文字の彼 Rev1 ─休日出勤と彼の優しさ─

文字数 1,607文字

一般小説:『四人の彼』から

休日出勤と彼の優しさ より抜粋

私は『文字の彼』を振り返る。
彼は異動してから2年間、文字だけで私を支えてきた存在だ。

私と彼のメールボックスを見てもただの業務メールにしか見えないだろう。


しかし、彼が私にしていることはとても尊く感謝するべき事だと思っている。


彼はプロフェッショナルな観点から私の問題を迅速に解決する、いわば私専用のヘルプデスクだ。

(しかしこの対応の手厚さは業務範囲外のレベルを超えている。)

(なんなら有償でしていただかないといけないくらい…)

先輩の台詞が頭をよぎる。

え?

本職の人にExcel VBA教えてもらってるの?

うらやましいなあ~。ちょっと見せて。


…これ、お金を払わなきゃいけないレベルだよ。

そのひと、俺にも紹介してよ!

お礼とかしたほうがいいのかなぁ…
会社には『社内メール便』という部署や勤務地を越えて荷物を送れる仕組みがある。

分かりやすく言うと社内用宅配便だ。

社内メール便で送ったとしても受け取らなそう…
(やめよう、彼はそんなぶりっこみたいなこと求めてないと思う)

最大限に努力してうまくいかなかったとしても、最後には彼に聞けば大丈夫、そう、大丈夫なんとかなる。

私はいつも孤独でかさついていた心が清涼感と温かさに満たされるのを感じる。

彼からしか得られない栄養分があって、私はそれを何度も求めた。


それは包み込まれるような安心感と信頼だ。


できるだけ迷惑にならないで、かつ忘れられない間隔で彼に質問メールを繰り返し送った。

彼とのやり取りは、メールの返信速度が速いこともあり、まるでリアルタイムで彼自身が隣にいるかのような感覚を与えてくれた。


文字を通じて感じる彼の存在は、孤独な私の唯一の支えであり、それは現実の彼と何も変わりがないと思っていた。

このまま彼がここでヘルプデスクを続けてくれていたらもっと仲良くなって、もっとお近付きになれたのかな…

ある日曜日、私はひとり休日出勤がありくたくたになりながら仕事をこなしていた。

(なんだか、心がすごい速さで乾燥する…。)

(このままでは世の中すべてを呪ってしまいそう…)

ふとメールボックスに目をやる。
(…)

「~さん、こんにちは。私は今日、休日出勤でつらいです。とても疲れました。いつもはVBAの質問メールですが、今日はこんな中身のないメールを送ってごめんなさい。」

理性が疲れているのか、感情だけで意外とさらさら文が書けた。

下書きを保存する。

またメールを開く。

(…)
えいっ!
送信ボタンを押してしまった!

不用意にこのようなことをしたのは生まれて初めてだ。

自分の意志とはいえ、なんでこんなことをしたのだろうと思った。

(彼を困惑させるだけなのに…。)

月曜日、どきどきしながらメールを起動した。

彼専用のメールフォルダに「1」と数字が付いていた。

(まさか、返信されてる!?)

私はじわじわと機嫌が良くなるのを隠せなかった。

マスクの下の素顔はその場にそぐわないくらい笑顔だったに違いない。

(どうしよう、私…何が書いてあるか分からないメールなのに、今すごく嬉しくて仕方がない。)

周囲に人がいなくなるまで待つのが耐えられなかった。彼はいったいあのメールになんと返事を書いたのだろうか?




ついにメールを開いた。

『休日出勤、お疲れさまでした。以上、よろしくお願いいたします。』

わ、

わあ、

なんて彼らしい一文なの。

こんなに短いのに気を遣ってくれているのが分かる…優しい…

動機が『困惑したからとりあえず定型文をマナーとして書いた』のだとしても私は嬉しくてたまらなかった。

涙が出てきた…

気付けば私は涙ぐんでいた。

私の会社は9割が男性で、男の人はいっぱいいる。

そういえば私、彼の顔を思い出せない…。

(でも、私は彼が良い。彼じゃなきゃ嫌。)

文字の彼は彼のほんの一部だ。

それが彼の全てではないのは分かっている。

でも…

(私、彼のことが好きだ。)

そのことを改めて実感した瞬間だった。

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登場人物紹介

私:30代後半の女性

昔は綺麗だった。見た感じさほど変わりはないが、今は自分の加齢に悩んでいる。

年上が好みだったが、これから好きになるある男性は年が下かもしれないので落ち着かない。

彼:年令不詳だがおそらく私より年下

優しい、誠実な仕事ぶりの中途入社社員。

私は彼がどの程度年下なのかが分からず落ち着かない。

あるきっかけで私と長い期間社内メールでのみ個人連絡をする関係になる。

その後再会した彼は今まで私が知る彼とは違っていて…

理想の彼:理想化した彼

実体の彼に出来ないことは全てしてくれるが私はだんだん違和感と不安が膨れ上がっていく。

思い出の彼:私の思い出の中にいる彼。

数種類のエピソードを持っており、時が経つごとに輝きが増す。

誰にも共有することが出来ず、なんなら実体の彼すら忘れているエピソードもある。

文字の彼:私と一番長く過ごしてきた彼。

私は再会するまで彼の顔は思い出せず、『文字の彼』として受け入れていた。

私のトラブルをいつも気にかけ助けてくれる安心感のある性格。

彼のただ一つの謎はこんなに優しいのに『感情』が入った文章には一切反応をしないこと。

自称イケメン(ただし本当にイケメンです。)の先輩。

自分に自信があり、仕事も顔も自分が一番だと思っている。

ただ、既婚者なのに女の子をひっかけているところはクズである。

私にはないものばかりで、『ある意味』あこがれの先輩。

『彼』への想いの相談相手になってもらったが…

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