エピローグ

文字数 920文字

百間、手の中の、龍之介からもらった硬貨を見つめ、
たもとに入れようとして、何かにふれ、とり出す。
先刻、龍之介からとり上げたマッチ箱だ。

百間、マッチ箱を見つめ、つぶやく。
『侏儒の言葉』。芥川龍之介。

「見たまえ。

 高い木々の梢に、鳥はもう静かに寝入っている。

 もし幸福ということを苦痛の少ないことのみとすれば、鳥はわれわれより幸福であろう。

 けれどもわれわれ人間は、鳥の知らぬ快楽をも――
 希望をも、心得ている」

百間、マッチ箱を少し持ち上げて、つづける。
『思うままに』。芥川龍之介。
「人間は、パスカルの言葉によれば、ものを考える葦である。
 葦はものを考えないかどうか――それは私には断言できない。
 しかし葦は、人間のように笑わないことだけは、確かである」
百間、はっきりと顔を上げ、マッチ箱を掲げて、つづける。
『後世』。芥川龍之介。
「ときどき私は二十年の後、あるいは五十年の後、あるいはさらに百年の後、
 私の存在さえ知らない時代が来るということを想像する。
 そのとき私の作品集は、うずたかい埃[ほこり]に埋もれて、
 神田あたりの古本屋の棚の隅に、むなしく読者を待っていることであろう。
 いや、ことによったらどこかの図書館に、たった一冊残ったまま、
 無残な紙魚[しみ]の餌となって、文字さえ読めないように破れ果てているかも知れない。
 しかし――」
「私は、しかし、と思う。
 しかし、誰かが偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、
 あるいはその一篇の中の何行かを読むということがないであろうか。
 さらに虫の好い望みを言えば、その一篇なり何行かなりが、
 私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるということが、ないであろうか」

「私は想像する。落莫[らくばく]たる百代[ひゃくだい]の後にあたって、

 私の作品集を手にすべき、一人の読者のあることを。

 そうしてその読者の心の前へ、おぼろげなりとも浮かび上がる、

 私の蜃気楼のあることを」

百間、マッチ箱をそっと耳まで持ち上げ、カラ、カラ、と振ってみる。

どこでもない場所。
薄明かり。

溶暗。






――完――
photo by Kosuga-Desuga
(Theatre Unit SALA, 2012)
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登場人物紹介

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892-1927)


作家。若くしてデビューし、一躍文壇の寵児となる。

世間一般のイメージとは違い、じつはお茶目で甘えん坊。一方で気遣いの人でもある。

数年にわたって不眠に悩まされている。

芥川文(あくたがわ ふみ、1900-1968)


龍之介の妻。八歳のとき、叔父の級友である十六歳の龍之介と出会う。のちに龍之介から熱烈な求愛を受け、彼に嫁ぐ。
天才肌の夫、その養父母と伯母、三人の息子という一家を支える主婦だが、性格はおっとりして、いつまでも少女のようなところがある。
龍之介の不調に心を痛め、親友のます子に助力を求める。

平松ます子(ひらまつ ますこ、1899-1957)

文の幼なじみで親友。良家の生まれで才気煥発、明るい性格。だが、弟妹たちを親代わりとなって育てるなど無理を重ねたため、体を壊し、自身の結婚はあきらめている。
文の悩みに親身になって応え、龍之介の秘書的な仕事を献身的にこなす。

内田百間(うちだ ひゃっけん、1889-1971)


龍之介の作家仲間で親友。本名は栄造(えいぞう)。岡山県出身。
飄々とした語り口の幻想怪奇譚という無二の作風で、のちに一世を風靡し、太平洋戦争も高度成長も生き抜いて昭和に大往生をとげるが、この物語の時点ではまだブレイク前。数少ない理解者の一人が龍之介だった。

菊池寛(きくち かん、1888-1948)


龍之介の作家仲間で親友。本名は寛(ひろし)。香川県出身。
文藝春秋社を興し、のちに芥川賞と直木賞を立ち上げるなど、実業家としても活躍する。兄貴肌で面倒見がよく、感激屋。
友人代表として龍之介の弔辞を読む運命にあることを、この物語の時点ではまだ本人も周囲も知らない。

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