一般小説:『四人の彼』
プロローグ より抜粋、加筆修正
(彼が来たらどのような顔をしたらいいのだろうか。うまくすれ違えるだろうか。)
あと30メートルくらい。
彼は床を見て歩いている。
もしかしたらあちらも私に気付いているのかもしれない。
私は一瞬目をつむってしまう。
話しかけるということがこんなに『怖い』と思うとは。
私が最後に送ったメールですが、急ぎではないのでゆっくりで大丈夫です!
これが2年ぶりの会話のはじまりか…
正確には再会後に何度か声は交わしたがじっくり話すレベルには至らなかったから。
まともに話すのは本当にひさびさかもしれない。
予想では「分かりました」で立ち去るはずが
彼が会話を繋げてきたから私は少し動揺した。
直近でメールしたあの問題は、彼に投げっぱなしで自分では試していない。
はい、自分なりに頑張ってみましたが
~さんが「やってみたことはありませんが、難しいと思います」と返信されていたので、急ぎではないことを言わなければと思って。
私は罪悪感からか彼から目をそらしながら話し続けた。
私ばかり話してる。
違う、私は彼の声が聞きたいだけなのに。
~さんはどうしてやったことがないのに難しいと分かったのですか?
そうだった。
彼の笑顔はにっこりとかにこにことかそういう種類ではなかったことを思い出した。
私は仰々しくならない程度に笑顔を作った。
社内でのマスク着用は任意だが、彼はしておらず、私はしていた。
現在6月も後半。
暑い…
べたつく…
汗がマスクに染みているんじゃないかと不安になるが会話のチャンスは少しでも引き延ばさないと。
話せるネタもないので、前回最後にメールした内容を口頭でも伝えることにした。
~さんには、聞きたいことがたくさんあるんです。
でも私のメールを書くスピードが追いつかなくて解決できない問題が山積みになっていて…
メール、ちゃんと書きますので……
相手してください。
私は、彼が美しい切れ長の目の持ち主であることを思い出した。
そして忘れていたけど鼻筋も通っていて、私の思い出の中にいる彼よりずっと整った顔をしていたことが分かった。
だめだ、このままだと見とれてしまって話に集中できない。
(何も話さないでいいから、ただじっと彼を見ていたい。)
そして、彼からもただずっと『見られていたい』と思った。
彼の癖なのか、彼は私の目を長い時間見ていることが多い。
普通の人でも似たような人もいる。
ただ彼は…
彼は何も話さない。
その代わり、のぞき込むようで見透かしてきそうなくらい私を見つめ返していた。
彼はかすかに笑っていた。
何も話さないのに余裕そうだ。
まるで何分も見られたような気がしたが、きっと1分~2分くらいだったろう。
(もしかしたら私のマスクに汗が滲んでいたのだろうか。)
この問題は彼のようなスキルのある人にしか相談できないのに拒絶されたと思った。
私たちの課は現在彼の元同僚がヘルプデスクの担当だが少々心許ないのだ。
(たぶん、プログラムの話は専門外として、相談には乗ってもらえないと思うな…。)
私はマスクの下でとても不安な顔をしていたに違いない。
~さんが「こきつかえる」ように、元同僚にはちゃんと『教育』しましたよ。
そう言うと彼はふっと小さく含みのある笑いをしながら私の元を立ち去った。
元同僚さんには悪いけど、彼と同じスキルを数日で取り入れるなんて無理だもの。
彼はもう何メートルも先を歩いていて角を曲がってしまい、もうその姿は見えなかった。
(何を考えているのか、分からないまま消えてしまった…。)
『文字の彼』とは、彼がメールでやりとりするときの『人格』を指している。
すれ違いに表れる『実体の彼』は今のようにつかみどころのない性格だが
『文字の彼』はいつも冷静で、的確で、迅速な返事をくれる、行動で示すタイプの優しさを持つ誠実な彼だ。
「~さん、VBAでこのような最終形にしたいということであれば、わり算と余りの考え方を利用すると良いでしょう。参考用のサンプルを添付しますので中身を見てください。」
「~さん、お問い合わせの設定の件ですが、まず状況を教えてください。~さんは個人PCから共有PCにリモート接続をしようとしていますか?それでしたら問題発生はこのチェックボックスが原因です。チェックをはずしてください。」
(どうして、そのように扱ってくれるのか分からないまま…)
(私にいつも安心と誠実さと信頼を与えてくれる存在としてずっとサポートしてくれる…。)
文字の彼の不思議なところは、『気持ち』に関する記述には『一切反応しない』ことだった。
そうされたとき、いままで共有していたやりとりの流れが全部虚構かと感じるようにすべて置いて捨て去られた気持ちになる。
そして絶対そうならないように文字の彼とのメールには細心の注意を毎回払っていたのである。