8 終幕

文字数 1,519文字

 東京日月新聞本社社会部記者室で、臨時記者の河竹(かわたけ)(しょう)()は、こまごまとした女手で綴られた厚い手紙を手に、眉を顰めた。新聞社に届く投書の中には、脅迫めいたものや、精神を病んでしまった者が、神経科病棟の檻の中から綴ったと思しきもの等、受け取りはするものの、一定期間保管して処分せざるを得ない代物がしばしば混ざっているが、これはどうしたものか。
 脚本家殺人で逮捕・起訴された女優神宮寺恭子本人が書いた手記。彼女が目論んでいるとおり、公表すれば、大衆の猟奇趣味的興味を刺激するのは間違いないだろう。特集記事を組むことだってあり得る。
 一見上品な文面からは、筆者が自己顕示欲に溺れ、行きついた凡そ普通人には理解できぬ、狂気の世界が垣間見える。おぞましく、浅ましく、気味が悪い。だが、昭和の初めから続く閉塞的な世相に飽き飽きした大衆が、この頭の狂った手紙をこぞって読み、ああだこうだ騒ぎ立て、来たる彼女の公判に押し寄せる様子が目に浮かび、頭痛がした。
 警保局の検閲で跳ねられれば問題がないのかもしれないが、この手紙の始末を他人任せにするのも無防備すぎる。
 彼女をめぐる劇団内のドロドロとした人間関係の暴露なんぞはどうでもいい。問題は、寒川という特高刑事を名乗る謎の男についての記述だ。彼の存在が公になるのは、厳に慎むべきである。
「河竹君、郵便物の仕分けが終わったら、こっちを手伝ってくれないか」
 デスクに声を掛けられ、河竹は決心がついた。恭子の手紙は自分限りで握り潰し、恭子には新聞検閲に引っかかったので、掲載は出来ないと返事を出そう。編集長の職印は深夜にこっそり拝借すればよい。『臨時記者』という正規社員ではない、期間限定の助っ人という地位を利用するとしよう。
「もう少ししたら終わりますので、少々お待ちください」
 恭子の手紙を背広の内ポケットに突っ込み、何事もなかったかのように彼は返事をした。
 

 数日後、河竹は、雇用期間を終え、東京日月新聞社を去った。退社途中、拘置所に移送された神宮寺恭子宛ての、記事掲載を断る旨、記した編集長名義の偽造文書を、社屋近くの郵便ポストに投函するのも忘れなかった。 
 忙しなく行き交う背広姿のビジネスマンの人並に紛れても、背が高い彼は頭一つ飛び出てしまう。けれど、茶色のソフトを目深に被り直し、足早に歩くうちに、不思議と青年の存在感はかき消され、やがて雑踏に溶け込む。
 あの夜、彼は一ノ谷を監視すべく、特高刑事と二人で行動していたため、事件発生当初から、恭子の嘘を見抜けたし、一ノ谷と南條の入れ替わりトリックにも気づけた。
 一ノ谷に成りすました南條を特高刑事に尾行させ、彼自身は劇場の裏手で張り込みを続けた。よって、シャンデリアが落下した時に発生した、大量の硝子が割れる轟音も聞いていたし、それから約三十分後に、顔面蒼白な恭子が覚束ない足取りで、周囲を矢鱈警戒しながら、誰もいなくなった劇場の裏口から出て行ったのも観察していた。
 だが、秘密結社について、有用な情報を引き出せぬものかと功を焦った特高部に押し切られ、二度も直接、彼女に接触してしまった結果、いらぬ刺激を与えてしまい、寒川という架空の刑事の存在が公になりかけてしまった。
 恭子の異常な程の目立ちたがりな性格を危惧し、彼自身以外にも、同僚数人を動員し、主要新聞社や出版社に間者として潜り込ませておいたため、辛くも事なきを得た。
 かつて寒川と名乗り、ついさっきまで河竹だった、大日本帝国陸軍の諜報員は、べっ甲縁眼鏡の位置を革手袋をはめた指先で神経質に直すと、薄い唇の端を微かに吊り上げた。

《了》
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