「お見かけしませんでしたね。」

文字数 1,140文字

一般小説:『四人の彼』

エピソード「お見かけしませんでしたね。」から抜粋

彼は再会して以降、お昼休みに構内の廊下や階段に表れるようになった。


私はお昼休みに彼とすれ違い、挨拶を交わすのが日課になった。

「こんにちは。」
「こんにちは。」
と声に出してすれ違うこともあれば、
「…」
「…」

軽く会釈だけする日もある。

「──」
「──」

時には視線だけを交わして、言葉を発さずにすれ違うこともあった。

(本当にそれだけ。)

ただの挨拶。

それ以上の盛り上がりもない。

(私はもう少し彼の声を聞きたいと思ったけれど…。)

次の週のある日、彼とすれ違わなかった。
その日は何事もなく過ごしていたが、15時を過ぎた頃、急に我慢できなくなり、彼にメールを送った。
「今日はお見かけしませんでしたね。」
すると、彼からすぐに返事が返ってきた。
「今日はそちらの棟に行かなかったので、お見掛けしませんでしたね。」

(返事が来た…)

「えっ!?」

思わず声を上げてしまった。

気を取り直して、ずっと気になっていたことを彼に尋ねてみることにした。


今なら答えてくれるかもしれないと思ったのだ。

(むしろ、今しかない…)

私は勢いづいてメールを返した。

「ずっと気になっていたのですが、~さんは異動後、どのような業務をされているのですか?」

彼から返事は来なかった。

(踏み込みすぎたかな…)

私は席を立とうとした。


そのとき、彼専用のメール受信フォルダ「フォルダ5」の数字が1になっているのに気付いた。

(返事が来てる!)
さっそくメールを開いた。

「オンラインデータ通信に対応した装置と上位のシステムの通信を行う部分のプログラム開発や現場からの問い合わせ対応などを行っています。」

私は焦った。

(どうしよう!聞いたのは私なのに、全然分からない!)

私は分からないなりに彼の仕事を理解しようと努力した。

(…でも、内容を理解した返事を書くには、しばらく時間がかかりそうだな…)

彼はなるべく一般的な言葉で教えてくれたのだろうか。
それでも、私は何よりも彼が業務内容を教えてくれたこと自体に驚き、感動していた。

(彼から業務内容とはいえ、こんなに話を聞き出せたのは初めてかも。)

もちろん、プロフェッショナルな範囲内でだが…


私は嬉しくて仕方がない。

彼が心を開いてくれたような気がしたのだ。

私はさっそく感謝のメールを書こうとした。

ところが、彼の返信には続きがあることに気付いた。

「エレベーター前で会ったときは、装置を担当している~課の~課長補佐と合流する途中でした。」

それは、私の所属する部署の人の名前だった。

私とは別のセクションなので、直接的な関連はない。

(なぜ一般的な内容の中に、具体的な話を入れたのだろうか?)

彼の返信に舞い上がっていた私だったが、少し違和感と一抹の不安を覚えた。

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登場人物紹介

私:30代後半の女性

昔は綺麗だった。見た感じさほど変わりはないが、今は自分の加齢に悩んでいる。

年上が好みだったが、これから好きになるある男性は年が下かもしれないので落ち着かない。

彼:年令不詳だがおそらく私より年下

優しい、誠実な仕事ぶりの中途入社社員。

私は彼がどの程度年下なのかが分からず落ち着かない。

あるきっかけで私と長い期間社内メールでのみ個人連絡をする関係になる。

その後再会した彼は今まで私が知る彼とは違っていて…

理想の彼:理想化した彼

実体の彼に出来ないことは全てしてくれるが私はだんだん違和感と不安が膨れ上がっていく。

思い出の彼:私の思い出の中にいる彼。

数種類のエピソードを持っており、時が経つごとに輝きが増す。

誰にも共有することが出来ず、なんなら実体の彼すら忘れているエピソードもある。

文字の彼:私と一番長く過ごしてきた彼。

私は再会するまで彼の顔は思い出せず、『文字の彼』として受け入れていた。

私のトラブルをいつも気にかけ助けてくれる安心感のある性格。

彼のただ一つの謎はこんなに優しいのに『感情』が入った文章には一切反応をしないこと。

自称イケメン(ただし本当にイケメンです。)の先輩。

自分に自信があり、仕事も顔も自分が一番だと思っている。

ただ、既婚者なのに女の子をひっかけているところはクズである。

私にはないものばかりで、『ある意味』あこがれの先輩。

『彼』への想いの相談相手になってもらったが…

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