村上美紀:往年の巧打者は、オカルト好きな孫娘の身体に憑依させられる
文字数 4,684文字
グラウンドから戻ってきた梓は、そこから出てくる美紀の姿を偶然見つけて近づいた。
「美紀姉ちゃん、よかったら一緒に帰ろ」
「あれ、野球部は?」
「入部申し込みしたら、今日はもう帰っていいって言われたんだ」
言うと、美紀の目つきが少し鋭くなる。
「実際にはもう少しきつい言い回しだったんじゃない?」
「……まあ、ね」
――女に野球ができるわけねーじゃん。迷惑なんだよな、そういうの。
マネージャーではなく選手志望だと言ったとたん、それまで快活に応対していた坊主頭の野球部員は、参政権を要求するチンパンジーを見るような目で梓をジロジロ見つめた。
――ま、うちの学校は建前上誰がどんな部活に入るのも自由だけどよ。野球ごっこしたいなら、お仲間集めて新しい部でも作った方がいいんじゃねーの? 後になってこんなはずじゃなかったとか言われて退部届出されても後味悪いし、帰ってくんない?
薄汚い口調でそう言うと、入部届の用紙を梓の手元から抜き取った。
その瞬間、ここに自分の居場所がないことを梓は痛感した。
最近は野球人気が落ちたせいで、却って高校野球に相撲などと同様の『日本文化の伝統性』みたいなものを求める輩が増えてきたことは知っていた。自分たちの特殊性をやたらに強調するのは少数派の自己憐憫にありがちなことで、当然そうした連中は、頑なで閉鎖的な思想に酔っていることが多い。男尊女卑などはその最たるものだろう。
だが、去年の夏に甲子園で見た清水共栄野球部はそんな空気と無縁に思えた。だからこそ梓はこの高校に入ったのだが、去年の三年生がいなくなったこと(あるいは、監督なり顧問教師が変わったこと)によって、状況ががらりと変化したのかもしれない。
と、理屈の上では納得できる。一応、最悪の場合はこういうこともあるかもしれないと覚悟もしていた。
けれど、かつて慣れ親しんでいた世界から拒絶されるのは、やはり辛くて寂しかった。
その時、二つ隣の机で入部申し込みをしていた女の子がいきなり立ち上がると、逃げるように駆けていった。
まだ名前は覚えていないが、同じクラスの子だ。何を言われたのか、辱めを受けたように顔を真っ赤にしている。だが、どんな表情をしているかは目の辺りを拭い続ける手に隠されて見えなかった。襟元で丁寧に切り揃えた髪や、頭を飾るカチューシャの可愛らしさが、却って痛ましかった。
梓の応対をしていた部員が、女の子の相手をしていた部員に言った。
――あーあ、泣かせちまった。
――あれぐらいで泣いちまう箱入り娘に野球ができるわけねーだろ。
――何、あの子も選手志望?
――ああ。しかもキャッチャーやりたいだとさ。
――マジ? 山本主将がまだいたらきっとすげえ怒ったぜ。
――キャッチャーをなめるなってな。
ひとしきり盛り上がった後、坊主頭は梓に向き直る。
――そーいうことで、バイバイ。
――わかりました。
――ところで、お嬢ちゃんはポジションどこ希望だったわけ?
