第5話

文字数 2,954文字

 それから数日後、二週間ぶりに佐千恵と二人きりになった。シフトの関係上、二人きりでの勤務は滅多にない。これは仲良くなるチャンスだとウキウキしていると、最悪のタイミングであの男が現れやがった。自動ドアをくぐったのは石倉であった。
「いらっしゃいませ、今日も居残りですか?」
「そうなんだよ。最近寝てなくてね」
「そういえば、こないだのお礼、まだでしたよね」どうやら先日の肉まん男の件での話のようである。会話が気になる政彦は聞き耳を立てずにはいられなかった。
「また今度ね。今は忙しくて研究室にこもりきりなんだ」
「それは残念です。スケジュールが空いたら、いつでも言ってくださいね」
「ええそうします。いつになるか判らないけど」
 無性に腹が立った政彦は、です・ノートのことが頭をよぎる。ノートは常に持ち歩いていて、今もロッカーにしまってあった。
 しかし、ここでも名前の問題が立ちふさがる。石倉の下の名前を知らかったのだ。顔見知りではあるのでラーメン屋の手は使えない。思案に暮れていると、思いがけない会話が耳に入ってきた。
「……そういえば、新しいサプリが入りましたよ、せいじさん」
 下の名で呼ぶとは馴れ馴れしいと思ったが、思いがけず名前を知ることが出来て、胸をなでおろした。早速控え室に入ると、です・ノートを取り出して石倉せいじと記入し、百円玉を箱に入れた。
 それから店内に戻ると、石倉は顔をしかめながら頭を押さえていた。何かあったに違いない。佐千恵は平謝りだった。
 素知らぬ顔を見せながら、カウンターに入る。
「あれ、石倉さん。どうしたんですか?」
 聞くところによると、壁の時計がいきなり落ちてきて、角の部分が脳天に直撃したらしい。時計はずいぶんと前から掛けてあり、今まで落ちたことは一度も無かった。これはノートのせいとしか思えない。幸いなことに血は出ていないようだが、かなりの激痛らしく、きっとたんこぶが出来たに違いない。
 石倉は頭を抱えながらコンビニを後にした。
「石倉さん大丈夫かしら?」佐千恵は心配の声を上げる。
「大丈夫じゃない? 柔道で鍛えているし、きっと大したことないよ」
 すると佐千恵は政彦を真顔で睨みつけた。
「竹林さんって、ホント無責任よね。こっちが悪いのに心配もしないなんて」
 しまった! 仕返しのつもりがこっちの株を下げてしまったじゃないか――慌てて、そんな事ないよとフォローするも時すでに遅し。佐千恵は仏頂面で商品棚に向かうと、カップ麺の整理に入った。

 それから二時間が経過した。相変わらず佐千恵はへそを曲げたまま、ついさっき休憩時間に入ったところだった。店内は政彦一人だったが、深夜の時間帯は珍しくなく、これまで問題が起きたことなど、記憶にあるはずもなかった。
「いらっしゃいませ」
 自動ドアが開くと、そこには肉まんの件で因縁をつけてきた男が、肩で風を切りながら我が物顔で入ってきた。
「おい、にいちゃん。久しぶりだな。この前の姉ちゃんいるか?」
 ヤバい、向こうは自分の顔を憶えているではないか。
 ここは男を見せる絶好のチャンスだが、意気込みとは裏腹に足の震えが止まらない。佐千恵はちょうど休憩に入ったばかりで、今頃は控え室にいるはずだ。
「い、いません。今は自分だけです。一体どんな御用でしょうか?」
 こんな時こそ、です・ノートの出番なのだろうが、最悪なことに男の名前は上下ともに全く判らない。
「なに、大した用じゃねえ。この前世話になったから、挨拶しておこうと思ってな。今日はあの生意気な野郎はいねえみてえだし」生意気な野郎とはきっと石倉の事に違いない。
「判りました。お客様が来店されたことは、自分から伝えておきますから、お名前をよろしいでしょうか?」もしかしたら男の名前が判るかもしれないと期待を寄せたが、そう上手くはいかないのが現実だ。
「それには及ばねえよ。また来るから、よろしく言っといてくれよな」
 男はきびすを返すと、すたすたと去っていった。そこであるアイデアを思い付いた。
 政彦はごみ箱に捨ててあるアンケートはがきを取り出すと、ペンを掴み、急いで外に出た。そして車に乗り込もうとするあの男に声をかける。
「すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」怪訝な顔を向けた男は何事かと睨み返してきた。「実はイベントでアンケートはがきを配っているんですが、ここだけの話、商品が余っているんです。この前失礼したお詫びに受け取ってはもらえませんか?」
「ほほう、それは気が利くじゃねえか。何がもらえるんだ?」
 政彦は答えに詰まった。そこまで考えていたわけではなく、とっさに出た言葉が、
「……ビールのセットです。三百五十ミリリットルを六本。いかがでしょうか」
 男は訝し気な表情を崩さず、値踏みするように首を回す。やっぱり五百ミリの方にすればよかったと後悔しても始まらない。だが、男は不意に笑顔みせると「じゃあ、貰っとこうか」と鼻を鳴らす。
「ありがとうございます。但し、このアンケートはがきに記入をお願いします」
 そう言って政彦は手にしたハガキとペンを差し出す。
「記入? そんな面倒臭えことしなけりゃならねえのかよ」
「申し訳ございません。本部に提出しないといけませんので。お名前だけで結構ですから」
 一瞬、男の顔が曇ったが、彼はハガキをひったくるように受け取ると、ボンネットを下敷きにして、名前だけを殴り書いた。
「ありがとうございます。今からお持ちしますので少々お待ちください」
 ハガキを受け取り、フルネームを確認すると、すぐさま店内に戻る。冷蔵庫から六本セットになったビールを持ちだし、一度レジに通してから、男の元に戻った。料金はあとから自腹で精算しなくてはならないが、この際、気にしている場合ではない。
「お待たせしました。こちらになります」
「なんでえ、ビールじゃなくて発泡酒じゃねえか! まあ、無料だから仕方ねえな。兄ちゃんありがとな」
 ご機嫌になった男は車に乗り込むと、あばよと手を振りながら駐車場を出ていった。

 それからしばらくして、佐千恵が休憩から戻ってきた。政彦の落ち着かない様子から、何かを察したらしく、「何かあったんですか?」と訊いてきた。
 政彦は「別に。何でもないよ」と、知らんぷりを決め込むことにした。

 それから一時間が過ぎ、今度は政彦が休憩時間となった。控室へ入ると、早速ロッカーからノートを取り出した。ポケットから先ほどのアンケートはがきを取り出すと、ノートにその名を記入する。
 『次のターゲットは「井田昇」です』
 もちろんこれが正しいとは限らない。偽名の可能性もあった。だが、今はこれに賭けるしかなかった。天罰が下るように念じながら財布を開いてボックスに千円札を入れる。ビール……もとい、発泡酒代と合わせて二千円の出費だが、これで奴に復讐できると思えば安いもの。もう二度と来てくれるなと願うばかりであった。

 あれからひと月経つが、未だにあの男は現れない。やはりノートの呪いが効いたのだろう。
 実は一週間ほど前に、街で偶然見かけたことがあった。男は腕に包帯を巻いて横断歩道を渡っていた。何があったかは知る由もないが、恐らく大変な目にあったに違いない。何せ千円もはたいたのだから、そうでないと困る。
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