二回表・二回裏

文字数 3,220文字

 七番バッターである真理乃は、右バッターボックスに入る梓を見やりながら、ネクストバッターズサークルに向かった。
 この回先頭打者の四番・一美がセンター返しのお手本のようなバッティングであっさり出塁。五番の雪絵が三振に倒れて、一死一塁という場面。
 もっとも、そんな状況判断よりも真理乃の意識を占めるのは、グラウンド全体に黒い靄のように広がる邪霊の気配。一ヶ月前に屋上から男子野球部の試合を観戦した時をはるかに上回る濃密さで、他のみんながよくこんな場所で平然としていられるものだと不思議にすら思える。
 その濃密さの中心にいるのは、男子野球部で守備についている、とある選手。彼の心に邪霊が巣食い、それが男子野球部の面々を歪めているのは、もはや明らかだった(ひと月前は選手たちの間を小さい靄がこまめに飛び回っていたが、もう本来の棲み家に定住して周囲に触手を伸ばしている段階……とはマリードの解説)。
《相手チームの選手に触るってのは、こりゃ意外と難しいもんだな。触れば俺が一瞬で仕留めてやるんだが、無理矢理触ろうとしたら警戒して邪霊が逃げるだろうし》
 真理乃にしか聞こえない形でマリードが話しかけてくる。
(今さらそんなこと言われても……じゃあどうするの?)
 真理乃は内心でマリードに文句をつける。気弱な性格は相変わらずだが、二ヶ月間常に会話を続けてきたこともあり、マリードへの態度は少しずつ打ち解けてきた。
《できないたあ言ってないだろ。試合終了の挨拶直後とか、下校途中に待ち伏せとか、手段はいくらでもあるさ》
(でもそれじゃ、わたしたちきっと勝てないよ?)
 一回表、優と美紀の打球がアウトになったのは、邪霊が手を伸ばしたせいだった。あんな卑怯な手を使われたら、ただでさえ苦しいはずのうちのチームに勝機はない。
 邪霊を祓うのが第一目標とマリードには言われていたが、真理乃の感情としてはチームの勝利の方が優先する。そのためにも、試合中に邪霊を祓ってしまいたい。
《ま、向こうは向こうで物理法則完全に捻じ曲げるほどの力はないんだがな。宿主が不審に思うほどの露骨な不正はできないし。現にほれ、あれ見ろ》
 マリードに言われ気持ちを試合に戻すと、梓がファーストとセカンドの間をきれいに抜くヒットを放っていた。一死一二塁。
《さっきの一美もそうだが、文句のつけようのない打球なら介入の余地もないんだよ》
 そしてマリードは無茶を言った。
《そうだ。お前、「強風」とかじゃ防げないくらいどでかいホームラン打て。そうすれば標的に触るチャンスもできる。一石二鳥だ》
(そっ、そんなのできないよお!)
《理論上は余裕でできるっての。実際、お前は練習じゃガンガン飛ばしてるだろうが》
(でもでも、自信ないもん……)
「あの、真理乃ちゃん? 次は真理乃ちゃんデスヨ?」
「あっ! ご、ごめんなさい!」
 シャーロットに声をかけられ、真理乃はあたふたと右打席に入る。
 バットを構え、ピッチャーと相対する。身体が一瞬大きく震える。
 初めての実戦。打撃練習の時は打ちやすい球を梓に投げてもらうけど。ピッチングマシンの速球ならかなり打ち慣れてきたけれど。打たれまいとする相手の投げる球を打とうとするのは、これが初めて。
「きゃっ!」
 内角高め、と言うか、顔に当たりそうな速球が真理乃の頬のすぐ横を通過した。思わず悲鳴を上げ、尻餅をついてしまう。
 バットを杖に立ち上がる。守備についている選手や見物人の笑い声が、耳につく。
《キャッチャーの野郎わざと指示しやがったな。びびらせれば腰が引けるとでも読んだんだろう。舐められてるぞ、お前》
 マリードの言葉は焦りを含んでいる。気弱な真理乃の性格をよく知る彼にしてみれば、当然の反応だろう。
 だが真理乃自身は、却って自分の心が冷静になっていくのを感じていた。
 おとなしくて、素直で、従順。そんな、誠三郎としての好みの女性像が不意に変わったわけではない。
 でも誠三郎の好きな女の子とは、常に誰かの助けを借りなければやっていけないほど、依存心の強い人間ではない。自力でやらねばどうにもならない局面では、きちんと自力で立てる子なのだ。
 今はまさに、そうした局面だった。
 二球目。速いがコースの甘い、芸のないボール。
 ――いける!
 ボールに当たったバットを目一杯振り抜くと、打球はライト側ポールのさらに右を果てしなく飛んでいった。特大のファウル。
 その打球を見た瞬間、グラウンドの空気が変わったのを感じた。「嘘だろ」「流し打ちであの飛距離かよ」などとざわめいている。
《よくやった! ホームランにならなかったのは惜しかったが、その調子だ!》
 マリードが珍しく素直に褒めてくれるのがうれしい。真理乃は気をよくしてピッチャーに対峙する。
 三球目、打って変わってかわすような変化球。でも梓の球に比べればキレがない。
 今度も大きく振りぬいたボールは、しかしスタンドインする手前で力を失い、レフトのグラブに吸い込まれた。
《大丈夫。今の二つの打球で、相手は「打たれるかも」と思うようになった。その手の悪い予感てのは、実現しやすくなる方向に物事を運ぶもんだ》
「真理乃ちゃん、ナイスバッティング!」
 引き上げる真理乃に一塁ベース上から梓が声をかけ、二塁塁上の一美も笑顔で拍手していた。
 ベンチに戻ると、弥生や優からもホームランを打ったかのごとく迎えられた。弥生は素直に喜び、優の方は真理乃を盛り上げようと意識してややオーバーにしているようだが。
 アウトになって打席を外れると気弱キャラに逆戻りしてしまった真理乃には、ちょっとくすぐったい。三振に倒れた雪絵が憮然とした表情をしているのも気にかかってしまう。
 でも、もちろん悪い気分じゃない。
 八番のシャーロットが三振に倒れてチェンジとなったが、ランナーを二人出したチャンスを逸しても、チームの空気が沈むには至らなかった。

