七回表・七回裏
文字数 4,161文字
そしてベンチを見渡し、このチームがいかに梓を軸として機能していたかを痛感した。
冷静な美紀と啓子、マイペースな一美。彼女たちが変わらずにいることは心強いが、他の面子を引っぱる牽引力にはやや乏しい。雪絵は、自分の打撃の不調に落ち込んでいるところへ加えて梓が怪我したことで、ますます余裕をなくしている。シャーロットと真理乃はおろおろしているし、優は憔悴した表情を隠しきれていない。
――くそったれ、こういう役回りは柄じゃないんだけどよ。
内心で舌打ちしつつ、弥生は口を開いた。
「皆さん、何腑抜けた面を晒してますの? 残り三イニングでわたくしたちは三点取らなければならないんですのよ?」
ベンチ全員の視線を浴びているのを顔に感じながらも、弥生は平静を装い、言い募る。
「この回、上位打線は何としても塁を埋めます。そして一美さん、四番らしく、そろそろ打点を上げてもらいますわよ」
弥生が敢えて矢面に立てた一美は、いつもの眠そうな目つきを崩さずに平然と応じた。
「そうだねえ。いいかげん、ランナーのいる場面で打ちたくなってきた」
「すまないね。ま、あたしも三番らしい仕事をしなきゃいけないと思ってたところさ」
下手をすれば当てこすりに受け取られかねない一美の言葉に、打てば響くように美紀がすぐさま応じる。さらにバットを手にした啓子の一言。
「ノーヒットで終わるのは嫌だし、努力してくる。次のバッターがゲッツーになれば無駄になるけどね」
上級生三人が三文芝居紛いのアジテーションに乗ってくれたことに内心感謝しながら、弥生も強気の口調で応じた。
「ご心配なく。きっちり続いて差し上げますわ」
さらに、梓にも檄を飛ばす。
「梓さん。あなたも一休みしたらもう少しマシなピッチングをしてくださいな。死にそうな顔してますけれど、地獄の鬼は野球を知らないと昔の人もおっしゃってます。野球を続けたければ、無理してでも起き上がって、どうにかして相手を抑えてください」
「……そうだね。死ぬのは嫌だ」
梓も弱々しいながら明るい口調で答え、ゆっくりと身を起こした。
この回トップバッターの啓子は、有言実行を果たした。二番手ピッチャー阿部の曲がりの大きいカーブを巧みに捉え、レフト前へのヒット。無死一塁で、弥生が打席に入る。
――さて。でかい口叩いた以上、石にかじりついてでも塁に出なきゃね。
相手は右の軟投派。変化球とコントロールが生命線の、梓とまったく同じタイプ。もちろん直球がいくらか速い以外はすべて梓に及ばないので、ある意味女子野球部にとって最も与しやすい相手だ。
残る問題は、打つ側の力量。
何度か首を振った後、阿部が第一球を投げる。打ち気に逸る打者を焦らすような、やたらとゆったりしたフォーム。
――心を平らに。
不意に思い出したのは、道場の師範の言葉だった。
『弥生』に戻ったことにより六年ぶりに週一回通うことになった道場だが、修平が部活の終わった後で毎日丁寧に指導してくれた甲斐あって、幸いボロは出ていない。
野球と武道。まったく違うようでも、六年間野球に打ち込んだ弥生の目には、何がしかの共通項を感じ取ることが珍しくない。身体の捌き方や物の見方など、それなりに野球の参考にさせてもらっていて、意外と実り多いイベントになっている。
――人が目指す物事を成し遂げる力は、たいていの場合すでにその人の中に備わっています。けれど、人は心を乱しやすく、それゆえに力を発揮することなく失敗する。
総髪に山羊みたいな顎鬚と胡散臭いことこの上ない師範の言は、その風貌を裏切って、しごく真っ当なものである。
――ただ一途に思い、集中する。集中していることを忘れ、心が平らになるくらい集中する。よほどの無理難題以外は、それで切り抜けられます。
来た球を打つ。
球を打つ。
打つ。
打つ。
打つ。
……打った。
初球を強打した打球は、ピッチャーがグラブを差し出すより先に股間を抜ける速いバウンドで、センター前へと転がっていった。
ノーアウト、一二塁。
ベンチの中で、反撃への機運が高まっていく。観衆も、女子への声援を再開する。
続く優は、打ち損じてゴロ。だが二塁手を深いところまで追わせた結果、進塁打にはなり、一死二三塁。
そして三番美紀が、歴戦の強者のごとく悠然と左打席に入る。
初球を鋭く強振! セカンドの頭を越え、ライト前のヒットになりそうだ。
走り出そうとして、しかし、三塁コーチャーズボックスでシャーロットがストップをかけているのが目に入る。
振り返れば、ライトの高橋が予想以上の俊足を飛ばしている。下手をすればフライとして捕球してしまいそうな勢いで。
やむなく塁間で足を止めると、落下地点には一歩届かず、しかしワンバウンドでグラブに収めた。
そこから動作に何の遅滞もなく、レーザービームのような返球が本塁に走る。
啓子は送球動作を見るなり三塁へ引き返していたが、確かにそれは足の速くない啓子では絶対に間に合わないタイミングだった。三塁が塞がっている以上弥生も二塁に足止めとなり、一死満塁。
四番の一美が打席に入ると、前の三打席を見た観客の間からかすかな期待のどよめきが起こる。そこには紛れもない四番打者の風格があった。
だがそれはバッテリーも同様。初球は大きく外れるボール球で様子を窺いにかかる。
けれど、満塁で押し出し四球を与えるわけにもいかない。勝負の勢いから言っても、男子の女子に対するプライドという観点から言っても。
そして二球目、梓に対して五割の打率を上げた一美が、ストライクゾーンに入る緩い変化球などを、むざむざ見逃すわけもない。
左中間のど真ん中を突き破るライナーを見た瞬間、弥生はがむしゃらにホーム目指して走り出した。キャッチャーが構えてはいるが球はまだ来ない。あの当たりでそう簡単に返球が来るわけがない。
啓子に続いてホームを踏み、五対五。
振り返れば一塁にいた美紀も三塁を回ったところ。でもセンターの球をショートがうまく中継し、本塁クロスプレーでタッチアウトとなった。
二死二塁。
しかし雪絵はスローボールにタイミングを合わせ損ね、ピッチャーフライに終わった。
七回裏の先頭、三輪の当たりは一二塁間を抜けようという強い打球。
――させるか!