――ピッチャーです。
その場を嘲笑が包んだ。梓の背後にいた新入生の男子たちも遠慮なく笑い出した。
「愚痴らないの?」
学校を出て歩き出しても野球部で起きたことを話そうとしない梓に美紀が訊く。
「泣き言言っても始まらないもん」
とにかく耐えて、がんばってみようと梓は心を決めていた。
どうにもならないとはっきりしたら、その時改めて考えるだけだ。
「うん、それでこそ今を生きる女だ。えらいえらい」
頭をなでなでされる。
「うれしいようなうれしくないような……」
じゃれているうちに、梓は見覚えのある通りに入っていることに気づいた。
「美紀姉ちゃん、これって駅に向かう道じゃないよね」
「ご名答。今はあんた暇なんだろ? 偏神堂覗くくらいつきあいなよ」
「うん、わかった」
偏神堂は美紀の行きつけの古道具屋だ。梓も美紀とショッピングがてらこの街へ来た時はよく寄ることになったので、昔から知っていた。
店内に一歩入ると、今が四月の上旬だということを忘れてしまう。
しかし冬や、ましてや夏を連想する店というわけではない。ひんやりとしてかび臭い空気に包まれ、申し訳程度の薄暗い照明が照らし出すこの空間は、むしろ季節から隔絶された鍾乳洞のようである。
そして鍾乳石や石筍の代わりにこの空間を占めているのは、埃まみれの古道具や古本の山だ。いかにもいわくありげな人形や、この店にあるのが却って不自然で不気味な美しいドレス。猫足のテーブルがあるかと思えば古いSF雑誌が積み上げられたりもしている。用途のわからない歯車やねじがやたらと放り込まれたボール箱の隣は、きれいに整頓された糸や針が収められた年代物の豪奢な小箱。
何度来ても正体不明な店である。
価格設定も尋常ではない。地方の山中に不法投棄されていそうな古ぼけた洗濯機に五百万の値がついていたり、怖いぐらいに精緻な造りのアクセサリーが五百円で売っていたりする。梓は何か不安な気がするせいで、この店で買い物をしたことはなかった。
「僕、美紀姉ちゃんと一緒の時しかこのお店に来られないんだよね。どうしてだろ?」
「この店は人見知りするからね。あんたは健全すぎるから、いまいち苦手みたいだよ」
そんな話の最中に店に入って来たのは、四十を過ぎていると思しき男性。穴の開いたセーターによれよれのジャージ。つっかけをパタパタさせながら、怪奇雑誌の山を調べたり小物類の置かれた棚を眺めたりしている。美紀の言ったことは冗談にせよ、言いたかったことは何となくわかる気がする。
美紀に目を戻すと、何かカードの束のようなものを手にして真剣な表情をしている。
「それ何?」
梓の声が耳に入らなかったかのように、美紀はまっすぐレジに向かう。二十代とも五十代とも見える年齢不詳の店番に何枚かのお札を払ってカードを受け取った。
「もう帰りたいんだけど、いい?」
「う、うん。珍しいね、いつもは長居するのに」
「このお札、早く試してみたくてさ」
「……僕を実験台にするのはやめてよね」
「今日はやんないって。目の前で買い物したんだからごまかしも利かないだろうし」
「『今日は』ってのが、ものすごく嫌なんだけど……」
オカルト好きの美紀は、変なものを色々買い込んでは使ってみる癖がある。その時は頭の良さよりも好奇心の強さが先に立ち、しばしばこの店でイカサマ商品を掴まされてしまう。ただそれは、美紀いわく『使い方を間違えたせいで失敗した』ことになるらしい。
今回のお札の効能についても帰る道すがら聞かされたが、本物ならすごいね、という以上の感想は抱けなかった。
「ってことは、今日の犠牲者は耕作さんなのね」
「犠牲者なんて失敬だね。被験者と呼びな」
「耕作さんもお年なんだから、下手なことしたら命に関わるよ」
梓がたしなめると、美紀は少しむくれたような顔をする。
「大丈夫だって。あのジジイなら殺しても死なないよ」
美紀の祖父は村上耕作という。小さい時に両親を事故で亡くした美紀を男手一つで育ててきた。
美紀と仲良くなってからそのことを知った時、梓はすごく驚いた。