 その裏、梓と優のバッテリーは四番の渡辺を手玉に取るように三振に仕留めてみせた。渡辺は梓に向かって何か喚いたようだが、ライトの真理乃にまでは聞こえなかった。
 続く五番長谷川の打球はレフト線のきわどい位置に上がったが、美紀が巧みな位置取りをしてすんなりと捕球する。
《さすがは往年の名手だな。少しうまい外野手ならダイビングキャッチでもして一見派手なナイスプレーになるところなんだが》
 真理乃とマリードは、美紀に耕作が憑依していることを知っている。たとえ教えられなくともマリードなら呪具たるお札の存在をすぐに看破しただろうが、それくらいは先刻承知の美紀が先手を打ったのだ(ただし耕作は真理乃たちの秘密を知らされていないので、真理乃にとっては少しややこしい事態になっている)。事情を聞かされた直後、もう一人の元男な少女の登場に浮かれまくったマリードによる独演会に、真理乃がつきあわされたのは言うまでもない。
(……でも、美紀さん、何を考えているのかな?)
 それは美紀から打ち明けられて以来真理乃の脳裏にこびりつく疑問だった。いくら相手が祖父で短時間のこととは言え、自分の身体を他人に明け渡すなんて真理乃には信じられないことだ。
《…………》
(マリード? どうしたの?)
 こんな時いつもなら思いつきを適当に並べ立てるマリードが、今はなぜか無言になってしまった。
《……ちょっと、あの札のことで思い出したことがあってな。……まあ、まだ急ぐようなことにもなってないだろうし、騒ぐことでもないだろ、うん。試合が終わったら美紀本人に確認してみるさ》
 独りで勝手に納得したような具合のマリードに、真理乃が詳しく問い質そうかと思っていると、六番堀内が三振に倒れてチェンジ。何となく訊きそびれ、試合の後に考えればいいかと気持ちを切り替えた。
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登場人物紹介

宇野梓

高校一年生。ピッチャー。各種変化球を使いこなし、オーバースローでもサイドスローでもアンダースローでも投げられ、コントロールは抜群。

実は、病気で急逝したプロ野球の名投手が生まれ変わった子。

小笠原優

高校一年生。キャッチャー。キャッチングの技術と配球の組み立ては極めてハイレベル。

実は、昨年夏甲子園で準優勝したチームのキャプテンが年下の幼なじみと入れ替わった状態。

青田啓子

高校三年生。ファースト。身体は弱いが、チームの指揮に関してはプロ級。

実は、プロ野球二軍監督が事故死して少女の身体に脳移植された状態。

森弥生

高校一年生。セカンド。お嬢様ながらガッツはチームナンバーワン。シュアなバッティングも持ち味。

実は、小学生時代に野球少年と入れ替わった少女が数年ぶりに元に戻った状態。

鮎川一美

高校三年生。サード。バッティングの天才。

実は、昨年夏の甲子園で優勝したチームの四番打者が、家系に代々伝わる呪いで性転換した状態。

田口雪絵

高校一年生。ショート。野球センスに秀でたオールラウンドプレーヤー。

実は、関西の名門校へ野球留学するはずだった少年がリトルリーグ時代にライバルだった少女と身体を交換された状態。

村上美紀

高校二年生。レフト。梓の幼なじみ。試合になると人が変わったように巧くなる。

実は、試合の際にはプロ野球選手だった祖父(存命中)を憑依させている。梓およびその他数人の事情も知っている。

シャーロット・L・ミラー

高校二年生。センター。アメリカからの留学生で、恵まれた身体能力を有し、肩の強さは男子に引けを取らない。

実は、滞在先の小学六年生男子と一日のうち十二時間を入れ替わっている。本人はスポーツに苦手意識を持っているが、諸事情あって少年が彼女の身体で野球をすることになった。

藤田真理乃

高校一年生。ライト。初心者で性格はおとなしいが、走攻守いずれも高水準。

実は、学園経営者一族の少年。一族と契約している魔神に採用され、いざという時に魔法少女になるだけでなく、常日頃から少女として暮らすことになってしまっている。

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