第1話

文字数 1,931文字

 その日は朝から父親に怒鳴られた。
「また朝寝坊か。いい加減、和博を見習ったらどうだ」
 毎度おなじみの光景である。父は何かと兄と比較する。二十九にもなって父親に説教されるはごめんだと、政彦はトーストをかじりながら家を出た。父は警視庁に勤める警視正で、あと五年で定年退職を迎える。兄の和博は京都大学を首席で卒業して一流企業で取締役を担っていた。そこの社長の一人娘との婚約も済ませ、あとは結婚の日取りを決めるばかりになっていた。いわゆるエリート街道まっしぐらと言ったところだ。
 一方、三流大学出身で、プロボーラーへの道を志す政彦は、もちろんボーリングだけでは食っていけず、コンビニでアルバイトをしていた。説教を喰らうのも当然で、兄と違い、未だに結婚相手どころか恋人もいないのも悩みの種である。
 母は何も言わないが、政彦を疎ましく思っているのは明白で、孤独な彼は家の中で、ひとり肩身の狭い思いをしていた。

 アルバイト先でも政彦の悩みは尽きない。店長の岩井がイジメてくるのだ。政彦が内気なのを良いことに、サービス残業をさせられたり、無理なシフトを組まされたりしていた。政彦としては口答えなど出来るはずもなく、ただただ従うしかなかった。

 そんな政彦にも思いを寄せる女性がいた。同じアルバイトの佐千恵(さちえ)という四つ下の後輩だ。彼女はとても優しくて、いつも政彦に笑顔を向ける。コンビニ内でも人気があり、佐千恵を目当てにわざわざ遠くから来店する客もいるほどである。
 しかし政彦は気持ちを打ち明けられずにいた。しがないアマチュアボーラーでは相手にされるはずもなく、それでも一度だけデートに誘ってみたが、やんわりと断られた。

 ある日のこと。バイト先のコンビニにヤンキー風の男が現れた。彼はレジの前に立つと、佐千恵に向かって片眉を上げた。
「おい、姉ちゃん。肉まんくれや」
 しかし、肉まんは丁度売り切れで、次の入荷まで待たなければならない。困り顔の佐千恵は、申し訳ございませんと頭を下げた。
「ただ今品切れでございます。夕方の六時には入荷いたしますので、あと二時間ほどかかりますが」
 すると男はカウンターを叩きつけた。
「何だとコラ! 俺をナメてんのか! どっかに一つくらい隠しているんじゃねえのかよ」
 そんなことをするはずがない。在庫は常に保温ケースに入れている。そこに無いということは完全に品切れを意味していた。たまにこんな因縁をつけてくる輩がいるが、ここまで激しい輩は今まで経験が無かった。相談しようにもあいにく店長は不在で、店内にいるのは政彦と佐千恵だけであった。
「隠してなどございません。ご理解ください」
「だったら、他のコンビニまで買いに行けよ。品切れなのはそっちの責任だろうが!」
 助けに入ろうと気がはやるものの、足が震え、政彦は動けなかった。自分が情けなく思え、早く帰ってくれないかと祈るしかなかった。
「申し訳ございませんが、それは出来かねます」
 毅然として断る佐千恵だったがその声は震えていた。
 一瞬、男と目が合ったが、すぐに逸らしてしまう。佐千恵が困っているにもかかわらず、何もできない自分がどうしようもなくちっぽけな存在に思えた。
 そこで自動ドアが開き、一人の青年が入ってきた。地元の大学に通う石倉という大学院生で、彼は建築学を研究しながら柔道も嗜む文武両道で、おまけにハンサムでもあった。彼は週に二日ほど通う常連で、佐千恵が目をハートにしながら思いを寄せているのに、気が付かない訳がなかった。
「どうかしましたか? 怒鳴り声が外からも聞こえていましたよ」
 石倉は平然と男に向かって肩を回しながらにらみを利かせる。
「……なんでもねえよ、姉ちゃん、邪魔したな」
 さっきまでの勢いは影を潜め、男は逃げるように走り去った。
「ありがとうございました。石倉さんが来てくれなかったら、どうなる事かと思いました」佐千恵の声に安堵の色を感じると、まだ震えの止まらない政彦は、複雑な思いでカウンターを睨みつける。
「怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫です。お礼に今度食事にでもいかがです?」その声は弾んでいて、さっきまでの怯えはきれいさっぱり消え去った様子だ。
「あいにくですが、研究が詰まっていまして。それに柔道の全国大会も控えていまして、とても時間が取れません。また誘ってください」
 そう言って石倉はいつもと同じように栄養ドリンクとサプリメントを二箱購入すると、白い歯を見せながら自動ドアをくぐった。
 何もできなかった政彦は悔しくて涙が出そうだった。自分がみじめに思え、佐千恵と目が合わせられない。ボーラーのクセに度胸がなく、それがプロになり切れない最大の原因だと改めて自覚していた。
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