね。でも、一ノ谷先生なら、こんな時でも、無事公演をやり遂げるのを望んでいるんじゃないかな。先生は演劇に命を賭けていたからね」
 身も毛もよだつような白々しい綺麗事を吐き、粘ついた手つきで波子のか細い肩を抱く男に、私は一瞬、とてつもない熱量の殺意を抱きました。シャンデリアに潰されて死ぬべきなのは自分だったのに、涼しい顔で部外者を気取り、助平心をのぞかせている南條。もし私の手に機関銃があったなら、こいつのにやけた軽薄な顔面をザクロのようになるまで撃ち抜いてやりたかったです。
 この日も、奴は、悪趣味な赤色のジャケットを着ていました。何故、昨晩、先生がこいつの服を着ていたのかと問い質してやりたいですが、できないのが何とも悔しかったです。
 それはともかく、昨日は気が動転していて気づかなかったのですが、私が殺人犯として疑われるか否かは、南條の気分に大きく左右されてしまうと気づき、私は愕然としました。
 昨日の昼、私は彼のロッカーに、午後九時半にステージ上で待っていると書いた手紙を入れました。そして、何故か身代わりで、一ノ谷先生が亡くなってしまったのです。呼び出しのことを知ってる南條の立場から見れば、私はかなり怪しいのです。もし、犯人ではなくても、待ち合わせ通りにステージに向かえば、私は昨日のうちに事件の第一発見者になっているはずなのに、何食わぬ顔で翌朝出勤しています。明らかに妙です。いくら頭が空っぽの南條でも、変だと思うでしょうし、本当に何も考えていないなら、警察に知っていることを、洗いざらい話してしまう恐れがあります。
 彼が素知らぬ顔をしているのが不気味でした。これから始まる取調べで、神宮寺恭子が犯人かもしれないと警察に密告するのでしょうか。だとしたら、私に残されている時間は、思った以上に少ないです。早く物語を完成させないと。
「嗚呼、先生。亡くなったなんて嘘でしょう? 私、先生のところに行ってくるわ。ちゃんとこの目で確認しなきゃ、信じられない」
 内心は口封じがてら、南條をぶっ殺してやりたい気持ちで煮えたぎっていましたが、感情に流されては、主演女優失格です。私は、恩師と呼ぶべき先生の死を受け入れられず、錯乱する哀れな女を装いました。
「恭子さん、駄目だ。まだ警察が調べている途中だから、俺たちは入れて貰えないよ」
 道化役が得意な中年役者の熊木さんが、稽古場から飛び出そうとする私の腕を慌てて掴んで止めます。
「離して、熊木さん。先生が、先生が、そんなの嘘よ!」
「嘘じゃないよ。残念ながらね」
 わあっと声を上げ、私はその場で泣き崩れます。それを合図に、他の役者や裏方たちも、神妙な面持ちで下を向いたり、涙ぐんだりしました。そりゃそうですよね。劇団の女王が、脚本家の死に取り乱して泣いているのだもの。場の雰囲気を損なわせないためには、悲しそうな素振りは必須です。
「先生! まだ教えて頂きたいことが沢山あったのに」
 部屋の隅の方でしゃがみ込んでいた少女が沈痛な悲鳴を上げました。(はな)(ざわ)こりん、先日の公演で、初舞台を踏んだばかりの十五歳の子供です。指の間から様子を伺うと、まだ幼さが大分残っている顔を紅潮させ、ぼろぼろと涙を流していました。他の人とは違い、この子は本気で泣いていると、私は冷静に見定めました。無理もありません。東北のどこかから、女優になるために単身上京してきた彼女を、一ノ谷先生は娘のように目にかけてやっていましたから。
「先生は帝都での私の父さんなの」と自慢げに話す様は、あどけなく、微笑ましかったものです。
「こりんちゃん、辛いわよね」
 私は姉さんらしく、いじらしい少女の側に寄り、しゃくり上げて震える背中を抱き締めました。ごめんなさい、私も先生を殺すつもりはなかったの。でもね、あれは事故だったの。仕方なかったのよと心の底で言い訳をしながら。
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