村上耕作は元プロ野球選手――しかも一時期は拓也の同僚だったのである。
ホームランバッターではなかったがシュアなバッティングを誇り、守備や走塁には天才的なセンスを見せた。二十年前、四十四歳でアキレス腱を切ってしまい引退したが、それまで怪我らしい怪我を一つもしなかった頑健ぶりである。
ただし歯に衣着せずズケズケと物を言う性格はフロントとの軋轢を生み、三十一歳の時に世代交代を理由に最初の球団からトレードされて以降は、いくつものチームを渡り歩くこととなる。しかし野球ファンの支持は絶大なもので、外野手に不安のあるチームのファンは「村上を獲ればよかったのに」あるいは「村上を追い出さなければよかったのに」とぼやくことがしきりだった。
引退後は解説者としてテレビにラジオに新聞にと活躍している。
拓也時代はいまいち耕作が苦手だった梓だが、美紀の友達という立場で接する分には常に優しいおじさんである。もっとも、美紀と頻繁に口喧嘩する際の姿は往年の迫力そのままなのだけれど。
「おお、梓ちゃんいらっしゃい」
にこやかに出迎える耕作の笑顔を見ると、美紀の狼藉を見て見ぬ振りしようとしていることに罪悪感を覚えてしまう。
――けど、まあ、美紀姉ちゃんも本当に危険なことはしないだろうし……。
まだしまわれていないこたつに潜ってほうじ茶をいただきながら、梓はそんな風に自己弁護を済ませた。
「しかし梓ちゃんも可哀想に。またこのバカ娘と二年間一緒になっちまうなんてな」
「うるさいねクソジジイ。手塩にかけた孫娘をバカとは何だい、バカとは」
部屋から戻ってきた美紀が悪態をついた。まだ制服を着替えてもいない。よほど今回の実験に気がはやっているらしい。
「バカをバカっつって何が悪ぃんだ。俺が何遍言っても変な宗教から足洗わねえくせに」
「あれは宗教じゃないって何度言ったらわかるんだか。これだから昭和生まれは……」
罵りながら、美紀は大胆にもその場で二枚のお札を取り出した。梵字や紋様が赤く書かれたものと、黒く書かれたものだ。
「またくだらねえもん買いやがって。今度はどんなおもちゃなんだ?」
「成功したら教えてやるさ」
美紀は制服の袖をまくり上げると黒いお札を一枚、自分の左腕に貼りつける。そして赤いお札を右手に取った。
「ジジイ、右腕出しな。効果は三時間って話だから、今夜締め切りの原稿には差し支えないだろ」
「いきなり言われてハイソウデスカと出す奴がいるか。いつぞやみたいに電撃喰らわされたら堪らねえ」
「そりゃそうだろね」
その瞬間、美紀は耕作の右腕に飛びつこうとした。
「そんな儀式につきあえるかってんだ!」
しかしそれは耕作にあっさりかわされる。六十を過ぎても、かつての名外野手の動きは鈍っていなかった。
だが。
「実は右腕じゃなくてもいいんだよ」
ニヤリと笑い、美紀は耕作の禿げ上がった頭に赤いお札を貼りつけた。
「何しやが――」
途中で不意に言葉が途切れ、耕作は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
そして美紀も。
「み、美紀お姉ちゃん? おじちゃん?」
予想外の展開に、取り残された格好の梓はうろたえて声をかけた。
すると。
「う……うん……心配すんな、梓ちゃん」
そう言いながら、美紀が起き上がった。だが目が回ってでもいるのか、すぐにうずくまってしまう。
「あの……美紀姉ちゃん?」
「おい美紀、どこに行きやがった? 梓ちゃんが呼んでるぞ!」
声を張り上げた美紀は、自分の声に驚いたようだった。
恐る恐る、といった雰囲気で自分の身体を見下ろす。そして空色のブレザーとスカートを目にして完全に固まってしまった。
と、いきなり首をめぐらして誰かを探す。
「その声は美紀だな! 『大成功』って何のこった?」
そんな美紀の様子を眺めながら横たわっている耕作を調べた梓だが、その身体は眠りこけたように穏やかな呼吸をしていた。
「……今回は、本物だったの?」
自分自身のことを棚に上げて、目の当たりにした不思議に梓は呆然となってしまった。