一回裏
文字数 2,330文字
内野の頭を超えたと思った美紀の打球がなぜかライナーで捕られてダブルプレー。その前の自分の打球にしても、抜けると思ったゴロが急に失速してしまった。
先取点を取れていておかしくないはずが、終わってみれば無得点。梓のピッチングに悪影響が出なければいいのだが。
「沈んじゃ駄目だよ、優ちゃん」
通りすがりに優の背中をぽんと叩きつつ、梓がマウンドに向かう。
「……いけないいけない」
優は首を振った。気にしてるのは自分自身だ。梓に転嫁してどうする。
気持ちを今度こそ切り替えて、優はポジションについた。
男子野球部の一番バッターは三年の橋本。足の速い左バッターで、去年からの一番だ。
「よろしくな、お嬢ちゃん」
三月、優が『猛』として卒業した時には感極まって涙をこぼした橋本は、今の優をせせら笑うように見下ろして言った。
「プレイ!」
審判の声とともに、梓が投球動作に入る。梓にとっては基本のサイドスロー。
左打者の脇腹を抉り込むようなスライダーが走り、橋本は大きく身をのけぞらせた。
しかしボールになったわけではなく、ストライクワン。梓と弥生が二軍のバッターと勝負した時同様、曲がりの大きさに橋本も翻弄されたのだ。
もちろんそんな誤認識は一軍メンバーともなればすぐに修正してくるだろうが、梓の武器は変化の大きさだけじゃない。
二球目。同じ変化をしながら、内側低めへボール半個、ずらしたスライダー。同じ球と錯覚した橋本は打ちに行ったが、芯では捉えられずボールを引っかけた。
打球は力なくフェアグラウンドを転がり、セカンドの弥生の真っ正面に。すんなりとさばいてボールは一塁へ。ワンナウト。
橋本は頭をかいて苦笑しながらベンチへ戻って行く。一球目と同じボールを打ち損じたと思い込んでくれれば、次の打席も簡単に抑えられそうだ。
二番バッターがこれまた左打席に入る。一年生の三輪。中学で鳴らしたらしいが、早くもキヨミズでレギュラーの座についているということは、その実力は本物なのだろう。
「相変わらずコントロールいいね、あの子。審判役で見る分にはいいけど、打者として対戦すんのは怖い怖い」
飄々とバットを構えながら、三輪は気軽な口調で優に話しかけてきた。
二ヶ月前の対戦をしかと覚えている以上、あの時使ったというカーブやスライダー、シュートは予想の範疇にあるわけだ。一球しか見ていないシンカーやナックルも警戒していることだろう。
優のサインに梓が肯き、球を投げる。
指先から放たれたのは、バッターを挑発するがごときスローカーブ。緩い球にタイミングを合わせ損ねればボテボテの内野ゴロ。見逃せばストライク。
「いただき!」
だが、三輪は惑わされずに巧く当てた。打球はサードの一美の横を抜けていく。
と、ショートの雪絵が回り込んで逆シングルで捕球。すぐさまファーストに送球する。
間一髪、三輪の足よりボールの方が速かった。ツーアウト。
「ナイスショート!」
「あれぐらい誰でも捕れるっての」
セカンドの弥生が声をかけるけれど雪絵はそっぽを向く。いつものことではあるが。
そして三番の白石を迎えた。
優は左打席に入った白石を見上げた。自分の後を継いで正捕手となり、主将となった男を。極度の負けず嫌いが珠に傷だが、気が合う後輩と思っていた、そんな男のことを。
「……今の野球部、楽しいですか?」
優は、思わず白石に訊いてしまった。
「勝つために効率良く最大限の努力をしている。努力自体は楽しくないが、勝てば楽しい思い出になる」
優の疑問を少女の拙い抗議とでも受け取ったか、白石は素っ気ない口調で応じた。
「勝てるんですか?」
「現時点ではまだ大西には勝てない。だが先発ピッチャー三人を使えるレベルまで徹底的に鍛え上げ、他にも手駒を増やせば、八月には勝負になる」
使えるレベル。手駒。そんな言葉をチームメイトに使う白石の姿に対し、優は無性に悲しくなった。
「大西のことなんて知りませんよ。私たちに勝てるつもりでいるんですか?」
声が尖る。白石が打席を外し、虚を突かれたように優を見下ろす。
「……当たり前だ。こんなところで立ち止まってられるか」
「私たちも、そう思ってます」
プレイ再開。初球のサインを出す。
梓がオーバースローから投げ下ろした初球は――外へ逃げるシュート。
初見のオーバースローに対し、恐らく一美と同様の思考を辿った白石は、落ちる変化球を想定したスイング。それが空を切り、ワンストライク。
テンポ良く二球目を投げさせる。同じオーバースローから、ボールになっても構わないきわどいコースへのナックル。バッターもそう思ったか見逃してストライクツー。優は揺らぐボールをこぼしそうになるが、何とかミットの中に収めてみせた。
さらにすぐさま三球目。今度もオーバースロー。今度はスライダー。そして白石は空振りで三振。スリーアウト、チェンジ。
「考えすぎる人? 三球目は一球遊んでくるとか思ったのかな」
マウンドから下りてきた梓が優に訊ね、優は肯いた。
「その気になれば反射神経で打てるのに、なまじ頭が回るもんだから。オーバースローの意味づけにもしばらく悩んでいてくれれば楽できるんだけど」
「それは無理じゃないかな。次の打席もフォークを温存するのは難しい気がするよ」
「……そうね」
遅いボールとさらに遅いボールしか使えない配球で挑む以上、変化球のバリエーションで相手の目先をごまかし通すしかない。フォークも重要な選択肢としていずれは披露する他なくなるだろう。