第一幕第二場(2)

文字数 807文字

(文に手をあずけたまま)わかったわ。私が、貘になればいいのね。
(顔をあげて、ます子を見る)
(原稿を手に取り)そう……、このお話のつづきは、きっとこんなふうになるんだわ。
(原稿を読む)「貘は悲しそうに返事をした。『どうかあなたの夢を食べさせてください』。おれは」……
(即興でつづきを創る)おれは思わず、こう答えた。「願ってもないことだ。おれは近頃、やけに苦しい夢ばかり見る。歩いても、どこへも着かぬ。叫んでも、誰にも届かぬ」。
(文をふりかえって、ほほえむ)「だから貘よ、どうか、おれの悪夢をぞんぶんに食べてくれ。そしておれを、眠らせてくれ、ゆっくりと、やすらかに」。
文、感動と尊敬をこめてます子を見つめる。
(てきぱきと)それで、どうしたらいいのかしら、ご主人の相談に乗るって。
え? ああ……、ときどき、うちに来て、主人と、話をしてほしいの、小説や俳句のお話なんかを。
そんなことでいいの? ほかにも私でお手伝いできることがあれば、なんでもおっしゃって。
(心から)ます子さん。ありがとう。
でもねえ、ちょっと気になるんだけど。
え?
(原稿の一か所を指し)ここ。「雪のような毛をほのめかせた貘が」って書いてあるけど、ねえ、貘って、白くないわよね。黒いわよね?
そうだったかしら?
二人の背後に、貘、登場。
内田百間である。
ただ、頭の上に、例の山高帽ではなく、今は貘がちんまりと乗っているのだ。
ます子も文も、この百間=貘には、気づかない。
いやあね、思い出してよ、(自分で思い出して)あら、ちがったわ。半分白で、半分黒よ。ね?
ええ……?
顔が白くて、おしりが黒いのよ。あら? それとも、顔が黒くて、おしりが白かったかしら?
うーん……
(文を揺すって)ねえ、どっち。
うーん……、(思いついて)しましま?
しましま……?
ます子と文、首をかしげて、退場。
photo by Kosuga-Desuga
(Theatre Unit SALA, 2012)

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登場人物紹介

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892-1927)


作家。若くしてデビューし、一躍文壇の寵児となる。

世間一般のイメージとは違い、じつはお茶目で甘えん坊。一方で気遣いの人でもある。

数年にわたって不眠に悩まされている。

芥川文(あくたがわ ふみ、1900-1968)


龍之介の妻。八歳のとき、叔父の級友である十六歳の龍之介と出会う。のちに龍之介から熱烈な求愛を受け、彼に嫁ぐ。
天才肌の夫、その養父母と伯母、三人の息子という一家を支える主婦だが、性格はおっとりして、いつまでも少女のようなところがある。
龍之介の不調に心を痛め、親友のます子に助力を求める。

平松ます子(ひらまつ ますこ、1899-1957)

文の幼なじみで親友。良家の生まれで才気煥発、明るい性格。だが、弟妹たちを親代わりとなって育てるなど無理を重ねたため、体を壊し、自身の結婚はあきらめている。
文の悩みに親身になって応え、龍之介の秘書的な仕事を献身的にこなす。

内田百間(うちだ ひゃっけん、1889-1971)


龍之介の作家仲間で親友。本名は栄造(えいぞう)。岡山県出身。
飄々とした語り口の幻想怪奇譚という無二の作風で、のちに一世を風靡し、太平洋戦争も高度成長も生き抜いて昭和に大往生をとげるが、この物語の時点ではまだブレイク前。数少ない理解者の一人が龍之介だった。

菊池寛(きくち かん、1888-1948)


龍之介の作家仲間で親友。本名は寛(ひろし)。香川県出身。
文藝春秋社を興し、のちに芥川賞と直木賞を立ち上げるなど、実業家としても活躍する。兄貴肌で面倒見がよく、感激屋。
友人代表として龍之介の弔辞を読む運命にあることを、この物語の時点ではまだ本人も周囲も知らない。

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