弥生は必死に食らいつき一塁送球、間一髪でアウト。
「ワンナウト! ワンナウト!」
髪を振り乱して声を張り上げる。ウエーブのかかった今の長い髪も嫌いじゃないが、こんな時はひたすら煩わしい。
同点なのに、心穏やかではいられない。切迫感が声に出る。応じる声にも不安と焦り。
梓の調子はまだ回復しないまま、クリーンナップを迎えてしまった。そのことを誰もが知っているからだ。
まずは三番白石。さっきの三輪と同じ右打ちの打球が、三輪のそれよりはよほど速く、啓子と弥生の間を通過していく。
そして四番の渡辺は、キレの悪いスライダーを軽々とセンターへ運んだ。
本式の野球場ならバックスクリーンを直撃していそうな、ツーランホームラン。七回表に追いついた二点が、再びあっけなく突き放される。五対七。
五番の長谷川はきれいにセンター前へ打球を運ぶ。ホームランを打たれた後とりあえず心機一転を図ろうとした守備に、また嫌な感じを与える新たなランナー。
一死一塁で、六番の堀内はバントの構えをした。
残り二イニングでリードは二点。送りバントをする可能性も、なくはない。梓が投げると同時にサードから一美がダッシュで前へ詰め寄る。
と、堀内はバントだろうがバスターだろうがし放題の、梓のすっぽ抜けた球をわざわざ見送って、「ごくろーさん」と一美に笑いかけた。好意など微塵も存在しない、もがく相手を嘲るニヤニヤ笑いだった。
「…………!」
そのせせら笑いを見た瞬間、弥生の目に不意に涙が湧き上がりそうになった。
仲間が、野球が、自分がいいように踏みにじられているような憤りと無力感がこみ上げてきた。そんな風になるのは、男子野球部との因縁が生じて以来、初めてのことだった。
無論、意地でも実際に涙を流したりなどはしなかったが。
二球目、普通に構えた堀内に、梓は急角度で落ちるフォークを投げ込んだ。本来の調子に近いそれを、堀内は引っかける。面食らったような顔で一塁に走り出す。
ショートの雪絵が猛然とダッシュして、素手でゴロを掴んだ。そのまま二塁上の弥生にトス。二塁フォースアウト。
スライディングをかけてくるランナーの足をジャンプでかわしながら、一塁へすぐさま送球。若干逸れたが、啓子が長身を活かしてグラブに収め、一塁もアウト。
ダブルプレー。チェンジ。
「ナイスショート!」
練習では散々繰り返してきたが試合では初めて決めたゲッツー。たとえ二点差を追う苦しい展開でも、打者が不快な野郎でも、連係プレーが巧くいった喜びまで消せはしない。だから引き上げる時に雪絵に声をかけると、小声で答えが返ってきた。
「……ナイスセカン」
「何元気をなくしていますの? 礼儀知らずでデリカシーに欠けていて野球以外にはとんと知恵の回らない雪絵さんから無駄な強気が消え失せたら、ほとんど何も残らないも同然ですわよ」
「ぺらぺらうるせーよ、蓮っ葉お嬢が!」
普段にやや近い反応を引き出せて、弥生は内心少し安堵した。
この試合、雪絵には都合の悪いことばかり起きている。一人だけここまでノーヒットな上に、再三チャンスを潰している。守備でも先制点のランナーを出してしまったエラー。
普通に慰めても、真理乃やシャーロットじゃあるまいし雪絵が素直に反応するわけもない。だから弥生としては、とにかくいつも通りに接することしかできないのだった。